予報通りの雨の日↑ ↓期待外れの晴れの日 (前編)
今日は最悪な晴れの日だった。
志樹は午前中の経験だけでそう決めつけると、ソーラーパネルの下で仰向けになりながら日陰に思考を埋める。
志樹は回想する。どうにも隣の席の住人は一筋縄ではいかない。
「へー、『ストーカー』のくせに相変わらず国語の成績はいいんだ」
時刻は早朝。それは関係ないだろ、という志樹の小さな反論も、続けざまに響いた嘲笑に掻き消される。
「ま、理系教科はバカサギがどんなに頑張っても負けないけどね」
バカサギとは、馬鹿と傘木を掛け合わせた志樹のあだ名らしい。
「俺は文系だ」
「文系も理系も関係ないでしょ。だいたいあんた、どこ志望するのかも決まってないんだしさ」
「……まだいいだろ」
志樹は頭を掻きながら、朱音の持つ成績表を見る。教室に入った時、駆が忘れ物だと渡してくれたものを横から奪い取られたのだ。
朱音の言う通り、志樹の成績表に記された志望校には、文系理系どちらでも受けられるようなレベルの大学名が連なっている。言うまでもなく、どれも志樹が本当に行こうと思っているところではない。
「なーなーお春さんよ。いちいち成績のことでさ、志樹をそんな弄るこたぁねえだろ」
各々の席に座り、向かい合う二人を仲介するように、駆は困ったような表情で立っていた。
「何を今さら。いつものことでしょ」
「……まあ、確かにお春嬢が志樹に国語で負けるのはいつものこ――ヘボフッ⁉」
「余計なことは言わんでいい」
古典(一限目)の教科書を瞬時に丸めて、朱音は駆を廊下に叩き付けるように殴った。そんな無慈悲な力が、駆に廊下とのキスを強いる。なににしても、三人の中ではよくある光景であった。
「てか、クラスで二番目くらいに勉強してないっぽいバカサギが、なんで私に国語で勝てるの? こんなこと、この世にある最大の不条理だとは思わない?」
「……なあ、オレの扱いの方がよっぽど不条理っぽくね?」
「知るか」
立ち上がりながらこちらを見つめてくる駆に、志樹は片目を瞑って出来るだけ目を合わせないようにした。
「つかさー、んな国語の一つや二つ良いじゃねえか。人は誰でも良いとこと悪いとこがあって、みんなそれでも生きていくスタイルなんだぜ?」
良いこと言っているつもりだろうが国語は一つしかないぞ、という突っ込みを、志樹は申し訳程度に心の中でしておいた。
「良くない。バカサギに負けるのは気に食わないし」
そう言うと、朱音は頬を大きく膨らませた。
「ったく、プライドが高いねえ。んなキリキリ切り詰めて生きてても、良いこたあ何にもねえぞ?」
「そもそもあんたたちが自由すぎるの」
「ま、そういうスタイルだからな」
達観したようにそう言う駆に、朱音は唇を尖らせて少し言葉を詰まらせると、間もなく大きなため息を吐いた。傍から見ても、呆れたという様子である。
「つか、そろそろクモコー祭だぜ? 勉強のことなんか忘れろ、っとまでは言わねえけどさ、こっちも頑張ろうぜ。なっ?」
朱音は聞く耳を持たないように、頬杖をついている。
「……あんたは一年の時からそればっかじゃん」
「最後なんだぜ?」
「……だからなに?」
先程まで志樹に言葉を浴びせていた時とは対照的に、大層機嫌の悪そうな表情を浮かべる朱音。含み笑いを隠せない駆へ、睨みつけるような視線を向けている。
「いや、お前もたまにはやりたいことをやりゃいいんじゃねえの、って思うんだよな」
「なんでそんなこと……」
「オレはさ、まあ志樹もかもしれねえけど、よく分かってるんだぜ」
何の話だと、あえて怪訝な表情を浮かべる志樹。そんなことを知ってか知らずか、駆は軽快に笑っていた。
「お春さん、部活止めてから元気ないじゃねえか。お前のことだからさ、どうせいろんなこと我慢してんだろ?」
確かにそうかもしれないな、と志樹はなんとなく思った。
そしらぬ顔で駆の話を聞きながら、志樹は何気なく朱音へと視線を移す。
その時だった。志樹は眠たげな目を少しだけ見開く。
ほんの一瞬、それでも確かに朱音の顔にくっきりと表れた、『悲しげな、それでも何処か悔しそうな表情』。そんな予想外の反応に、志樹は疑問に思うことよりも先にただただ驚いた。
「クモコー祭の有志企画だかに出れば良いんじゃねえの? 部活で一緒にやってたやつ集めたりしてさ。オレはそこらへん詳しくねえけどよ」
他方、駆は何も気付いていないように後ろの方を見ている。どうやら駆の話で、クラス全体の話題がクモコー祭についてのことに切り替わっていたらしい。
そもそもクモコー祭とは、毎年六月下旬に行われる雲野高校の文化祭である。志樹が思うに、高校の文化祭など何処も一部が盛り上がるだけで、やはり学校中に青春漫画のような活気が溢れることはない。駆や旭子のような人間がいくら頑張っても、一つの高校に染み付いた雰囲気は完全に変えることは出来ないのだ。
当然か、志樹にはクラスのあちこちから聞こえる言葉の数々も、自分はそんな行事と関係ないということを遠回しに言っているように思える。
「面倒くさい」だとか「どうでもいい」だとか、そんな直接的な言葉が本心のように浮かんできた時には、志樹は彼らと対比するように俯き加減の朱音を見つめていた。
「お春さん、元軽音楽部だよな? 良いんじゃね。かつてのボーカルが現部員と組むとかさ。ロマンあるじゃねえか。オレは見てみたいな。だって、お前が――」
「あんたたちには、関係ないでしょ」
駆の言葉を遮るように、朱音の言葉が鋭く、それでも何処か震えているように響いた。
そこで駆もようやく気付いたのか、彼の顔に浮かんでいた笑みが少しずつ消えてゆく。
「それは私だって……でも……」
「えっ、と……? お春さん?」
そのようなことを言い終わる前に、朱音は顔を伏せていた。髪で隠されて、その表情は窺えない。
泣いているのだろうか。志樹はやはり無表情でそう考える。
戸惑い始めた駆を尻目に、自分は傍観者だといった様子で志樹は朱音を眺めていた。
「……う」
「えっ? う、うっ?」
そんな時だった。
「う、う、うあああああああああああ‼」
朱音が顔を上げ、前触れもなく叫び出したのは。
「うるさい! うるさい! このストーカー! バカサギ!」
「え、えっ? オレじゃなくて? 志樹が? オレはともかくコイツはなんか言ったっけ……」
全くもって正論である。
「あああ、関係ない! 全部こいつが悪いんだから! なにもかーも全部! バカサギがストーカーだからなの! バーカ!」
突き付けられた指先に対して、意味が分からない、と反応に困る志樹。それよりも彼の意識は、他のところから聞こえた囁きに向けられていた。
聞こえようとさせるのか、聞こえまいとさせるのか、どっち付かずの会話はどれもせせら笑いを含んでいる、変な誤解をされなければいいな、と志樹は天に願うように思った。
「ええと……お、お嬢。オレは意味分かんねえんだけど……」
「分からんでいい!」
朱音はそう言うと、素早い手つきで手元の紙を折り出す。そういうことを特技としてやっていけばいいんじゃないか、と誰もが思うような器用さである。
間もなく、朱音の指先に紙飛行機が摘ままれ――丁寧に折られたそれが宙を舞い、開いていた窓から出ていくまで、およそ数秒。
「あっ」
「えっ」
しかし、紙飛行機の材料が志樹の成績表であるということに彼らが気付くのは、一秒もかからなかった。
「え、えええええええええ⁉」
駆の絶叫が響き始めた時には、志樹は慌てて立ち上がり、窓から首を出して辺りを見渡していた。
紙飛行機もとい志樹の成績表は、春風に乗ってまるで羽を得たように飛んでいた。作りの悪い紙飛行機ならまだしも、朱音の作成したものは妙に完成度が高い。
志樹の成績表は、主人とは対照的に気持ちよさそうに春の陽気を満喫し、やがてグランドの遠い端っこにゆっくりと着地した。
「……さあ、取ってこい!」
「いや、志樹じゃなくてお前が行ってこいよ!」
正論であるが、今の志樹には考える余裕すらないのだ。
第一にあの紙は志樹のものであり、放っておくことでもすれば彼が怒られることは避けられない事実なのである。志樹は青い顔の下でそのことを重々承知していた。
「――オイ‼ 窓から物投げたヤツ、今すぐ出てこい!」
下の階から響く生徒指導の声と、歓声のように大きくなった笑い声に後押しされ、志樹は駆け足で教室を出ていく。
「お、おい! 志樹⁉」
駆の呼び声にも構わず、志樹はただ走った。
背中に浴びせかけられる嘲笑いと始業のチャイムが交差する。
これから様々な悪いことが待ち構えていることを、志樹は焦り顔の内で想像した。
階段上で、驚いたような顔の跡部担任とすれ違う。何か言われたような気がしたが、その時の志樹はただ構わず走り続けた。
今日は最悪な日だ。不意に圧し掛かった脱力感、その中に埋められた一つの表情を、志樹は未だに思い出せずにいる。