毒のある花
聖騎士さん主催の全ジャンル制覇企画、「T.G.C」参加作品です。
車窓から見える灰色の空、あれは私の心中と変わらない。私、ワット・レイズリーは三日前、精勤してきたロンドンの新聞社を首になった。きっと真面目過ぎたのだ。記事の捏造に意見してこの次第である。
ついでにせせこましい都会から抜け出して、のんびり過ごす事にした。大学時代の友人が新興のリゾート、ブラックプールの開発を手がけている。既存のリゾートは金持ちの娯楽であるが、そこは休日の労働者が詰め掛ける場所らしい。以前届いた手紙には充実感が漲っていた。私は羨ましいと思ったのだ。
気が付けば、車窓はレンガの街から長閑な光景に変わっていた。揺れる青い麦、白点の羊、そして彼方の山並みはゆるりと流れる。酷い臭いなどしない、眺めているだけで心が洗われる。
「相席、宜しいですか?」
声を掛けられたのは、ありふれた田舎の駅だった。この時私はホームのご婦人を眺めていたので、内心で舌打ちをしてから目をやった。
声の主は仕立ての良い服を着た紳士だった。歳は私と同じくらいだろうか? 30の半ば辺りの男盛りで、背は高く顔は柔和だ。そして異国の女性を伴っていて目を見張った。
「ええ、どうぞ。」
彼に釣られて笑顔で返すと丁寧に会釈を返された。ご婦人の方はこれまた深々と頭を下げるので非常に慌てた。
”ゲイシャガール”噂に聞いた言葉を思い出した。彼女は美しい花の描かれた衣装を着ていた。確か”キモノ”とかいう、東の果てジャパンの民族衣装だったはずだ。黒い髪を上でまとめ、表情の読めない顔をしている。紳士に促され私の正面、窓側の席に座ったものの、いきなり窓の外へと目を向ける拒絶の態度だ。一方、通路側の紳士は手にしたボストンバッグを下ろすと、気さくに話しかけてきた。
「失礼ながら、どちらまで?」
「ブラックプールまで行く予定です。」
「ブライトンでもバースでもなく? 失礼、あちらの客は些か……。」
なるほど、このような紳士から見れば下賤な場所に映るのだろう。
「いえ、友人に会いに。観光開発をしていまして。」
「ああ、なるほど。」
納得顔で頷く彼に、私は逆に苦笑いだ。
「そちらはどちらまで?」
「私は家に戻る所です。貿易商の知人から貴重なものを手に入れましてね。」
彼は足元の鞄を嬉しそうに軽く叩き、私は自分の目を疑った。鞄が勝手に動いたのだ。とても不自然に。
「あの、よろしければ何が入っているのか教えて頂けませんか?」
「とても特殊な異文化の食材です。ですが驚くほど美味なのですよ。逃げると困るのでお見せるのはご容赦下さい。」
「逃げる? ひょっとして生きたままですか?」
「ええ、新鮮な方が美味なのです。」
紳士はヒース・ウェイバリーという名の貴族で、奇しくも歳は同じだった。それ故か、人懐っこい印象のせいか、話はよく弾んだ。彼は美食家であるらしく、美味いもの珍しいものに目が無いそうだ。そしてとても博識だった。若い頃には貿易船に乗って世界を回った経験を持ち、多くの不思議な文化に触れたらしい。一言も話さない彼女とも、その旅で出会ったそうだ。
彼女はジャパンの生まれで、オサトという名だそうだ。だが出会いはボルネオで彼女の過去も興味深そうだ。イングランド語を話すらしいが、会話の機会は訪れるのだろうか?
無職になった件まで話してしまうと、屋敷への招待を受けた。どうせ目的地までは距離がある。宿代わりに、と言われてしまえば断る理由は無い。むしろ貴族のお屋敷に招かれるなど光栄の至りだ。
降りた駅には、二頭立ての四輪馬車と荷馬車という二台の馬車が迎えに来ていたが、何れの男もアジアンな顔立ちであった。
彼らは貨物車からたくさんの荷を受け取り、荷馬車へと積み込んでいた。一方、四輪馬車は私達三人を乗せ、先に屋敷へと滑り出す。
馬車に揺られている間も列車の中と変わらない。ヒース氏は軽快に喋り、オサト嬢は沈黙を守ったままだ。
珍しく面白い異国の話に非常に心の躍る時間だったが、最後に彼は神妙な様子で言った。
妻が心を病み、隔離しているので刺激しないよう離れには近付かないで欲しい。阿片で穏やかにさせてはいるものの、暴れて奇声を発する事もある。耳にしても気にしないで欲しい。
彼の様子は淡々としたものだった。心を蝕む原因はわからず、医者に見せても一向に回復しない。正気に戻って欲しいと願いながらもお手上げで、既に諦めているらしい。
お邪魔するのは迷惑では? と、断ったのだが逆に是非にと譲らなかった。たまには刺激でもないと息が詰まると彼は言う。確かにそうだ。だから私はここにいるのだ。
しかしこのように明朗な紳士のご夫人が乱心とは、神の采配は何故かくも不思議で残酷なのか、私はそう心を痛めた。
屋敷に着き、馬車から降りた私は異様な光景に息を飲んだ。国際色豊かと言えば聞こえが良いのだが、使用人が異国の者ばかりというのはとても居心地が悪い。もちろんこの”異国の者”には英国人ではないという意味以外に、白人ではないという意味もある。
黒や黄の有色の肌を持ち、髪と目は黒い。だが表情の読めない澄まし顔の彼らは、何れも勤勉だった。イングランド語は申し分なく、ヒース氏の命に正確に従っていた。私も幾人かと話したが、何れも流暢に言葉を操った。
荷を解いた私は早速屋敷の探検に出た。離れにさえ近付かなければ、自由にして良いそうだ。不安が胸にあるものの、目にした珍しい品々は好奇心を刺激する。ここは使用人だけでなく調度品も異国情緒に溢れていた。美しい文様の陶器や鮮やかな仮面、芸術的な武具に用途不明な美しい形状の物体。窓の外にも不思議な形の東屋が見える。
それらに一々魅了され、驚嘆しながら歩き回ると角を曲がるオサト嬢を目かけた。すっかり高揚していた私は、更に彼女とも話をしたい衝動に駆りたてられた。彼女はとてもミステリアスで、彼女の故郷もファンタスティックに満ちている。しかし追いつく前に彼女は部屋の中へと消えてしまう。
サムライ、ハラキリ、ニンジャ、噂に聞く東洋の神秘の真実を知りたい。その機会は今そこにある。そして今を逃せば次の当てなどない。腹を決めノックをした。声が聞こえ、返事があったと思い戸を開けたのだが、思わぬ光景を目にする事になる。
そこには三人の人間がいた。まずはオサト嬢、次におそらく荷馬車の使用人。……失礼ながら私は東洋人の顔が判断付かない。ここで見かけた男性は同じお仕着せであるから、”おそらく”という事になる訳だ。そして、鞄から転がり出かけた浅黒い色の子供。
子供は裸に近い格好でぐったりしたまま動かない。記憶違いでなければ、その鞄はヒース氏が手にしていたものだ。
私が子供に気を取られていると、二人はじっと私を見ていた。一気に恐怖が押し寄せて一歩退くと男が何かを言った。知らない言葉だ。嫌な汗が滲み、動悸は激しい。そして私は矢も盾もたまらずその場から逃げ出した。
庭に飛び出し、東屋に隠れて呼吸を整えていると悲鳴のような声が聞こえた。それは私を更に追い詰めたが、それだけだった。暫くして声のした方向を窺うと、そちらには小さめの屋敷が見えた。あれが例の離れだろうか? どうやら私は不味い方向に来てしまったらしい。本能的判断で向きを変えるとヒース氏がいた。
「おや、こんな所においででしたか。でもこれ以上は……。」
彼は列車の中で見た時と変わらない。けれど今はこの笑顔が恐ろしい。
「ええ、もちろんです。この東屋が珍しいので見に来たのですが、あちらに離れがあるようなので、引き返そうと思っていた所です。」
「そうですか、では一緒に参りませんか? 食事の支度もそろそろですよ。」
気が付けば辺りは薄暗く、良い匂いが漂っていて血の気が引いた。彼は鞄を叩いて、”食材”と言ったのだ。
私は胃炎を患っていると偽り、食事を辞した。代わりにパンと野菜のスープを求めた。彼は残念そうにしていたが、食べられる訳がない。
逃げ切れる気もしなかった。捕まればその後は? 考えるのを止めたかった。なのに頭は次々と恐ろしい場面を展開していく。
まったく何て所に来てしまったのだろう? 今並んで歩く彼に誘われ、光栄に感じたあの時の自分……なんて愚かなのだろう?
立派な食卓に三人だけが座る。主人のヒース氏とオサト嬢、そして私。給仕の者が数人、やはりいずれもこの国の人種には見えない。
何故? それは当然の疑問であろう。彼は人種差別の信奉者であろうか? そうであれば一応の説明はつく。彼等が渡来の奴隷であれば、従順なのも頷ける。柔和な顔は仮面で、その裏には冷徹な部分が隠れているのかもしれない。オサト嬢が口を利こうしないのも恐れての事か? 何より、あの二人の関係は何なのだろう? 考える程に恐怖は募る。
私には希望通りのパンと野菜のスープ、二人には煮込み肉が置かれている。”一晩煮込んだ”という説明があったので、あの子供でなくてホッとした。ではあの肉は何だろう? 確認などしたくはないが、気になるのも事実だった。
肉には苦もなくナイフが刺さる。ソースの絡むそれを、彼らは実に美味そうに口へと運んだ。
「ワットさん、煮込みを運ばせましょうか? もし体調がよろしければではありますが?」
この心労では胃痛が本当になりそうだ。丁寧に断り、誤魔化すようにスープを口に含むと驚いた。これは美味い。見た目は素朴だが味は素晴らしい、初めての味だった。厨房も異国の者が取り仕切っているのだろうか?
夕食は終わったものの、緊張はまだ続く。
「どうです? 少しやりませんか?」
並んで掛けてスコッチを揺らし、紫煙を燻らせる。バーカウンターまであるとは、この屋敷にはそつがない。酒も葉巻も逸品で……とても無念だ。
「オサトとはボルネオで出会ったという事は話しましたね。」
彼女の身の上は悲惨だった。貧しさ故に親から売られ、見知らぬ解らぬ土地に運ばれた。それがボルネオだ。
二人は娼館の傍でぶつかり、彼女に酷く噛みつかれたそうだ。宥めて話をすれば彼に非があった。彼女の拠り所を踏んでいたのだ。弟から貰ったという紙を折って作った舟、それが彼女を支えていた。
侘びとして身請けをし、国へ帰してやるつもりだったのだが、彼女はそれを拒絶した。そして今、傍にいる。
ヒース氏と別れ部屋へと戻る途中、物音に驚かされた。それは戸の開く音で、彼女の仕業であった。
「これからお休みですか?」
やっと聞けた。その声は高く細く、印象によく残る。ランプの灯りに浮かぶ彼女は豪奢なレースの寝巻き姿だ。
「はい。オサト嬢は眠れないのですか?」
「いえ、お伝えしたい事があったのです。」
ヒース氏の話で印象は変わったものの、ドキリとする。
「何でしょう?」
「夕餉のお肉はビーフですよ。」
疑念は晴れたが混乱した。一体どういうつもりだ?
「何の事でしょう? 肉がどうかしましたか?」
「鞄の娘は無事です。ヒース殿は食用にとして連れて来ましたが、実はこっそり逃がしました。」
彼女は微笑み、更に続けた。
「あの味音痴は、何を食べても気付きはしません。」
「美食家ではないのですか?」
「いえ、あれはもうゲテモノ食いです。珍しければ味は二の次。それより、あなたの召し上がったスープ、美味しかったでしょう?」
「ええ、確かに。今まで味わった事のない味でした。」
「あのブイヨン、何で取ったかご存知でして? 驚くほど美味しかったでしょう?」
意味深に問う彼女に、私はギョッとした。
「冗談ですよ、怖い顔をしないで下さいまし。あれは中国のキノコです。」
彼女は笑いながら部屋に消えた。
狐につままれた気分だったが、翌朝の目覚めは最高だった。恐れも怯えも私の妄想に過ぎなかったのだ。
二人はホームまで見送ってくれた。何と親切な人達だろう。疑念を抱いた事を内心詫びて列車に乗った。席に座り窓を開けると二人は傍まで来てくれた。そして、不意に彼女が耳元で囁く。
「昨夜のお話、覚えていらっしゃいまして? 実は私、嘘をつきました。」
驚いて見た顔に寒気を覚えた。
「私、あんたみたいな甘ちゃん大っ嫌い。苦しめばいいのよ。」
突然の表変に唖然とした。だが汽笛が鳴り列車は動き出す。微笑む彼女は徐々に離れ、やがては景色と成り果てた。
昨夜の何が嘘なのか? 考え始めた私はすぐに気分が悪くなる。
……まさか、私は口にしたのか?
誤字脱字、ありましたらお気軽に(^^;
ギリギリでチェック甘いです。
いえ、元々ですが……。
2012.05.07 誤字訂正。