↑とある春の日の交差点↓
素直な言葉で表せば、朱音は焦燥に駆られていた。
勿論、隣の席の住人に対してどうしても強く当たってしまう彼女には、その理由が『彼』にあるということは認めたくなかったし、加えて自分が動揺しているということも信じたくはなかった。
それでも自分が集中できていないのを、朱音は分かっていたのだ。
視界の端、机の傍らに掛けられた雨傘に、どうしても気を取られてしまう。目前の問題が頭に入らない。雨傘に弾かれた雨が、今現在自分の答案用紙に降り注いでいるような気が朱音はしていた。
朱音は唇を強く噛む。教室がこんなに静かでなければ、自分の頬を引っ叩きたいと思えるほどだった。
今日は授業日を全て使った模試の日だ。こんな大切な日に本気を出せないなどあってはならない。そう思えば思うほど、周りから響くシャープペンシルの音に、朱音は飲み込まれてゆく。神経を削り取るような鋭い音に、朱音の瞳は震えるように揺れていた。
「…………っ」
もし声を出せるのならば、隣の住民に怒鳴ってやりたい。勿論、それはただの八つ当たりであるし、朱音自身もそれを分かっていた。
だが、一方の志樹は何の気なしに問題を解いている。彼の筆記用具の音がくっきりと聞こえた時、朱音はふと朝のことを思い出した。
「あれ? なんだよ、その傘。置き傘か?」
「……いや、此処に来る途中で渡された」
朝のホームルームに少し遅れてきた志樹は、マークシート記入の僅かな時間で駆の質問に答えていた。間近にいた朱音は、その会話を否応なしに耳にしていたのだ。
「渡された? 誰にだよ」
「誰って……あの人、かな」
「ん? あの人って……」
間延びした声の先、駆は何か勘付いたように声をあげる。その時には、単語帳を見ていたはずの朱音は彼らに視線を取られていた。
「へー! 会ったのか! なんか話したのか?」
「まあ、いろいろと、少しだけ」
とりわけ朱音が見ていたのは、呟くように答える志樹の横顔。なにか嬉しそうだ、と朱音には見えていた。
そこで彼女も会話に入ろうという衝動に駆られたのだが、すんでのところで止めることになる。駆が教室の中で傘を開き出したからだ。
「おー、コレはいい傘……っつうわけでもないな」
「ん、そうか?」
模試の直前に傘を開いて何を話しているのだと、ツッコミを入れたくなる気持ちよりも単純な呆れの方が朱音の中では強かった。
「いやーどっからどう見てもフツーの傘だろー。……ん? なんか繋ぎ目みたいなとこあるな」
「……繋ぎ目?」
「ほら、ココ。ビミョーにスキマ見えね? ちょっとグラグラすると思ったら……なーんだ、こりゃ一度折れたヤツとかそういうスタイルの――」
「おい。二人とも邪魔だ。教室で傘を差すとか小学生か」
案の定、教卓の方から跡部の声が飛んでくる。言葉こそは冗談を含んだそれだが、口調からはやれやれといった感じが滲み出ていた。「勉強しろ」と言葉が続かないのは、彼からの二人の評価がありありと分かるようでもある。
すいませーん、と駆は軽い調子で言うと、傘を閉じて適当に纏める。跡部が問題用紙配布の準備をしているのを見てか、駆は慌てた様子で自分の席に戻っていった。
そんなことを傍から見ていた朱音は、大きくため息を吐く。手元にあった単語帳をしまうと、ふと横目で志樹を見た。
もう模試が始まるというのに、志樹は駆が適当に丸めた傘を丁寧に直している。そんな呑気な彼に、一言二言かけてやろうと朱音は思ったが、かける言葉が思いつかず止めた。
自分と彼は違うのだ。そのように決めつけて朱音は前を向いた。
彼と自分は何が違うのだろう。追憶の延長線上で朱音は自問する。
――答えはでない。
ただ、胸の奥で迷う自分の表情と、志樹の嬉しそうな顔が無意識に対比される。
止めてくれ。そんな心の中の叫びが、朱音を無理やり模試へと引き戻す。
反射的に顔を上げ、朱音は時計を見た。時間がない。
シャープペンシルを持つ手を強める。頭にかかった雲を退けるよう、朱音は今までのことを忘れるのを心がけた。問題用紙を凝視し、ようやく浮かんだ答えを必死に保持して、朱音はペンを動かす。
すると、不意に机の上から消しゴムが落ちた。誰かに拾ってもらうための心の暇は、朱音には残されていない。
ただ思わず泣き出しそうになるのを、彼女は独り歯を食いしばり耐えていた。