静かな追想↑ ↓ゆるやかな追走
あたかも雨が室内に遊びに来たかのように、喫茶店にかかる唯一のサウンドは彼女の吐息。志樹はそれを耳にしながら、西側の端っこの席に座り、今日も一人で勉強をしていた。最初に座った席も同じで、また窓際のそこが志樹の指定席じみたものになっていることを彼が自覚しているのかは分からない。
英単語帳を目前に広げながら、志樹は喫茶店のマスターをちらと見る。無口なマスターは何処を見るということもなく、ただ視線を前に向けて立っていた。相変わらず自然に浮かべられたその微笑みからは、彼が誰かを待っているようにも映る。
志樹はそれだけ確認すると、一度視線を英単語に埋めた。傍らにある一杯のコーヒーはぽつりと置いてあり、ほとんど口を付けられていないような状態だ。
ほんの数歩ほど先の距離でも、志樹には延々と続いているように思える。そんな感覚とは矛盾するように、彼の耳元で聞こえたのは紙を捲る音と『ときあめさん』の呼吸音。
すると志樹は、顔を不自然なほどに真っ直ぐ単語帳へ向けながら、横目で反対側の席を確認する。そうして自分に関心が向けられていないことを感じ取ると、彼は顔を真横へ徐々に向けていった。
当の『ときあめさん』は、何も知らないといった様子で手元の文庫本へ視線を向けていた。身に羽織る淡い水色のレインコートと、厚底のブーツは志樹にとって彼女の正装だ。
彼女の茶色の長髪を濡らさないよう、外では覆っていたフード。そこから滴るほんの僅かな雫は、『ときあめさん』が此処にいた時間を物語る。雨雫に映えそうなそのしとやかな笑みは、物音一つではそうそう崩れそうにない。
『ときあめさん』は意識を本の世界へ向けて、完全に読書に没頭しているようだ。彼女がいったい何の本を読んでいるのか、志樹は知りえない。この距離では本の文面を読むことは当然出来ないし、花柄のブックカバーがされているせいで題名すら確認できないのだ。
そもそも志樹は『ときあめさん』のことをよく知らない。どうしてか気になる、という自分の気持ちは分かるだけで、他のことは何も知らないのだ。
志樹の記憶によれば、初めて会った時も『ときあめさん』は本を読んでいた。そのことに気付いた志樹が視線を向けた時、彼女もまた志樹を見つめていた。
目があったのはほんの一瞬の出来事で、『ときあめさん』は志樹に向けて微笑みかけると、間もなく本へ視線を落としたのだ。
もしかすると、『ときあめさん』は志樹だけでなく、駆とゆくるを含めた志樹たちを見つめていたのかもしれない。
結局のところ、志樹が思うところは全て妄想に近い。不思議な雰囲気のする一人の女性にあれこれと想像を巡らせて、彼にとっての『ときあめさん』を作り上げているにすぎないのだ。
『ときあめさん』という名称も、当然のことながら彼女の本名ではない。元より志樹が喫茶店に通い詰めて、雨が降る時だけ『ときあめさん』が読書のためにくるということを発見した時に、思いつきで付けたあだ名のようなものだ。
志樹が心の中で彼女を呼ぶ時に使う名前。そこにセンスなど必要ない。彼にとっての記号的な意味があればいい。忘れ去られた記憶の中にあったからだとか、ましてや前世での記憶を覚えていたからだとか、そんな少女漫画も笑うような理由を、志樹は特につけようとも思わなかった。
純粋に雨が降る時に現れるから『ときあめさん』。
志樹にとってはそれだけで理由は十分であり、だからこそ数歩の距離を縮められないことを彼は痛いほど分かっていた。
志樹が『ときあめさん』を雨の降る空を眺めるようにぼうっと見つめていると、彼の中で幾つかの言葉が繰り返される。それはつい先ほどの旭子の口にしたことだったり、駆の笑いを交えた話であったりした。
すると、志樹の表情が複雑なものになった。口元が緩んだり、眉が吊り上げられたりと、笑っているのか憤っているのか彼自身にも分からなくなる。鈍色のわだかまりは、どのように自らの心情を表現しようか迷い始める。
そんな志樹の気持ちを決定づけたのは、不意に浮かんだとある少女の言葉だ。
――ストーカーだと。自分はストーカーであると。
彼女の定言は偏見というものである。不平に歪んだ唇の何処かで志樹はそんな非難を示した。そもそもあの女子生徒、春谷朱音は志樹にやたらと難癖を付けてくる。
朱音が志樹を嘲るのは、単に彼女が志樹のことを知らないだけだ。そう思い、志樹は思考を途切らそうとする。
しかし、志樹の顔面に張り付いた不機嫌さは拭えない。加えてその表情が全ての根源であるかのように、様々な思考が浮かんでくる。
時にそれらは、自身へ向ける懐疑であったり、冷たい自嘲であったりした。己を咎めようと強い熱を持ったそんな思考に対して、彼が思いつきの反論で手を覆い、何度も遠くへ放り投げようとしても、その分だけブーメランのように返ってきて自分の胸に鋭く突き刺さる。
詰まる所、志樹はなにもかも分かっていた。現状を説明するのに募る言葉は必要なく、それだけで十分だったのだ。
そんな風に志樹が虚空を見つめて考えていたからなのだろう。
椅子を引くただの音が、志樹にとっての目覚ましとなったのは。
志樹が慌てて目を伏せると、手を乗せていた机が少しだけ揺れた。忘れ去られていたコーヒーが左右に大きく踊る。吹聴に机に飛び散った僅かな黒い雫は、仕返しに志樹を嘲笑っているかに見えた。
そんなこともお構いなく、志樹は揺らぐ瞳にひたすら英単語を映そうとしていた。
高鳴る志樹の心臓。それは雨音をも掻き消そうとするように、彼の聴覚の中心で悲鳴を上げている。
そんな鼓動を背景に、自分へ何者かの声が向けられないか、志樹は一心に不安に思う。だが、それが単なる杞憂だったように、雨音が正しいリズムで志樹の耳をやおら打ち始めた。
そうして志樹の世界は、また静まり返る。彼の頭の中を支配していたはずの考えは一時の安心感の中に消えて、何処かで思い起こされようと、夕闇の内で密かに策を巡らせる。
すると終了の合図と言わんばかりに、深い残光を告げる音楽が小さく響いてきた。
志樹はゆっくり立ち上がり、鞄に勉強道具を詰め込む。その手の覚束なさを誰にも悟られないよう、なるだけ落ち着いてするのを試みた。
最後に志樹は、ちらと『ときあめさん』を見た。
彼女はいつも通り本を読んでいた。それだけだ。
確認が終わる間もなく、志樹は何食わぬ顔で喫茶店の扉を開ける。
古びたベルが、「またね」と志樹に手を振るように、揺れた。