↓春雨日和↓
ここ雲野町の天気は変わりやすい。
それこそ山の天候や思春期における心の動きほどではないが、とにかくそのような噂が立っていた。科学的な根拠だとか信仰による裏付けだとか、そのようなものがあるわけではない。町の外からやってきたいわゆるよそ者にはそれが感覚的に分かるらしいのだ。
以上の馬鹿げた話を、生まれも育ちもこの雲野町である傘木志樹は幼い頃に聞いたことがあった。いつ聞いたことなのかは彼も覚えてはいない。元より彼は、いつのことであるのか思い出そうとしたことはなかった。詰まる所、噂の内容以外は興味がないということなのだろう。
噂の上に乗っかったこの雲野高校は、いわく言い難いどんよりとした色を持って建っている。地域に馴染んでいるといえばそれまでなのだが、なににしても志樹の偏見である。意味はない。
ひとつぶ、ふたつぶと、まるで雨粒を数えるように、窓からぼんやりと空模様を眺める志樹の眼は酷く虚ろだ。仮にも高校生であるのならもう少し光を映していてもいいだろうに、と言われてしまうような瞳である。実際に担任の教師からそのように言われたのだから、志樹本人にしてみれば勘弁してほしいといったところか。
このようなことを合間に思い出しながら、志樹は顔をしかめたり無意味ににやけたりして取り留めのないことを考えていた。
だからなのだろう。
三年四組出席番号七番、窓際の最後席に座る上の空な傘木志樹、成績は中の下、根暗などと散々な呼び方を今現在されていることに気付かないのは。
よって、本人にしてみれば大きな迷惑かもしれないが、咄嗟の判断で軽快な音をその頭上で響かせられたことは、優しさによるものと形容すべきなのかもしれない。
「……っつう……」
不満のこもった呻き声を洩らしながら、志樹は視線を上げた。ふと視界を横切った棒状の何かは、やや厚みのある丸められた冊子に違いない。
「先生、呼んでる。さっさと行け。『ストーカー』」
隣から着席の音と同時に聞こえた囁き。明らかな悪意を持って強調された呼び名に、志樹は顔をしかめた。
「……うるさいな」
せめてもの反抗といった非難の言葉は、周りで起こっていた笑いに掻き消される。そこでようやく志樹も気付いたのだろう。頭を撫でていた手で、長く伸びたボサボサの髪をそのまま掻き回すと、彼はようやく席を立つ。
他方、志樹の隣の席に座る女子、春谷朱音は志樹から明後日の方向へ視線を向けていた。仮初めではない黒のショートカットの下、その顔に張り付いて隠せない含み笑いは、彼女が勝ち誇っているように映えることだろう。
そんな朱音の様子を知ってか知らずか、志樹の唇が不平に歪む。また、彼の細まった両目は日頃のものに起因するのみではないだろう。
そうして淡々と歩を進めた志樹の顔には、気恥ずかしさなど欠片もなく、濁りのない不機嫌さだけが滲み出ていた。その心情を間近で感じ取ったのは、教卓の前に悪びれもなく立った志樹に、一枚の紙を手渡した跡部信介担任である。
「……ったく、またお前か……」
跡部は笑いながら言う。
だが、クラスの生徒たちがからかいの意味で笑っているのに対し、跡部の笑いには志樹への呆れや不安のようなものが明らかに潜んでいた。
「すいません。ぼーっとしていて」
志樹は事務的にそう言うと、担任の顔を一瞥した。その視線は紙面に移っている。むしろここでは、逸らしている、といった方が正しいのだろう。
跡部は知っていた。志樹の瞳は紙の上に並んだ数字や文字を一つとして映してはいないことを。
「ああ、もう三年生なんだからちゃんとしろ。成績の方もな」
「はい」
短く返事をすると、志樹は踵を返して席に戻ってゆく。
多少なりとも動揺すればいいのに。跡部はそう思う。異様なまでに影も暗さもない志樹の様子に、跡部は一種の不気味ささえ覚えたのだ。
跡部は志樹の後ろ姿を見つめたまま、何か言葉を掛けようとおもむろに口を開く。次になぞられる言葉は、彼に対する激励か、あるいは警告か。小さな溜め息を洩らした後、少し間を置いて声を上げる。
「……次、河口」
その時に、跡部の唇から滑り出したのは別の生徒の名前だった。彼の閉じた片目は、厄介なものを見たくないように存在している。担任としてはあるまじき態度なのだが、それを自覚している跡部にとっても仕方ないと思えていたのだ。
そもそも誰にも悟られていないのだから別に良い、と跡部は思う。
当事者である志樹も関係のないといった様子で、今は進行方向に伸びてきた首を鬱陶しそうに押し込んでいた。
「でさでさ、どうだったんだよ? 志樹」
「……あとで」
そのような短い会話を耳にしながら、跡部は手に持つ十数枚の紙へ視線を移す。『山井塾 全国統一模試』と書かれた部分に目を通すと、目の前に立つ生徒へ一言二言かけてから手渡した。
跡部は生徒が席に戻っていくのを確認すると、次の生徒の名前を呼ぶ。それから紙を手渡し、「頑張ったな」などと声をかける。言葉には脱色した教師としての熱情を乗せるのだ。担任としてこれが業務的になってはいけないと考えるが、無意識にそうなってしまう。
志樹が自分の席に座った時、跡部は窓から外を見ていた。それはほんの一瞬のことだったが、偶然にも志樹の動作と重なる。
雨が降っていた。体を濡らすまでもない小雨が。
そんな何気ないことを確認すると、跡部は模試を返す作業へ戻る。
HR終了間近、志樹の顔に笑みが浮かんだことを跡部は知らない。