夕方の事務的HR↑ ↓彼らの放課後
「な、なっ、なんだこりゃあああああああ⁉」
雲野高校旧校舎に悲鳴とも知れぬ大きな声が響き渡った。
授業のための新校舎、その隣に佇む古い校舎は主に生徒らが部活動をするために解放されている。
いつもであれば体育系の部活の掛け声が旧校舎の音響を担当しているのだが、今日は天候が悪いということで水を打ったように静まりかえっている。一人の男子生徒の声でさえも酷く響いたことだろう。
そもそも雨の日は大抵の人は気分が優れないものである。こんな天気の悪い日に調子よくいられる生徒といえば、この『標識アート部』の部員に違いない。
「おいおいおい……マジかよ。これ総合どころかほぼぜーんぶ負けてねえか? いや、うん、まあ、国語は置いといてだな……おい、数学マジ勉とか止めろよ。こりゃあ……ギリで負けたとかそういうレベルじゃねえぞ……」
旧校舎の一角で、二つの紙を交互に見比べて一人頭をかかえる生徒、夏山駆の顔面は青空も顔負けの真っ青に染まってゆく。学ランの上、彼の首に巻かれた白地のスカーフは、ペンキやインクやらの汚れに塗れているが、駆は今こそ自分の顔にその汚れを塗りたくりたい気分だろう。
「こっ、これはいつもよりひど……師匠。ルール変更は無しにした方が良いんじゃないですか? いや、本当、裏目に出たとかそういうレベルじゃねーですよ?」
また、駆の隣に座る小柄な少年、小路ゆくるは二つの用紙そして駆の顔色を交互に見つめながら、心配げに言う。
ちなみに標識アート部の部室は物が散乱していて汚く、その間を縫うようにして一つの長机といくつかの椅子が部屋の中央に置かれている状況だ。八畳足らずの部屋では、ペンキやら過去に何処かに置いていた標識が僅かな空間を埋めていた。
また、部屋に一つだけあるゴミ箱でさえもいつゴミ捨てを行ったのか分からないような状態であり、長机の上には先程までは上機嫌だった駆が口にしていたパンの袋が無造作に置いてある。
駆はそのパンの袋を摘み上げて、虚ろな目で見つめると、間もなく勢いよくそれを握り潰した。
「いや、ルールはもう変えねえ。約束はきちんと守っていくスタイルだ」
そう呟くのと同時に、駆の瞳と顔に正しい色が戻っていく。自分の信念になにかと『スタイル』という言葉を付けるのは、駆の癖でもあった。
「おお! さすが師匠ですね! ……でも、今回の負け分を『従来のルール』においてタコパン換算すると、2タコパンなんですよ」
「に、2タコパン……」
タコパンとは駆が手に握る袋に詰められていたパンである。
それは雲野高校の売店で売られている大人気なパン(正式名称タコ焼きパン、名状しがたい怪物……を可愛らしくデフォルメしたデザインのパン生地の中に名前の通りタコ焼きが入っているという惣菜パン)であり、値段は百円と安価なのだが人気故に一日に一個手に入るか入らないかのパンであった。
志樹と駆は模試や学期末テストの賭け事において、このタコパンを賭けて勝負していた。勝負を始めた当初は良かったのだが、あまりにも駆が一方的に負け続けるため、今では借金もとい借タコパンが十数個ほど溜まっている状況なのである。
以上のような借タコパンをどうにかするため、二人の間に勝負に関する新たなルールが結ばれた。簡単に言えば、賭けるタコパンの数を増やすということである。
「あ、師匠。これは従来のルールでの話です。ええと……今回は負けた科目分だけタコパンをおごる、というルールでしたよね?」
「……お、おう!」
無論、ルールになにをしても駆が勝てることにはならないのだが。
「えっと、志樹先輩が勝った科目は国語に英語、日本史と僅差で負けた数学……あとは……」
「――ッあああ! も、もういい! ゆくる、もう言うな!」
「ええっ? でも、言わないと師匠がおごらなきゃいけないタコパンの数が分からないような……」
そこまで言いかけると、駆はそれを制するようにゆくるにだけ聞こえる声で囁きかけた。
「……あれだ、あれ。幼馴染同士だからこそ誤魔化していけるスタイルだ」
元より、此処までの話の流れを聞いて誤魔化せるわけがない。
「……それって、誤魔化すというよりは許してもらうじゃないですか。あと、なんか卑怯くさ……」
「いやいやいや‼ そ、そんなことないって! ただ志樹に許してもらうだけだって! そういうスタイルだって!」
しかし、それが許すかどうか決める方に聞こえていれば台無しというものである。
「な、なっ! 志樹は許してくれるもんな? お前はそういうスタイルだもんな?」
「……昔、自分のスタイルを他人に押し付けるなとか言ってませんでしたっけ?」
「ああ、良いよ」
その時、部屋の隅から響いた声に、駆は隠しもせずにガッツポーズをしていた。
彼の隣で、ゆくるは苦笑いを浮かべながら駆を見つめる。「これで今月の部費は大丈夫」だとか、「安心して描ける」だとか、駆の口から漏れる言葉はなんとも彼らしかった。
「いやー、今回の模試はちとやっちまったからなー」
「……初耳ですけど、なにかあったんですか?」
「実はやってる途中に眠っちまってさ……」
「それはですね、自業自得っていうんですよ。というか、別に今回に限ったことじゃないじゃないですか」
「へいへい。まっ、後のことを気にしても仕方ねえさ」
自分から言い出したんじゃないですか、というゆくるの返答にも今の駆は耳を貸さない。模試の結果を机の隅に退けると、駆は足元や机の上に散らばっていたものを目の前に集め出した。
「さあて! どうせ会長からクモコー祭の頼みごとされるだろうしさ、今のうちにいろいろ終わらしとこうぜ!」
「まったく……調子がいいというかなんというか……。まあ、そういうところが師匠らしいんですけどね」
そう言うと、駆の隣でペンを手に取るゆくる。
駆が言ったように、学校のイベントがある度に、アートなるものでその手伝いをしようというのが標識アート部のコンセプトである。
つい先ほどまで緩んでいたゆくるの表情も、仕事道具を手にした途端に真剣な表情に変わった。駆もまた同様にである。
ゆくるはそうして紙にペンを付け、ようやく部活を開始しようとする。しかし彼は、寸前で何かを思い出したように顔を上げた。
「あれ? 志樹先輩、今日は用事あるんじゃなかったでしたっけ?」
ゆくるの視線の先で、志樹が座っていた。
志樹は窓から外を見つめていた。ゆくるは知らないが、今の今まで続いていた二人の掛け合いにも、志樹は終始無表情でいたことだろう。駆の問いに反応したことも、不思議に思われるくらいである。
志樹はゆくるに声をかけられると、彼の方を一瞥して「ああ」とだけ返した。それからはまた、窓を見つめ始める。
「志樹もやりたいこと見つけたんだよな」
駆は考えごとをするように眉間に皺を寄せて言う。机に置いたキャンバスを目の前にしながら、彼は後ろ手で潰れたパンの袋をゴミ箱に投げ捨てた。
「そうなんですか?」
首を傾げたゆくるに、駆は「おう」とだけ答える。その顔は何処か嬉しそうに笑っているようにゆくるには見えた。
そんな中、志樹は前触れもなく立ちあがった。膝元に乗せていたカバンを肩にかけると、すぐに部屋の出口へ歩いていく。その様子は、まるであらかじめ行動を決められた機械のようにも映る。
「ん、じゃあな志樹」
「ああ、また明日。ゆくるも」
「えっ、あっ……さようなら、志樹先輩」
ゆくるが言い終える前に志樹は部屋から出ていってしまった。
それから間もなくして、部屋の中に小さな笑い声が響き出す。
「アイツ、やっぱり嬉しそうだよな」
駆の言葉に、ゆくるは素っ頓狂な声を上げる。
ゆくるには志樹が不機嫌そうであると映っていたのだ。
すると、駆は机の隅に退けていた紙を一枚摘み上げてゆくるに手渡した。
「これ、忘れ物。んで、嬉しそうだっつう証拠」
ゆくるは戸惑いながらもその紙を見つめる。それは先ほどまで話題に上がっていた模試の結果だ。成績の具合から、志樹のものであることは一目で分かった。
「……良くも悪くも平均点ってところじゃないですか? 失礼かもしれませんが、お世辞にもいい点数を取れたとは……」
「ああ、違う違う。そういうことじゃねえのさ」
駆は笑いながら、首に巻いていたスカーフを折りたたんでバンダナのように頭に巻き付けた。これは駆が気合いを入れるためによくすることだ。
「アイツにとって『気になることは言葉通り上の空』なのさ。わざわざ目立つとこに置いておいたものを忘れるほど、何か楽しいことでも待ってるんだろーな」
「……辛いことがあるとは捉えないんですか?」
「んなわけねえよ」
軽い調子でそう断言する駆は、何か知っている様子だ。
「ま、なんにしてもあいつが楽しそうでオレは嬉しいよ」
「……そう、なんですか」
そうだ、と言う駆は既にペンを手に取って何かを描き始めている。
これ以上はなにも訊き出せそうにないと悟ったゆくるも同様に、作業を開始した。
間を置いて、静かになった部屋の中で雨音が聞こえてきた。ゆくるはふと視線を窓に向けて、何気なく天気を確認する。
雨が降っていた。半刻前のような小雨ではなく、傘を差さなければ瞬く間に濡れてしまうような強い雨が。
「ああ、志樹に明日の天気を訊いときゃよかったなあ」
そんな駆の呟きが雨音とは関係ないようにはっきりと響いた。