表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨傘日々和(レイニーデイズ)  作者: Y氏
はるあめにちわ
12/12

逃避行↑ ↓ほんの一時の停留所

 朱音は扉を突き破るように開ける。まさに死に物狂いといった様子で、胸に傘を抱いたまま床を大きく転がった。四肢のいたるところに強い痛みが走る

「――っつ……」

 苦しげな呻き声を上げながらも、それでも朱音はまた立ち上がり走り出していた。傷だらけの体の、またはぼろぼろに崩れ落ちた厚化粧の心の、何処にそのような力があるのかは彼女自身も分からない。

 ただ、前に向かって走り続けなければいけない。使命感にも似たそれが朱音の背中を押す。勿論、その想いに意味があるのかということは今まで彼女は考えたことはなかった。

 だからこそ、朱音は自分に考える時間を与えるために此処へ辿り着いたのかもしれない。

 まるで安いホラー映画のゾンビのように上半身をだらしなく垂らした朱音。そんな彼女が視線を上げたのは、飛行機が上空を通り過ぎる音を不意に聞いたからである。

 目を向けた先、目前の高い網状フェンスを申し訳程度のフィルターとし、伸ばせば手が届きそうな場所で、大きな厚い雲が朱音を見つめていた。普段はあまり人が立ち入らない屋上で、どす黒い雲の浮かべた無表情は、流れゆく時の中でさえも静かに停留している。

 この雲は一種の鏡のようだ。朱音がそのように気付いた時にはその足は止まっていた。

 瞬間、轟々(ごうごう)という雲の強い吐息に蹴落(けお)とされたように、朱音は思わず尻餅をつく。限界だ、というのが最初に思い浮かんだ言葉であった。

「追いっ……ついっ……た……っ……ひいっ」

 間もなく、朱音の背後から声がする。誰なのか言うまでもないだろう。

 今にも死にそうな顔の志樹は、それこそ本物のゾンビのように長い髪をだらしなく揺らしながら、ふらふらと朱音の元へ歩く。そうして、朱音の近くで足を止めるのかと思えば、まるで出口を塞ぐようにすぐに膝をついた。結局追いつけない、といった様子である。

 そんな行為が朱音をこれ以上逃がさないため、という理由があるのならまだ恰好は良いのだろうが、そもそも酷く荒い呼吸をする志樹にそんな考えがあるとは思えない。

 曇り空の下の沈黙を二人の荒い息遣いが埋める。決してやましい意味ではなく、まさに青春漫画の一ページとして存在しているのだから、二人にしてみても驚きといったところだろうか。

「なん……でっ、傘、持ってっ……たんだ……」

 高く連なった階段を一気に登ったせいか、どうにも足が震えて動かない。志樹はそう考え、情けないながらも四つん這いで朱音に近づく。

 下手をすれば、いつもより早い呼吸も合わさって如何わしいシーンにも見えたことだろうが、今の二人にはそのようなことは関係ないように思えた。

「あ……あんたが、バカ……だからなの……っ」

「い、意味が……分からない」

 そう言いつつも、志樹はさり気なく朱音の手から傘を取り上げておいた。意外にも無抵抗な彼女に、志樹は少しばかりの違和感を覚える。

「あんたが……私の近くにいるから……そのせいなの……っ」

「ああ……どうせいつものこと……なんだろ……今日くらい、酷いのは……まあ、初めてだった……けどな……」

 そこで朱音は表情を歪める。ふらつきながらもゆっくりと立ち上がる志樹を横目で見たまま、顔は空に向けていた。強迫観念のように浮かんだ様々な感情も、そちらに向けていれば有耶無耶になっていくような、そんな気がしたのだ。

「ほら……戻るぞ。あんまり遅くなるのも……アレだ」

 イマイチ良い言葉が浮かばないという様子の志樹は、申し訳程度に朱音へ手を伸ばす。一方の朱音は、志樹のもう片手に握られる傘を一瞥すると、そっぽを向くように空へ視線を戻した。

「……いい。……自分で、立てるから」

「……ん、そうか」

 志樹は伸ばした手を元に戻すよう、おもむろに頭を掻く。

 そういえば朱音と二人きりで話すのはこれが初めてかもしれない、と志樹は何気なく思った。

 そもそも朱音の今回の行動は、本当にいつものようなことなのだろうか。志樹は傍らに座る彼女の背中を眺めながら考える。しかし、あえて作り上げたような膨れ顔の朱音に、何も訊き出すことは出来ないと志樹は適当な理由をつけ、思考を停止させる。

 それは単に面倒だからではない。なんとなくであるが、踏み入ってはいけない気がしたのだ。

 二人の呼吸がある程度落ち着いた今、静けさを埋め合わせるのは冬の寒さを尾のようにつけた冷たい風だ。強くもなく弱くもなく、二人の間のほんの僅かな隙間を遊び心満天に吹き抜ける。

 時間も時間だからだろうか。旧校舎の他のところから声は聞こえない。この時間帯の屋上に、志樹は初めて訪れたことに気付く。

 ――『初めて訪れた』。そこで志樹の中に不意に疑問が生じた。

「……春谷。お前、屋上の鍵の番号、知ってたのか?」

「……はあ? 屋上に鍵なんてあるの? てか、私、屋上に来るの何気に初めてかも」

 その時点でなにか嫌な予感はしていたのだが。

「ま、なんにしても私が来た時には開いてたかな。……けど、それがどうかしたの?」

「……いや」

 まさかなあと思い、志樹は思わず苦笑いを浮かべた。

 気持ち悪い、という朱音の率直な感想にも構わず、志樹はとりあえず出口へと振り返ろうとする。

 その時だったのだ。

「――――⁉」

 『出口の扉が誰にも気づかれないよう、独りでに閉まった』のは。

 志樹は疲れを忘れたように、屋上の出口へ駆け寄る。ドアノブに手をかけて回し、意識的に扉を開こうと試みた。

「……? どうかしたの?」

 朱音の怪訝さへの返事は、その時の志樹の中では既に決まっていたように思える。

「……扉が、閉まってる」

「……えっ」

 志樹の突然の告白に、ようやく今置かれている状況を理解したのか、朱音の表情が見る見るうちに変わってゆく。

「えええええええええええ⁉」

 まるでこの町の空模様のような彼女を眺めながら、志樹はどうしようかということを考え始めていたのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ