標識アート部部室↑ ↓旧校舎一階廊下
旧校舎一階、志樹は外に晒された通路を歩くと雨の冷たさをその身体全体で感じ取った。前髪が額にへばりつくのを覚えながらも、中途半端に屋根が付いた廊下の上で、彼は傘を差さない。
志樹は標識アート部と描かれた看板を背中に、カバンの中にある折りたたみ傘を確認する。これで帰宅する時にずぶ濡れになることはない。そもそも、志樹にとってずぶ濡れになることは滅多にないのだ。理由は彼の視線の先にある。
まるで自分の靴を見つめるように視線を足元に向ける志樹。それは人ごみの中で、行く先の迷った視線を下に向ける彼の癖に似ていた。
そうして志樹が下を向いたせいなのだろう。
「少年よ、夢は見つかったか?」
一人の少女から声を掛けられ、彼が気付くのに遅れたのは。
やおら顔と眉を上げて、志樹は怪訝に口を開く。
「……クラーク博士?」
「おおよそそのような感じだ。彼の場合は野望を抱け、だったがな」
いつの間にか目の前に立っていた女子生徒に、志樹はゆっくりと足を止めた。無視をしていてもいいと志樹は考えていたが、ちょうど出ようとした玄関口に立ちはだかれては、そのようなことは出来ない。
冬の惰性で続いた長袖の黒いセーラー服、その上で腰まで流れる黒の長髪が、あたかも服の色と混じってしまわないように雨風に巻かれて踊った。そんな黒のカーテンを飛んでいかないように束ねるのは、雲野高校の旧制時代の名残を示す学生帽だ。また、黒い古ぼけた帽子は生徒会長の証でもある。
外崎旭子。志樹の前に立つ彼女は、三年一組に所属する雲野高校の生徒会長である。
此処における生徒会長の同義語としては、成績優秀、または容姿端麗が存在する。だが、勉学特進第一クラスである彼女にとって、両方を満たすのは簡単なことのように志樹には思えた。
「下を向いて歩いている友達がいれば、偉人の言葉の一つや二つ真似たくなるさ。私のような人間に胸を打つような強い言葉は作れないからな。そうは思わないか? 傘木くん」
「……さあ」
満面の笑みを浮かべながら、志樹に問いかけてくる旭子。
一方の志樹はあからさまに鬱陶しいといった様子で、彼女から眼を逸らしていた。
「君は相変わらずだな。言っておくが、無口とクールは全くの別物だぞ。ああ、これも誰かの言葉を真似たものだが……」
そこで言葉を区切ると、志樹の様子をようやく悟ったように旭子は沈黙する。しかし間もなく、何故か彼女は一段と口元を緩め、再び口を開いた。
「まあいいか。ところでバンダナは何処か知っているか?」
バンダナとは旭子が使う駆の呼び名である。
「部室だ」
分かっているくせに、と思いながら志樹はぶっきらぼうに答えた。
そもそも志樹は旭子のことがどうにも苦手なのだ。目的の駆との接点があるせいか、執拗に関わってくる。しかも彼女の気持ちに裏がないことが余計に厄介だ。
旭子は様々な生徒会活動に駆の力を借りてきた。三年生の送別会や体育祭など、校内のイベントが盛り上がったのは二人の協力の賜物なのである。旭子の行動力は、他人に元気を与える駆の作品と相まって、多くの平凡な学校生活にまるで青春漫画のような活気を与えてきた。そのことは志樹もよく体験し、理解できる。
だから、志樹は分かるのだ。旭子は純粋に駆を仲間と思っており、その駆の幼馴染である志樹は仮初めではない本当の友達のように慕っていることを。
「やっぱりか。『急ぎの中』ありがとうな、傘木くん」
旭子はそれだけ言うと、早足で志樹の横を通りすぎていく。
そんな彼女の行動の速さに、志樹は歩きだし始めることすら忘れていた。
「そういえば傘木くん」
背後から聞こえた声に気付くまでは。
「言わずもがなだろうが、『彼女』は不満がっていたよ。ただ、一人の女性にうつつを抜かすことについて、私は止めろとは言わない」
瞬間、猫背にやや曲がった志樹の背中がピアノ線のようにピンと張りつめる。その他、自らの身体で示された彼の心情、またはその表情について詳しく語る必要はないだろう。
他方、旭子は志樹より数メートル離れた足を止め、振り向いて彼を見つめていた。そうした状態で彼女が紡ぐ言葉は、雨音に紛れないよう、志樹にははっきりと響くことだろう。
「とどのつまり、私はバンダナに賛同しているというわけだ」
「……誰から、訊いた?」
「春谷さんからだ。四組の教室にバンダナを探しにいった際、彼女と少々話をしてな。君も薄々気づいているだろうから、隠す必要はないと思う」
擦れ声でどもりながら言う志樹に対して、旭子は透き通るような声ではきはきと物を言う。それでも、旭子の話し方に冷たさや威圧的なものを志樹は感じなかっただろう。
あくまでも友達、一人の傘木志樹と旭子は向かい合い、真摯に会話をする。志樹の推測通り、旭子には裏表がないのだ。
「……それで、俺を止めるのか?」
「いいや? そもそも私はバンダナと同じ考えだ。行けばいい」
「じゃあ、どうして?」
そして、素直な旭子だからなのだろう。
「私はただ、春谷さんの考えを伝えにきただけだ。それだけさ」
相変わらずの笑顔で、率直な思いを伝えられるのは。
「君たち二人は友達であるのなら、もっと想いを交わすべきなんだ。そして、不満に思うことがあるなら互いにぶつかり合えばいい。私はそのように思う」
熱弁を振るうように、それでもなにかを強要させるようとする感じはなく、旭子は言葉を口にする。
そんな旭子の芯のある言葉、心を揺さぶる口調には彼女がこれまで積み上げてきたことが確かに滲み出ていた。詰まる所、説得力があるのだ。
「そんなことは出来ない、と君は思うかもしれないがな」
旭子の視線の先で志樹の背中が雨風に揺れた。確かな音を立てる彼の呼吸も乗じて、ことさら図星というように。
それから僅かな時間、沈黙が二人の間を流れた。ただただ、雨の打つ不安定な韻律が静けさを断とうとする。
だが、そもそも二人には雨のことが忘れさられていたように思う。一言を生む間もない一瞬の中で、志樹はただ下を向いていた。
「とにかく長く引き止めて悪かった」
遠慮なく沈黙を破った旭子は、それでも悪びれた様子で言う。
いや、むしろそのように切り出したのは、志樹のことを考えてのことだったのだろう。雨脚は少しずつ弱まっているようにも旭子には見えたのだ。
「……すまないが、最後に明日の天気を教えてくれないか?」
旭子がそう言い終わる前に、志樹は右足に穿いた靴を脱ぎかけの状態にしていた。誰が見ても慣れているように思うことだろう。
それから、志樹は自らの上靴を片足で放り上げた。先ほどまでの話を彼が全く気にしていないように、その行動には迷いがない。
靴は空中で弧を描き、玄関前に落ちる。続いて一度二度と地を跳ねる間、彼はその行く末を想像することだろう。
一方で旭子は、志樹の囁くような声を聞いた。だが彼がなにを望み、なにを選択しようとしたのかを旭子は聞き取ることが出来なかったのだ。
逆にだからこそ、彼女の中にかける言葉は決まっていたように思える。
「友よ、夢は見つかりそうか?」
旭子の小さな笑みの先、まるで首を振るように、内実雨は強く降り続けていた。