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私は心細くなると、清美に電話をかけた。彼女の声を聞くだけで、この世界に染まり切ってしまう前に戻ったような気がして、とても落ち着く事が出来た。
でもある日、彼女から電話が来て
「私さ、結婚が決まったんだよね。十年付き合った彼とはダメだったのに、何故か今度は勢いづいちゃって」
と、照れ臭そうな笑い声を交えて言った。
「えっ? おめでとう。なんだあ、良かったじゃない。清美、結婚あきらめたのかと心配したよ」
「ふふ、ホント。自分でも不思議。御子はどうなの? 足洗って誰かと、って事は無いの?」
「私が足洗ったりすると思う?」
「あり得ないか。そういう世界の事は分かんないからなあ。ひょっとして、とか思っちゃったんだ。御子も一人じゃさみしいだろうし。それとも組の中に好きな人、いる? あの、お兄さん代わりの人は?」
良平の事だ。私は笑い飛ばそうとした。彼は私には家族だと。
ところが言葉が凍りついて出てこない。私は少し呼吸を整えると、
「いやに詮索するじゃない? 自分が幸せすぎて、そっちにしか関心無くなってるの?」と聞く。
「意識してるんだね。その人のこと。そういう所って、簡単に一緒になったりって、出来ないの?」
「良平とは、何でもないよ」
二十歳の約束を思い出しながら、機械的にそう言った。
「ごめん。余計なことだね。ただ、もうこうやって電話もしづらくなりそうだから」
清美の声のトーンがさがる。それは分かってる。結婚となれば家の事や、相手の家族の事もある。私なんかと付き合いがあっていいはずがない。清美は私に、お別れの電話をかけてくれたのだ。
「分かってるわ。式にも出れないし、お祝いも贈れない。悪いわね。友達がいが無くって」
「本当よ、足も洗わないで。でも、御子のそういう信念に憧れるわ。普通の生き方とは違うかもしれないけど、御子もちゃんと、幸せになってよ。じゃなきゃ、その世界に入ったこと、許さないからね」
清美はそう言ってくれた。彼女がいなければ私はこんなに人を信じる事が出来なかったかもしれない。高校さえもいかなかったかもしれないし、行っても、卒業できなかったかもしれない。
この稼業をしていると、こんな友情さえ、手放さなければならない。それでも私は真柴を離れようとは思えないのだ。これは一体、何なのだろう?
ともあれ私は清美と連絡を再び絶った。清美からも連絡はこなかった。もう、生き方を違えた私達は、関わり合う事は無いだろう。悲しいけれど、それが私の選んだ道だった。
ハルオも同年代の子よりしっかりした子に育ち、かなりの家事を任せる事が出来るようになった。入院中の女将さんのちょっとしたお使いや組長の自室の掃除くらいはきちんとやってくれるようになり、慎重で何事にも丁寧な性格が、こういう作業に向いているとおもえた。
女将さんは頻繁に、
「ハルオは優しい子に育ってくれた」と、目を細めるようになった。
「ハルオは優しく育ってくれたのに、私の手で華風さんに返すのは難しくなったわ。あとは御子、あなたにお願いするわ。ハルオを見守ってやってちょうだい」
そんな気弱な事も言う。
「その約束は女将さんがしたんでしょう? 女将さん自身が守らなきゃ」
「そうね。これ以上あなたにお願いごとを増やすのは酷ね。それでなくても御子は組を愛するあまり、良平を遠ざけて来たんだから」
そんなことない。と、否定の言葉を言おうとして、女将さんの表情に声が出なくなった。
「良平は組長に似たわ。組の事を考えるあまり、何でも責任を背負おうとしてしまう。御子は私に似て組や良平を想うあまり、自分の愛情に背を向けてしまう。私がハルオを想うあまり、ハルオを真っ直ぐ愛してあげられなかったようにね。血は繋がっていないのに、不思議だわ」
「心は繋がっています。お母さん」
私は胸がいっぱいになって言った。
「私はハルオに可哀想な事をしたわ。あなたは同じ轍を踏んではダメ。あなた達を縛るものなんて本当は何にもないの。あなた達が何かに脅えて、自由になるのを拒んでいるだけなのよ」
そんな会話を交わしたひと月後、女将さんは静かに息を引き取った。とうとう組長が望んだ、花嫁姿の写真も撮ることなく、遠い世界に旅立ってしまった。
みんなが悲しみにくれる中、組ではハルオをどうするかの問題が持ち上がった。女将さんがいなくなり、ハルオももう、幼児ではない。ハルオの父親の話題もこの世界で聞く事は無くなり、華風組も跡は組長の息子が継ぐことがほとんど決まっている。息子が継げない事態が起きても、その従兄が継ぐことになっていると言う。ハルオが華風に帰って行っても、今更波風は立ちそうもない。
華風の組長も、可愛がっていた妹の生んだたった一人の子、長らく預けて申し訳なかったが、戻って来てくれるものなら、大切に育てたいと言っているらしい。
向こうの組長が亡くなった妹さんを溺愛していたのは有名だった。だからその言葉に嘘は無いだろう。心からハルオが帰るのを望んでいたと思う。でも、ハルオははっきり言った。
「こ、ここが、ボクの家だ」
この一言ですべて決まった。私達はハルオの意思を尊重する事を向こうに伝えた。
華風の組長は落胆した様だが、
「ハルオの気持ちを考えれば当然だ。私達が今更ハルオに何も求めることはできない。真柴さんにはお世話になりっぱなしで申し訳ないが、どうか、ハルオの望む生き方をさせてやって下さい」
そう言って、ハルオを真柴の籍に入れる事を承諾してくれた。