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大嫌いな兄と大好きな姉

作者: liege
掲載日:2026/05/19

あの、読みづらくてすみません

昔の奴です。前は妹視点でした。

あとがきは読まなくても大丈夫です


少年院の重い鉄門を出てから、一度も自分の名前を呼ばれていない。

遠い親戚だという(あずさ)さんの車に揺られ、辿り着いたのは、絵に描いたような一軒家だった。

庭には手入れされた花が咲き、玄関には可愛らしい靴が並んでいる。

かつて僕がいた、酒と怒号と血の匂いしかしないあの家とは、何もかもが違っていた。


「さあ、上がって。今日からここが、(れん)くんの家だよ」


未亡人である梓さんは、そう言って穏やかに微笑んだ。

彼女だけが、この家で唯一、僕を「人間」として扱ってくれる存在だった。

だが、居間に一歩足を踏み入れた瞬間、そこは凍りついた。

夕食の食卓。

並べられた手料理の湯気の向こうに、二人の少女が座っていた。

一人は、梓さんの娘で俺と同い年の詩織(しおり)

もう一人は――僕が二年間、冷たい独居房の中で一日たりとも忘れたことのなかった、実の妹の結衣(ゆい)だった。


「詩織、結衣ちゃん。蓮くんが帰ってきたよ」


梓さんの言葉に、詩織の肩がびくりと跳ねた。彼女は箸を握りしめたまま、絶対に僕と目を合わせようとしない。

ただ、見開かれた瞳が小刻みに震え、呼吸が浅くなっていくのが分かった。

『人殺しが、同じ家にいる』

彼女の全身が、そう叫んで拒絶していた。

普通のラブコメなら「今日からよろしくね」なんて不器用な挨拶があるのかもしれない。

だが現実は、前科者の少年に対する、本物の、圧倒的な恐怖だった。

そして、その隣。僕の最愛の妹、結衣。


「あ、おばさん、お醤油取ってもらえますか?」


結衣は、僕が席につくために椅子の音を立てても、完全に気配すら無視して、梓さんに声をかけた。

その瞳に、軽蔑の色すらない。

ただの石ころを見るような、徹底的な無関心。

結衣の防衛本能は、あの事件の夜の記憶と一緒に「兄」という存在そのものを精神から消し去り、ただの『同居人の男』として僕を認知していた。


「あ、うん、これね。……蓮くん、唐揚げ好きだったよね? たくさん食べて」


梓さんが、痛々しいほどの無理な笑顔で、僕の皿に唐揚げを乗せてくれる。


「……ありがとうございます」


二年間、優しさを出すことはなかった声は、自分でも驚くほど掠れていた。

その声が響いた瞬間、詩織がビクッと体をすくませ、お茶のグラスの手を滑らせた。

床に水がこぼれる。


「ご、ごめんなさい……! 部屋、戻ります」


詩織は引きつった顔で立ち上がり、僕から逃げるように居間を飛び出していった。

バタバタと階段を駆け上がる音が響く。

気まずい沈黙が流れた。

しかし、結衣だけは、何事もなかったかのように静かにご飯を口に運んでいる。

そして、ふとポケットからスマートフォンを取り出すと、愛おしそうに画面を見つめた。


「結衣ちゃん、ご飯中はスマホしまおうね」


梓さんが床を拭きながら優しく注意すると、結衣は花が咲いたような笑顔を見せた。

僕が死ぬほど守りたかった、あの無邪気な笑顔だ。


「あ、すみません。でも、留学中のお姉ちゃんからメールが来ないかなって、つい気になっちゃって。お姉ちゃん、向こうの大学が忙しいのかなぁ」


結衣の口から出た「お姉ちゃん」という言葉に、居間の空気がさらに重く沈む。

この世に、そんな姉は存在しない。

結衣が父親を刺したあの夜、彼女の心を守るために作り出された、妄想の産物だ。

結衣が愛し、待ち焦がれている「お姉ちゃん」の身代わりとして、僕は少年院の冷たいベッドで二年間を過ごした。

そして今、本物の兄である僕は、彼女の目の前で空気のように扱われている。


「……そう、だね。お姉ちゃん、きっと頑張ってるんだよ」


僕は、胸の奥が焼き切れるような痛みを堪えながら、ポツリと呟いた。

結衣は僕の声に一瞬だけ視線を向けたが、やはり他人を見る冷めた目のまま、すぐにスマホに視線を戻した。


「蓮くん……」


梓さんが、泣きそうな目で俺を見つめ、テーブルの下で、そっと僕の震える手に自分の手を重ねてくれた。

彼女の体温だけが、僕がまだ生きていることを教えてくれる唯一の救いだった。



梅雨の終わりの狂ったような豪雨は、放課後の駅前を灰色に塗り潰していた。

トタンの(ひさし)を叩く激しい雨音を聞きながら、僕は復学支援施設の帰り道、駅の軒下で立ち往生していた。

少年院を出てからというもの、急な環境の変化についていけないのか、激しい雨の音を聞くだけで背中の古い傷が疼くような錯覚に囚われる。


「……あ」


隣から、小さく息を呑む気配がした。

振り返ると、そこにいたのは詩織だった。

彼女は濡れた制服の肩をすぼめ、困り果てたように雨の壁を睨んでいた。

どうやら傘を持っていないらしい。


普段、家の中では徹底的に僕を避け、目を合わせることすらしない彼女が、今は数歩の距離に立っている。

家を一歩出れば、僕たちは他人だ。同じ家に住んでいることなど、彼女の友人たちに知られれば大問題になる。

だから僕も、普段なら気配を消してその場を去る。だが、詩織の肩は寒さからか、それとも別の理由からか、小刻みに震えていた。

僕は躊躇った。

少年院で「他人に余計な干渉はするな」と嫌というほど理解した。

それでも、僕をこの家に引き取ってくれた梓さんへの恩義が、僕の背中を微かに押した。

鞄を開け、黒い折りたたみ傘を取り出す。それを彼女に差し出そうと、一歩、足を踏み出した。


「あの、これ――」


言いかけた僕の言葉は、最後まで紡がれなかった。


「ひっ……!」


詩織は、まるで目の前に刃物を突きつけられたかのような悲鳴を上げた。

ガタガタと激しく音を立てて後ろの自販機に背中を打ち付け、怯えきった瞳で僕を睨みつける。

彼女の右手が、防衛本能のままに自分の胸元を強くかき抱いていた。

普通のラブコメなら、ここで「不器用な男の子が傘を貸してくれて、女の子が赤面する」ような、そんな甘酸っぱいイベントになるのだろう。だが、現実は違った。

彼女の目にあるのは、少女の羞恥でも、お年頃の男の子に対する照れ隠しでもない。本物の、剥き出しの『恐怖』だった。

父親を刺し殺した、狂暴な少年犯罪者。

それが、詩織にとっての僕の全部だ。

そんな怪物が、雨の密室で自分に向かって手を伸ばしてきたのだ。

彼女の脳裏には、僕が父親を殺害した時の凄惨なニュース映像でも浮かんでいたのかもしれない。


「……触ら、ないで」


詩織の声は、恐怖でかすれて震えていた。


「来ないで、お願いだから……」


心臓の奥を、冷たい針で深く突き刺されたような感覚がした。

僕は伸ばしかけた手を、そのまま空中で静かに止めた。

これ以上近づけば、彼女は過呼吸を起こして倒れてしまうかもしれない。

僕の手にある黒い傘が、まるで凶器のように見えた。


「……ごめん」


掠れた声でそれだけ言うと、僕は手元の折りたたみ傘を、自販機の横にあるベンチの上にそっと置いた。


「使って。僕は、もう行くから」


詩織の返事を待つ気はなかった。これ以上ここにいること自体が、彼女に対する暴力になる。

僕は鞄を頭の上に掲げることもせず、そのまま土砂降りの雨の中へと一歩を踏み出した。

一瞬で制服が肌に張り付き、冷たい水滴が視界を遮る。

背後から、詩織が追いかけてくる気配はなかった。


ベンチに残された傘を彼女が使ったのか、それとも『人殺しの傘』としてゴミ箱に捨てられたのかは分からない。

叩きつけるような雨の音に紛れながら、僕はただ泥のように重い足を前に進めた。

全身を突き刺す雨の冷たさが、皮肉にも心地よかった。

世界から拒絶され、誰かを怯えさせるだけの存在。

それが今の僕の正しい姿なのだと、雨水が全てを肯定してくれるような気がした。

家に帰れば、またあの歪な食卓が待っている。

僕を人殺しとして怯える詩織と、僕の存在を消し去って『実在しない姉』を愛し続ける結衣。

そのどちらからも拒絶された自分の居場所が、この世界のどこにもないことを、僕は雨の中で嫌というほど思い知らされていた。




雨に打たれた翌日、僕の身体は鉛のように重くなっていた。

少年院での規則正しい生活に慣れすぎていたせいか、外の世界のストレスに、僕の免疫はとうに限界を迎えていたらしい。

体温計は三十九度近い数字を示していた。

薄暗い居候部屋のベッドに横たわり、荒い呼吸を繰り返す。かつて父親から何度も殴り倒され、風呂場で冷水をかけられて放置された夜の記憶が、熱に浮かされた脳裏にフラッシュバックする。

あの時、僕はいつも、隣の部屋で震える結衣のことだけを考えて耐えていた。


『お兄ちゃん、大丈夫……?』


いつか、血を流して倒れる僕の手を握り、そう泣いてくれた結衣の、幼い頃の声が耳の奥でリフレインする。

ガチャリ、とドアの開く音がした。

幻聴ではない。誰かが部屋に入ってきた。

スポーツドリンクのボトルを持った梓さんだろうか。

僕は熱でかすむ目を必死に開け、入り口を遮るお仕着せのカーテンの隙間に視線を向けた。そこに立っていたのは、結衣だった。

胸が、ドクンと跳ねた。

結衣が。あの事件以来、僕と一度も目を合わせようとしなかった結衣が、自ら僕の部屋にやってきた。

もしかして、ほんの少しだけでも、兄としての僕を思い出してくれたのだろうか。

高熱のせいで、そんな淡い、愚かな期待が頭をよぎる。結衣はベッドの脇まで歩み寄ってきた。

だが、その手に看病の道具などは何もない。握られていたのは、くしゃくしゃになった一通の「便箋」だった。

結衣はベッドを見下ろした。

だが、その視線は僕の顔を通り抜け、まるで誰もいない空間を見つめているようだった。

冷たく、乾いた声が部屋に響く。


「ねえ。これ、あんたのスクバ(スクールバッグ)に入ってたんだけど?なんか見覚えのある便箋だなって思ったから、悪いけど勝手に見させてもらったわ」


結衣が差し出してきたのは、僕が少年院の独居房で、消灯前のわずかな時間に書いた、妹への手紙だった。

結衣を安心させるために、消印を誤魔化し、海外の様子を必死に調べて、実在しない「留学中の姉」になりすまして送った手紙。


「お姉ちゃんからの手紙、なんであなたが持ってるの? 勝手に見ないで。これ、私宛てなんだから」


結衣の言葉が、熱いナイフのように僕の鼓膜を突き刺した。

彼女は、目の前で荒い息を吐き、高熱に苦しんでいる実の兄など「見て」いなかった。彼女の防衛本能が作り出した完璧な聖母――『留学中の優しいお姉ちゃん』。

結衣の瞳に映っているのは、僕の身体の輪郭を借りて浮かび上がる、その存在しない幻影だけだ。


「結衣、僕は……」


掠れた声で、本当のことを叫びそうになった。


だが、言えなかった。

もしここで真実を突きつければ、彼女が必死に保っている精神の均衡は一瞬で崩壊する。

自分が父親の命を奪ったという狂気の世界に、結衣を引きずり戻すわけにはいかない。


「……ごめん」


結局、僕の口から出たのは、昨日と同じ謝罪の言葉だけだった。


「お姉ちゃんの手紙、預かってただけ。もう見ない」


結衣は僕の言葉に、これっぽっちの感情も動かさなかった。

「ふーん」とだけ冷たく呟き、手紙を愛おしそうに胸に抱きしめると、そのまま踵を返した。

部屋のドアが閉まる。

最後まで、彼女は僕の看病をすることも、体調を気遣うこともなかった。

部屋に残されたのは、ただ静まり返った空気と、僕の荒い呼吸の音だけだ。

僕が父親の暴力を引き受けた日々も、結衣の身代わりとして過ごした灰色の二年間も、全てはこの「存在しない姉」の思い出の肥やしにされただけだった。

僕の存在そのものが、彼女の生きる世界から消去されている。

胸の奥が、熱のせいではなく、あまりの虚しさと絶望で引き裂かれそうだった。それでも、結衣が笑顔で、「お姉ちゃん」という光を頼りに生きていられるのなら、自分はただの透明人間でいい。

そう自分に言い聞かせながら、僕は冷え切った布団に顔を埋め、誰にも聞こえない声を殺した涙を流した。



結衣が去った後、僕は深い熱の沼に沈んでいた。どれほど眠ったか分からない。

ふと目が覚めた時、部屋の空気はしんとしており、窓の外は完全な深夜の闇に包まれていた。

頭はすっきりとしており、おそらく熱が下がったのだろう。

乾ききった喉を潤すため、僕はふらつく身体を壁に預けながら、静かに階段を降りた。

皆が寝静まった深夜のリビング。冷たい水を一杯飲み、そのまま影のように自室へ戻ろうとした時だった。


「――蓮くん?」


背後から掛けられた柔らかな声に、肩が跳ねる。振り返ると、リビングのソファの傍らに、薄暗い間接照明を浴びた梓さんが立っていた。

カーディガンを羽織っただけのラフな姿で、その表情には深い憂いが滲んでいる。


「起きてきちゃって大丈夫?熱は?まだあるんでしょう?」


梓さんは僕の返事を待たずに歩み寄り、躊躇いもなくその白い手を僕の額に当てた。

詩織のように怯えて手を引っ込めることも、結衣のように視線を素通りさせることもしない。

本物の、人間の手の温もりだった。


「うーんまだちょっと熱いかな?ちょっとそこに座ってて」


促されるままにソファに腰を下ろすと、梓さんは救急箱を持ってきて僕の隣に座った。

驚くほど近くから、大人の女性の甘い香りが漂う。


「はい、冷えピタ。あと、服、めくれる? 背中の傷、お薬塗らないと」


「いえ、梓さん、それは自分で……」


「いいから。蓮くんはいつも、そうやって一人で抱え込んじゃうんだから」


梓さんの口調は穏やかだが、拒絶を許さない優しさがあった。

僕は躊躇いながらも、寝間着のシャツをゆっくりと押し上げた。

薄暗い光の中に、父親から数年間にわたって刻まれた無数の古い熱傷や、線状の打撲痕が露わになる。少年院の()()()()()でさらにひどくなった皮膚。

梓さんが小さく息を呑む音が聞こえた。

やがて、ひんやりとした軟膏が、彼女の柔らかな指先を介して背中に広がっていく。

驚くほど優しく、労るような手つきだった。


「痛くない?」


「……大丈夫です」


詩織からは化け物を見るような目で拒絶され、結衣からは存在すら認められない。

そんな僕の醜い身体を、彼女だけが「普通」に扱い、傷に触れてくれる。

その温もりは、間違いなく今の僕を世界に繋ぎ止める唯一の救いだった。

しかし同時に、それは強烈な、息が詰まるほどの『毒』でもあった。


「蓮くんは、何も悪くない。あんなひどいお父さんから結衣ちゃんを守るために、一生懸命耐えて……あの子たちの分まで、私が蓮くんを大切にするからね」


梓さんの言葉は、あまりにも純粋で、聖母のようだった。

だからこそ、僕の胸の奥は、罪悪感で焼き切れそうになる。

違うんだ、梓さん。僕はあなたが思っているような、かわいそうな被害者なんかじゃない。

僕は、実の妹が父親を殺害した現場の証拠を隠滅し、警察を欺き、いまもこの家で実在しない姉の嘘を突き通している、根っからの嘘つきで犯罪者だ。

こんなに綺麗な人に、こんなに優しくされていい人間じゃない。

僕は、あなたの優しさを搾取している悪党だ。


「蓮くん……?」


僕の肩が小さく震えていたのだろう。

梓さんは薬を塗る手を止め、後ろから僕の身体を包み込むように、そっと抱きしめた。

背中に押し当てられる彼女の体温と、耳元で聞こえる愛おしげな吐息。


「もう頑張らなくていいのよ」


その心地よい言葉が、僕の耳元で甘い呪詛のように響く。

この優しさに溺れてしまえば、すべてを白状して楽になれるかもしれない。

だが、真実を話せば、この温かい家も、結衣の偽りの平穏も、すべてが崩壊する。


「……ありがとうございます」


僕は梓さんの腕の中で、死人のような声でそう呟いた。

彼女の優しさに救われながら、僕は自分の「汚れ」をさらに強く自覚していく。

この歪な居候生活の中で、僕の心は一歩ずつ、確実に壊れかけていた。





梅雨の終わりの豪雨は、駅前の視界を白く煙らせていた。

水を吸って泥のように重い足を引きずりながら、俺は激しい雨音の中を遮二無二走っていた。

熱がぶり返しそうだ。喉の奥が、熱と乾燥で悲鳴を上げている。

喉の筋肉を引き揚げ、自分の掠れた男の声を、完璧に澄んだ女性のそれへとチューニングしていく。


「はぁ、はぁ、……っ、あ……」


口から漏れた息が、高い、繊細な音へと変わる。結衣を守るための偽物の器。

存在しない「お姉ちゃん」の亡霊が、僕の肉体を乗っ取っていく。

駅前のカフェのガラス越しに、その姿が見えた。

結衣だ。傘も差さずに雨の中に立ち尽くし、完全に正気を失った目で、通りすがる人々の服を掴んでは撥ね付けられている。


「お姉ちゃんは!? 帰ってくるって手紙に書いてあったの! なんで誰もいないの!?」


狂乱する実の妹。周囲の冷ややかな、関わってはいけない異常者を見るような視線。

あの温かい食卓で、僕を空気のように無視していた冷徹な少女の姿はどこにもなかった。

そこにいるのは、過去の凄惨な事件の夜に心を置き去りにされた、ただの可哀想な迷子だった。


「結衣――」


僕は、一瞬で「蓮」という存在を脳内から消去した。


一卵性の双子ゆえの、華奢で筋肉のつきにくい体躯。

雨に濡れて肌に張り付いた服越しでも女性的だと思う。

僕は、世界で一番優しい、留学中のお姉ちゃんの顔を作った。

そして、喉の奥から、完璧な「お姉ちゃんの声」を響かせた。


「結衣! ごめんね、遅くなっちゃって……!」


激しい雨の音を突き抜けて届いたその声に、結衣の身体がピクリと跳ねた。振り返った結衣の瞳に、激しい雨に濡れ、お姉ちゃんと全く同じ顔をして佇む僕の姿が映る。


「お姉、ちゃん……?」


「うん、お姉ちゃんだよ。約束の日に遅れてごめんね。ずっと、会いたかった」


僕が両腕を広げた瞬間、結衣の顔に、あの食卓では1ミリも見せてくれなかった、花が咲いたような、至上の笑顔が弾けた。


「お姉ちゃん――!」


激しい勢いで、結衣の身体が僕の胸に飛び込んでくる。

小さな両腕が、僕の首にしがみつく。ドクン、と胸が跳ねた。引き取られたあの家で、一度も目を合わせず、名前すら呼んでくれなかった結衣が、今、僕の腕の中で声を上げて泣いている。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん! 寂しかった、ずっと待ってたの……!」


結衣の男性恐怖症のセンサーは、ピクリとも作動していなかった。

華奢な体型も、この声も、結衣の鋭い警戒心を完全にすり抜けていた。

五感のすべてが、僕を「本物のお姉ちゃん」だと肯定している。

だが、抱きしめ合う結衣の小さな手が、僕の服の上から、高熱で燃えるように熱い肌に触れた。


「……あれ? お姉ちゃん、身体がすごく熱いよ? どうしたの、大丈夫……?」


結衣の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。その涙は、生身の兄である「蓮」が39度の熱で部屋で苦しんでいた時には、1ミリも向けられることのなかった、心からの心配と、深い愛情の温もりだった。

胸の奥が、熱のせいではなく、あまりの切なさと虚しさで引き裂かれそうになる。

僕がどれだけ命を削っても、お前が愛してくれるのは僕じゃない。

僕が作った、実在しないお姉ちゃんという「幻」だけなんだ。


「大丈夫だよ、結衣。向こうの大学が、ちょっと忙しくてね……風邪を引いちゃっただけ。結衣の顔を見たら、もう治っちゃった」


僕はお姉ちゃんの声で優しく囁き、妹の背中をそっと撫でた。

生身の自分を完全に殺し、存在を消去することでしか、最愛の妹に抱きしめてもらえない。

これは救いなのだろうか。それとも、一生解けない地獄の呪いなのだろうか。


「うん……お姉ちゃんが帰ってきたなら、もう安心。あの家にいる『蓮』って男、本当に不気味で大嫌いだったの。お姉ちゃん、もうずっと一緒にいてね」


結衣は僕の胸に顔を埋めたまま、1ミリの疑いもなく、愛おしそうにそう呟いた。


「……うん。ずっと、一緒だよ、結衣」


僕はお姉ちゃんの笑顔のまま、雨の中に消えていく自分の存在()を見送っていた。

世界から拒絶され、誰かを怯えさせるだけの「蓮」は、この大雨の中に捨てていけばいい。

これからは、この子の笑顔を守るためだけの、名前のない亡霊として生きていく。

こうして、雨の駅前カフェで、僕たちの「完璧に偽装された、最も切ない共依存」が完成した。





「お姉ちゃん、この卵焼き、すごく美味しいよ!」


弾んだ声が、居間に響く。

そこには、あの凍りついていた食卓とはまるで違う、花が咲いたような笑顔で笑う結衣の姿があった。

彼女の視線の先――かつて「蓮」という男が座っていたその席には、今、一人の「少女」が座っていた。

肩にかかる艶やかな黒髪。結衣と一卵性ゆえに、完璧にシンクロした愛らしい顔立ち。

筋肉のつきにくい華奢な体躯を包むのは、梓さんが用意してくれた、淡いピンク色のブラウスだった。


「本当? 結衣が喜んでくれて嬉しいな。梓さんに教えてもらったんだよ」


僕が生身の男としてそこにいた時は、醤油を取る気配すら無視して僕を「透明人間」として扱っていた結衣が、今は愛おしそうに僕の袖を掴んでいる。


「もう、お姉ちゃんが留学から帰ってきてくれて、私、本当に幸せ。それにあの不気味な男がいつの間にか家を出ていってくれて、せいせいしたわ」


結衣は1ミリの疑いもなく、僕の顔を見つめながら、僕の作った「お姉ちゃん」に生身の僕への嫌悪をぶつける。

自分の存在を完全に殺し、偽物の器になることでしか、最愛の妹に愛してもらえない。

胸の奥を熱いナイフで抉られるような痛みに耐えながら、僕は「お姉ちゃん」の完璧な笑顔のまま、結衣の頭を優しく撫でた。


「……うん、もうどこにも行かないよ、結衣」


その、異様なほどに甘く、完成された「偽りの幸福」の対角線上。ガタガタと、激しく箸が皿を叩く音がした。


「ひっ……う、あ……」


詩織だった。僕と同い年の、梓さんの実の娘。

彼女は、目の前に並ぶ料理に一切手をつけられないまま、青ざめた顔で僕を睨みつけていた。

見開かれた瞳は恐怖に血走り、呼吸は過呼吸寸前のように浅く、激しく乱れている。

詩織にとって、目の前にいる存在の正体は「お姉ちゃん」などではなかった。

父親を刺し殺した、凶悪な少年犯罪者――「蓮」。

あの雨の駅前で、自分に向かって凶器のような傘を差し出してきた、悍ましい怪物。

その人殺しの男が、ある日を境に、実の妹のために女の服をまとい、女の声を出し、平然と食卓に座っているのだ。


(狂ってる……本物の、狂人だ……!)


詩織の全身が、声にならない悲鳴を上げて拒絶していた。

普通のラブコメなら、「男の子の女装姿が可愛くてドキドキする」ようなイベントなのかもしれない。

だが、現実は違った。

目の前にいるのは、愛する妹の妄想を維持するためだけに、自らの性別も、人間としての尊厳もすべてドブに捨てて「亡霊」になることを選んだ、一線を越えた狂人なのだ。

詩織の手元が激しく震え、味噌汁の椀がひっくり返りそうになる。

彼女は自分の胸元を強くかき抱き、僕から1ミリでも距離を取ろうと、椅子ごと後ろの壁に背中を打ち付けた。


「詩織、大丈夫? 体調が悪いの?」


僕は「お姉ちゃん」の澄んだ声のまま、首を傾げて詩織を気遣う仕草をした。

純粋な善意の怪物としての、完璧な演技。

だが、その視線が向けられた瞬間、詩織の限界は決壊した。


「来ないで……っ、見ないで、人殺し……っ!!」


短い悲鳴を上げると、詩織は椅子を蹴立てて立ち上がり、自分の部屋へと逃げ帰るように階段を駆け上がっていった。

バタン、と激しくドアが閉まる音が響く。


「もう、詩織ちゃんたら失礼ね。お姉ちゃん、気にしちゃダメだよ?」


結衣は何事もなかったかのように、お姉ちゃんの腕に顔を寄せ、クスクスと笑っている。

その光景を、食卓の少し離れた場所から、梓さんが静かに見つめていた。

梓さんは、何も言わなかった。「どうしてそんな格好をしているの?」とも、「蓮くん、もうやめなさい」とも責めない。

ただ、すべてを受け入れるような、聖母のような、そして底なしの深淵のような、穏やかな微笑みを僕に向けていた。

誰も僕の名前を呼ばないこの家で、僕が狂っていくことを止めもせず、ただ静かに狂気を受け入れてくれる梓さん。

結衣の無邪気な愛。

詩織の剥き出しの恐怖。

梓さんの沈黙の肯定。

三つの歪みが完璧に噛み合ったこの新しい食卓で、僕の心は、また静かに崩壊へのカウントダウンを刻み始めていた。






「おやすみ、結衣。また明日ね」


「うん、お姉ちゃん、大好き。おやすみなさい」


ベッドの中で愛おしそうに微笑む結衣の額に優しく触れ、僕は「お姉ちゃん」の完璧な笑顔のまま部屋の灯りを消した。

ドアを閉め、誰もいない廊下に一歩踏み出した瞬間、張り詰めていた喉の筋肉が痙攣し、激しい咳が込み上げた。


「……ごほっ、ごほっ、……う、っ」


喉の奥から、鉄の味がした。

僕は自分の細い首を絞めるように手を当て、よろめきながら深夜の洗面所へと向かった。

薄暗い洗面台の鏡の向こうに、1人の美しい「少女」が立っている。

艶やかな黒髪、可憐なブラウス、そして結衣を1ミリもバグらせなかった完璧なメイク。

だが、その瞳の奥にあるのは、自らの生身の存在を完全に消し去った男の、死人のような虚無だった。

カチャリ、と背後で静かにドアが開いた。


「……蓮くん」


鏡越しに、薄暗い廊下の光を浴びた梓さんが立っていた。

彼女は何も言わず、手に持っていたクレンジングオイルと温かい蒸しタオルを洗面台に置くと、僕の隣にそっと寄り添った。

昼間の食卓で、僕が狂人として詩織を怯えさせ、結衣の妄想の器として「蓮ちゃん」を演じていた時も、彼女だけは何も言わずにそれを受け入れていた。


「喉、大丈夫……? ずっとあの声を出し続けるなんて、かなりの負担でしょう」


梓さんの手が、躊躇いもなく俺のブラウスのボタンに伸びる。

詩織のように化け物を見る目で拒絶することもしない。

ただ、すべてを知った上で、慈しむように僕を「人間」として扱ってくれる。


「梓さん、服は、自分で……」


「いいから。蓮くんは、すぐそうやって全部一人で背負おうとするんだから」


拒絶を許さない聖母のような優しさで、梓さんは僕の服を脱がせ、華奢な骨格と傷が露わになった身体に、手際よく寝間着のシャツを着せていく。

そして、コットンにクレンジングオイルを染み込ませると、僕の顔にそっと触れた。


「じっとしててね。綺麗に落としてあげるから」


梓さんの柔らかな指先が、僕の頬を滑る。

その温もりに触れた瞬間、喉の奥の緊張が完全に決壊し、僕の口から、自分でも驚くほど掠れた声が漏れた。


「……すいません。いつも、こんな、気持ち悪い、真似に付き合わせ、て」


「気持ち悪くなんてないわ。蓮くんは、結衣ちゃんを守るために、自分の人生を全部差し出してるだけじゃない。……本当に、優しい子」


梓さんは微笑みながら、丁寧に、丁寧に、僕の顔から「お姉ちゃん」を剥ぎ取っていく。

コットンがファンデーションを吸い取り、口紅が拭われ、鏡の向こうの「お姉ちゃん」が、少しずつ、元の薄汚れた前科者の少年「蓮」へと戻っていく。

だが、完璧な(お姉ちゃん)が消えていくほどに、僕の胸の奥には、昼間の結衣の言葉がリフレインした。

『あの不気味な男がいつの間にか家を出ていってくれて、せいせいしたわ』僕が引き受けた様々な灰色の3年間も、生身の俺に対する結衣の評価は「気味が悪くて、大嫌いな男」でしかなかったのだ。


僕という存在そのものが、世界から完全に消去され、否定され尽くしている。


「あ、っ……」


梓さんが僕の目元に温かい蒸しタオルを当てた瞬間、堪えきれなくなった感情が、熱い涙となって溢れ出した。


タオルにじわじわと涙が吸い込まれていく。

一度溢れた涙は止まらず、僕は声を殺して、肩を激しく震わせながら子供のように泣いた。

喉が潰れて、まともな声すら出ない。

ただ、胸の奥が虚しさと絶望で焼き切れそうだった。


「蓮くん……可哀想に。もう、泣いていいのよ。私の前では、男の子の蓮くんでいていいの」


梓さんは薬を塗る手を止め、後ろから僕の傷だらけの身体を包み込むように、そっと抱きしめた。

背中に押し当てられる彼女の豊かな体温と、耳元で聞こえる愛おしげな吐息。


「蓮くんを愛しているわ」


その心地よい言葉が、僕の耳元で甘い呪詛のように優しく響く。

この優しさに溺れて、すべてを白状して、梓さんの腕の中でただの無力な子供に戻れたら、どんなに楽だろうか。

だが、もし僕が「蓮」として楽になれば、結衣の作ったガラスの平穏は一瞬で粉々に砕け散り、彼女は父親を殺した狂気の世界へ引き戻されてしまう。


「……ありがとう、ございます……梓、さん……っ」


僕は、死人のような掠れた声を絞り出し、彼女の腕の中で涙を流し続けた。

完璧なお姉ちゃんを演じて結衣に愛されるほど、生身の自分は死んでいく。

そして、その汚れを自覚するたびに、梓さんの優しさなしでは息すらできなくなっていく。


こうして、深夜の静まり返った洗面所で、二人は重なり、誰も救われない共依存の沼へと、また一歩、確実に堕ちていった。




深夜の自室。

詩織の指は、ベッドの上に広げた一枚の書類――結衣ちゃんの部屋から密かに持ち出してきた、

あの事件の『死亡検案書』の上でガタガタと震えていた。

「人殺しの怪物」を家から追い出すための証拠探しのつもりだった。

だが、そこに並ぶ医師の冷徹な記述調書は、詩織の認知を根底からひっくり返していく。


一、傷口の角度および刺入角度から、犯人は左利きの可能性が極めて高い。

二、現行犯逮捕された被疑者は、なぜか女性物の衣類を着用。

三、警察連行時、被疑者は居間に立ち尽くし、同居人の妹は自室のベッドの上で重度のショック状態。なお、妹の頭髪は濡れており、入浴直後であったと思われる。


「嘘、でしょ……」


詩織の喉から、乾いた悲鳴が漏れた。

警察は、DV家庭の悲劇という先入観と、蓮くんの完璧な自供に騙され、これらの違和感を「パニックによる奇行」として片付けていた。

だが、同じ家で暮らす詩織には、その文字の裏に隠された、あまりにも悍ましく、あまりにも悲痛な真実の輪郭が見えていた。

左利き。

それは、今の食卓で、蓮くんの演じる「お姉ちゃん」に向かって、左手で器用に箸を動かしながら笑っている結衣ちゃんだ。

女性物の服。

それは、あの日、父親を刺して返り血を浴びた結衣ちゃんの服を、蓮くんが『身代わり』としてそのまま着て捕まったのだ。

一卵性でそっくりな彼なら、その服を着ることだってできたはずだ。

そして、濡れた髪。結衣ちゃんはあの日、父親を殺した後に、お風呂場で必死に血を洗い流していたのだ。

だから今でも、結衣ちゃんは洗面所の激しい水音を聞くだけで、狂ったように耳を塞いで怯えるのだ。


(蓮くんは……人殺しなんかじゃない……!)


全ては自分の妄想で、予想でしかない。けれど、2年も一緒に過ごしてきた結衣ちゃんのことは多少なりとも理解しているつもりだ。

全身の毛穴が開き、皮膚に凄まじい鳥肌が立っていく。

部屋のエアコンの風が、急に氷のように冷たく感じられた。

蓮くんは、本当の真犯人である結衣ちゃんの罪をすべて被って、少年院で二年間過ごし、戻ってきてからもなお、自分の喉を潰してまで「お姉ちゃん」になりすまして、結衣ちゃんの妄想を支えている。


そして、お母さんは、そんな蓮くんの命がけの自己犠牲をすべて察しているからこそ、何も言わずに彼を暖かく迎え入れた。

たとえ、夜中に「お姉ちゃん」のメイクを落として抱きしめ、独善的な優しさで覆い隠した肉欲を蓮くんで満たしているのだとしても。


(狂ってる……。本当に狂っているのは、結衣ちゃんとお母さんの方だ……っ)


誰も、本当の蓮くんを見ていない。

あの少年は、2年前のあの夜に濡れ衣を着て捕まったあの日からずっと、自分の存在を完全に殺して、狂った妹のために生きたまま肉体を切り刻まれ続けている。


「彼を……蓮くんを、ここから助け出さなきゃ……っ」


詩織はスマートフォンを胸元で強くかき抱き、ベッドの上にへたり込んだ。

呼吸が浅くなり、涙が視界をにじませる。

この家の異常な歪みを正し、あいつをあの地獄のような呪いから救い出せるのは、外の世界の「正気」を持っている、自分しかいないのだ。




翌朝の食卓は、眩しいほどの朝光に満ちていた。

昨日と何も変わらない、手入れされた庭の花と、お母さんが作った瑞々しい朝食の湯気。

だが、そこに座る詩織の背中は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。


「お姉ちゃん、今日のオムレツ、すっごくおいしい! はい、あーん」


「もう、結衣ったら。自分で食べられるよ」


クスクスと小鳥のようにさえずる結衣ちゃんと、それに応える「お姉ちゃん」の澄んだ声。

昨日までは、人殺しの男が女のフリをしている不気味さに吐き気がしていた。

だが、深夜にあの『死亡検案書』を読んでしまった今の詩織には、その光景のすべてが、心臓を直接素手で掴まれるような恐怖へと変わっていた。

結衣ちゃんが、フォークを「左手」で器用に動かし、オムレツを口に運ぶ。

あの事件の夜、父親の命を奪った、その同じ左手で。


(あの子が、おじさんを殺したんだ……)


詩織は箸を握りしめたまま、手元の白米をただ見つめていた。

喉がからからに干からびて、食べ物を飲み込める気がしない。

目の前で無邪気に笑っている結衣ちゃんは、自分が父親をなぶり殺したことも、その罪を大好きな兄になすりつけたことも、すべて忘れて「お姉ちゃん」との再会に溺れている。


「詩織、全然食べてないじゃない。体調悪いの?」


不意に、正面から声をかけられ、詩織の肩がビクッと跳ねた。

声をかけてきたのは、母親の梓だった。

いつもの優しい、穏やかな聖母の笑顔。

だが、その瞳の奥には、すべてを見通しているような底なしの深淵が広がっている。


(お母さんも……知ってるんだ。蓮くんが犯人じゃないって、最初から気づいていて、それでもこの狂気を受け入れてるんだ……)


「う、うん……ちょっと、寝不足、なだけ……」


詩織は引きつった声を絞り出すのが精一杯だった。

実の母親である梓が、急に得体の知れない怪物に見えてくる。

お母さんは、引き取ってきた蓮くんの傷だらけの背中に優しく薬を塗りながら、彼の「命をかけた自己犠牲」を止めようともせず、むしろそれを都合よく搾取して、この偽りの平穏を維持しているのだ。


「そう? 無理しちゃダメよ。お姉ちゃん、詩織にお茶を淹れてあげて」


「うん、分かった」


お姉ちゃん――いや、蓮くんが、華奢なブラウスの袖を揺らして立ち上がり、お茶を淹れる。

一卵性で結衣ちゃんにそっくりなその身体。


「はい、詩織ちゃん。熱いから気をつけてね」


完璧な美少女の笑顔で、澄んだお姉ちゃんの声で、蓮くんが詩織の前に湯飲みを置いた。

詩織は、その差し出された「細い右手」を見た。

詩織を怯えさせるための人殺しの手だったものは今や、自分の全てをドブに捨てて、狂った家族を支え続けている、悲痛な少年の右手だった。

誰も、本当の蓮くんを見ていない。

結衣ちゃんはあいつを『気味の悪い男』として消去し、お母さんは蓮くんの『自己犠牲』につけ込み甘やかし搾取している。

この家は、1人の少年の肉体と精神を生贄として捧げることでしか成り立たない、地獄の祭壇なのだ。


(私が、蓮くんの呪いを解いてあげなきゃ……!)


恐怖はいつしか、胸をかきむしるような激しい哀れみと、使命感へと変わっていた。

詩織はガタガタと震える手で湯飲みを包み込み、正面の「お姉ちゃん」の瞳を、今度は逃げることなく、まっすぐに見つめ返した。


その瞳の奥に潜む、本当の『蓮くん』の苦しみを探すように。








深夜二時。静まり返った洗面所の前に、詩織は立っていた。

手にしたスマートフォンの画面には、結衣の部屋から拝借したあの『死亡検案書』の撮影データが冷たく光っている。

カチャリ、と微かな音がして、洗面所のドアが開いた。

中から出てきたのは、髪をほどき、メイクを半分ほど落とし終えた、生身の「蓮」だった。

喉の緊張を解いた彼は、驚くほど生気がなく、薄暗い廊下の光の中で、まるで今にも消えてしまいそうな透明な影に見えた。

蓮は、廊下に佇む詩織の姿を認めると、一瞬だけ目を見開いた。

だが、すぐにいつもの、自分を周囲の風景と同化させるような、冷めた「同居人の男」の目に戻る。

彼は詩織を怯えさせないよう、自ら一歩後ろに下がり、壁に背中を預けた。


「……ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ。すぐ部屋に戻る」


自分を「人殺しの怪物」だと信じ込み、雨の駅前で悲鳴を上げた詩織。

彼女に対する暴力にならないよう、蓮は掠れた声で、静かに謝罪を口にした。

その姿を見た瞬間、詩織の胸の奥で、張り裂けそうなほどの感情が弾けた。

彼女は、後ろへ去ろうとする蓮の前に、弾かれたように足を踏み出した。


「待って……っ! 行かないで、蓮くん!」


蓮の身体が、驚きで小さく硬直する。

詩織は、かつて自販機の横で彼を化け物のように睨みつけたあの瞳に、大粒の涙を溜めて、絞り出すように声を震わせた。


「ごめんなさい……っ! 私、何も知らなくて、蓮くんのこと、人殺しなんて酷い言葉で罵って……っ! 本当に、本当にごめんなさい……!」


詩織は、その場に崩れ落ちるように頭を下げた。

普通のラブコメなら、傷つけた男の子への不器用な照れ隠しの謝罪になるのだろう。

だが、現実は違った。

彼女が口にしているのは、一人の少年の人生を、尊厳を、そのすべてを奪う加害者になっていたことへの、剥き出しの罪悪感と、本物の『正気』の謝罪だった。

蓮は、呆然と詩織を見下ろしていた。二年間、少年院の冷たい壁の中で、そして戻ってきてからのこの地獄のような家庭の中で、一度も、誰からも向けられたことのない「生身の自分への謝罪」。


「詩織ちゃん、君は何も……」


「これを見たの!」


詩織は、震える手でスマートフォンを蓮の目の前に突きつけた。

画面に映る『死亡検案書』の文字。左利きの痕跡。濡れた髪。女性物の衣服。蓮の瞳が、初めて獣のように鋭く見開かれ、その顔から一切の感情が消え失せた。


「蓮くんは誰も殺してない。あの夜、おじさんを殺したのは結衣ちゃんで、あなたは妹の服を着て、全部の罪を被って警察に捕まったんでしょ……っ? 少年院から戻ってきてからも心を潰して『お姉ちゃん』を演じて……そんなの、間違ってるよ!」


詩織は涙を流しながら、蓮の細い両肩を強く掴んだ。


「お母さんも結衣ちゃんも、蓮くんの優しさに甘えて、蓮くんを生贄にしてるんだよ! 誰も本当の蓮くんを見てない! でも、私はもう知ってる! 私は……私は、あなたの味方だから……! だから、もう自分を殺すなんてやめて……っ!」


それは、この狂った家の中で、唯一の『正気』が放った、純粋な救いの手だった。

この優しさに甘え、詩織の腕の中で男の蓮として泣き崩れれば、どれほど楽になれただろう。

だが。蓮の口から漏れたのは、「お姉ちゃん」の声だった。


「――余計なことを、しないで」


心臓を氷の針で刺されたように、詩織の身体が凍りついた。

目の前にいる蓮の顔は、お姉ちゃんの、少女の困り顔だった。

だが、その瞳の奥には、絶対的な拒絶と、底知れない冬の暗闇が広がっていた。


「蓮、くん……?」


「僕は『お姉ちゃん』だよ、詩織ちゃん。この家に、君の言う『蓮』なんて男はもうどこにもいないんだ」


女性の声のまま、蓮は詩織の手を、冷たく、容赦なく振り払った。

その拒絶は、詩織への敵意ではない。ただ、自分が命をかけて、肉体を切り刻んで守り抜いてきた「結衣の天国」を維持するための、絶対的な防衛行動だった。


「……お願いだから、余計なことはしないで、詩織ちゃん。僕は……僕はもう、お姉ちゃんとしてしか生きられないんだ。もし君が『僕』を救おうとしたら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……」


「あ……っ」


詩織は、息を吸うことすら忘れ、その場にへたり込んだ。

蓮は、一度も詩織の顔を見ようとせず、完璧なお姉ちゃんの足取りのまま、静かに廊下の闇の奥へと消えていった。


救いたい詩織の「正義」と、救われたくない蓮の「狂気的な愛」が、決定的に決裂した瞬間だった。






「わあ、お湯加減ちょうどいい! 詩織ちゃん、一緒に入ろって誘ってくれてありがとう」


湯船の白い湯気の向こうで、結衣ちゃんが花が咲いたような笑顔を浮かべた。

女の子同士の、お風呂。普通のラブコメなら、スタイルの話をしたり、お互いの身体をからかい合ったりして赤面するような、そんな甘酸っぱいサービス回になるはずだった。

だが、現実は違った。湯船に肩まで浸かる詩織の心臓は、恐怖と緊張でバックバクと早鐘を打っていた。


脱衣所には、一緒に入るのを「ご、ごめんね、僕……じゃなくて私、まだ向こうの大学の課題が残ってて……」と、気弱そうな声を震わせて断った、お姉ちゃん(蓮くん)がいる。

蓮くんは、男の身体である以上、この密室に入るわけにはいかない。

つまり今、このお風呂場は、真実を知る詩織と、自分が父親を殺した真犯人だとは微塵も思っていない結衣ちゃんだけの、完全な『二人きりの密室』だった。


「ううん、こちらこそ。……ねえ、結衣ちゃん」


詩織は、シャワーから激しく流れ落ちる水音を聞きながら、あえて世間話のような軽いトーンで、慎重に言葉を紡いだ。


「結衣ちゃんってさ、昔はあんまりお風呂、好きじゃなかったよね? あれって、なんでだったの?」


「え?」


結衣ちゃんが、左手で器用に髪をかき上げながら、不思議そうに首を傾げた。


「私がお風呂嫌い? うーん、そんなことないと思うけど……。お姉ちゃんが留学する前も、いつも一緒に入って……」


結衣ちゃんの言葉が、ふっと途切れた。

シャンプーの泡を流す、激しいシャワーの水音。

それが、お風呂場の高い天井に反響して、異様なほど大きな音となって鼓膜を叩く。


「……あれ?」


結衣ちゃんの瞳から、すっと生気が消え、焦点がどこか遠くへと外れた。

詩織のささやかな質問が、結衣ちゃんの脳の奥底に施されていた『防衛本能のロック』を、カチリと弾いてしまったのだ。


(昔……お風呂……お風呂……水……)


結衣ちゃんの脳裏に、忘却したはずの、あの梅雨の終わりの大雨の夜の記憶が、濁流のように疼き始める。


激しい雨の音。居間に倒れるお父さん。

そして――自分が浴びてしまった、生温かい、お父さんの大量の血。

その真っ赤な血を、泣きじゃくる自分の身体から、シャワーで必死に洗い流してくれた、一卵性の、自分とそっくりな顔をした――――の、傷だらけの手。


「お、にぃ……ちゃん……?」


結衣ちゃんの口から、この家に来てから一度も紡がれたことのない、掠れた言葉が漏れた。


「ひっ……、あ、う……っ!!」


次の瞬間、結衣ちゃんは自分の細い首を強くかき抱き、激しく身体を震わせた。

見開かれた瞳が小刻みに震え、呼吸が浅く、急激に乱れていく。

湯船の中で、結衣ちゃんの手足がガタガタと音を立てて水面を叩いた。


「結衣ちゃん!? どうしたの……っ!?」


「はっ、ひぅ……っ、お姉、ちゃん……お兄ちゃん、が……ち、血が……っ!!」


過呼吸だ。完全に精神的な発作を起こしている。

詩織の予想を遥かに超えて、記憶の拒絶反応は凄まじかった。

結衣ちゃんは過呼吸で顔を真っ青に染め、湯船の中で溺れかけるように激しく暴れ出した。

お風呂場の中に、水飛沫と、結衣ちゃんの悲痛な悲鳴が響き渡る。


「大変、誰か――お母さん! 蓮くん!!」


詩織が叫んだ、まさにその時だった。


バシャッ! と激しい音を立てて、お風呂場の引き戸が勢いよく開け放たれた。

飛び込んできたのは、部屋着のまま、なりふり構わず駆けつけた「お姉ちゃん」だった。


「結衣――っ!?」


普段の気弱な姿からは想像もつかないほどの俊敏さで、蓮くんはお風呂場の床を蹴った。

男バレの恐怖も、衣服が濡れて嘘が暴れるかもしれないというリスクも、最愛の妹が溺れかけているという極限の事態の前に、彼の脳内から一瞬で消し飛んでいた。


蓮くんは迷うことなく、そのまま湯船の中へと一番に飛び込んだ。

激しい水飛沫が上がる。お湯に浸かった蓮くんは、過呼吸で暴れる結衣ちゃんの華奢な身体を、正面から強く、壊れ物を扱うように抱きしめた。


「結衣、大丈夫だよ……! お姉ちゃんがここにいる、ここにいるから……っ!」


世界で一番優しい「お姉ちゃんの声」を結衣ちゃんの耳元で囁き続ける。

その抱擁と澄んだ声に、結衣ちゃんの激しい痙攣が、奇跡のようにピタリと収まっていった。

結衣ちゃんはお姉ちゃんの腕の中で、まだ浅い呼吸を繰り返しながら、ぐったりと胸に顔を埋める。


「はぁ、はぁ……結衣ちゃん、もう大丈夫だからね……」


お湯から這い上がった蓮くんが、安堵に肩を震わせる。


その時、湯船の中で間近にそれを見ていた詩織は、息を吸うことすら忘れて、目の前の光景に完全に目を奪われていた。

濡れた白いTシャツが、蓮くんの肌に容赦なく張り付いている。煽情的な女性の姿。

しいて違いを挙げるなら、胸囲に女性特有の膨らみが無いことくらいだ。

お湯を含んで透けた生地の向こうにあるのは、女性のそれとほぼ遜色がない、眩しいほどに白く、滑らかで、驚くほど華奢な肉体だった。

父親から刻まれた無数の傷跡さえも、その線の細い背中の美しさを、どこか退廃的で冒涜的なものに引き立てている。


(なんなの、この身体……。本当に、男の子、なの……?)


昨日まで「人殺しの獰猛な男」として怯え、その正体が「妹の身代わりになった少年」だと知ったばかりだった。

なのに、今目の前で濡れそぼっている蓮くんの身体は、同じ女の子である詩織が思わず視線を釘付けにされてしまうほど、あまりにも美しく、そしてあまりにも歪だった。

全裸の少女が、濡れた衣服を纏った少年の「女性と見紛う美しさ」に、強烈に脳をバグらされていた。


「結衣ちゃん!? 蓮くん、今タオル持ってきたわ!」


そこへ、バタバタと廊下を駆ける足音とともに、梓さんが大きなバスタオルを何枚も抱えてお風呂場に飛び込んできた。

梓さんはすぐに、湯船から結衣ちゃんを抱き起こした蓮くんの身体に、優しく、包み込むようにバスタオルを掛けた。


「蓮くん、結衣ちゃんを助けてくれてありがとう。大丈夫よ、私がついてるからね」


梓さんは結衣ちゃんの身体を労りながらも、その視線は、濡れたTシャツ姿の蓮くんの細い身体を、舐めるように、そして至上の宝物を見つめるような、底知れない目で直視していた。

実の母親でもない彼女が、なぜこれほどまでに、この傷だらけで華奢な「前科者の少年」に執着し、夜中にその身体を抱きしめて薬を塗るのか。

その歪んだ愛欲の根源が、このお風呂場の白い湯気の中で、静かに、しかし決定的な伏線として形を成していた。


「……詩織」


結衣ちゃんをバスタオルで包みながら、梓さんが実の娘である詩織に向けて、今まで見たこともないような、冷酷で恐ろしい目を向けた。


「あなた、結衣ちゃんに何を言ったの? 二度と、蓮くんたちを困らせるような真似はしないで」


「あ……、私は……」


詩織は湯船の中で身をすくませ、ただガタガタと震えるしかなかった。

濡れた身体のまま、結衣ちゃんをお姉ちゃんの顔で愛おしそうに見つめる蓮くん。

その蓮くんの華奢な肉体に、異様な執念の視線を注ぐ母親の狂気。






自室に戻り、鍵を閉めた瞬間、詩織はその場に崩れ落ちるようにへたり込んだ。

湯船の熱のせいではない。

全身の骨という骨がガタガタと震え、歯の根が合わない。


「お母さん……、やっぱり、蓮くんを……」


前々から、薄々気づいてはいたのだ。

誰も蓮くんの名前を呼ばないあの家で、お母さんだけが不自然なほど彼に優しく接すること。

深夜、リビングの明かりの下で、蓮くんの傷だらけの背中に薬を塗るお母さんの手つきが、ただの親戚を労るそれにしては、あまりにも生生しく、熱を帯びていたこと。

少年院上がりの前科者、という逃げ場のない弱みにつけ込み、お母さんはあの気弱な蓮くんを、肉体的に『搾取』している。

あの湯船での、お母さんの目が、すべてを物語っていた。

濡れたTシャツ姿の蓮くんの細い身体に、タオルを掛けながら向けた、舐めるような、至上の宝物を独占するような貪欲な視線。

やっぱり、お母さんは蓮くんを『おもちゃ』にしているのだと、あの瞬間、確信に変わった。


「う、あ……っ」


だが、次の瞬間、詩織は自分の両手で口を塞ぎ、激しい吐き気に襲われた。

お母さんの怪物性に気づいたからではない。

本当の恐怖は、その後に訪れた。


(……私だって、あの時、目を奪われてたじゃない)


脳裏に、湯船の中の光景が、強烈なフラッシュバックとなって焼き付いて離れない。

お湯を吸って肌に張り付いた白いTシャツ。胸の膨らみがないこと以外、眩しいほどに白く、滑らかで、あまりにも美しく華奢だった、蓮くんのあの肉体。

人殺しの怪物だと怯えていたはずなのに、あの瞬間、詩織の脳は「魅力的だ」と、強烈に彼を求めてしまっていた。


(違う……、私は、お母さんとは違う……っ!)


詩織は自分の頭を掻きむしるようにして、ベッドの上で身悶えた。

お母さんの悍ましい搾取に気づき、蓮くんを「可哀想だから助け出さなきゃ」と正義感を燃やしているはずなのに。その正義の裏側で、自分もまた、あの蓮くんの華奢な肉体に心を奪われ、お母さんと同じように「自分のものにしたい」という歪んだ欲を抱き始めてしまっているのではないか。

自分の中を流れているのは、あの底知れない怪物である、お母さんの血なのだ。

いつか自分も、蓮くんの弱みにつけ込み、あの身体を貪るようになるのではないか――。



「違う、私は……っ。……蓮くんを、ここから出さなきゃ。蓮くんを助けるのは、私の……私の、正義だから……っ」


それが純粋な救出の意志なのか、それとも母親から蓮くんを奪い去りたいという独占欲なのか、今の詩織にはもう判別がつかなかった。

ただ、このままでは、蓮くんはお母さんに肉体を貪られ、結衣ちゃんに精神を削られ、生きたまま擦り切れて死んでしまう。

そして自分もまた、お母さんと同じ怪物になってしまう。

涙を拭い、詩織はスマートフォンを強く握りしめた。

この歪んだ家を破壊し、蓮くんを地獄から引きずり出すには、もう、結衣に直接、現実を突きつけるしかない。



翌日の学校の放課後。詩織は、お母さんや蓮ちゃんの目の届かない廊下で、一人で帰ろうとする結衣ちゃんの前に、静かに立ち塞がった。


「結衣ちゃん。……ちょっと、二人だけでお話しできる?」


「え? 詩織ちゃん、どうしたの?」


無邪気に首を傾げる結衣ちゃん。

詩織は、自分の胸の奥で暴れる「母親と同じ歪んだ欲」を正義の仮面でねじ伏せながら、冷徹な声で、結衣ちゃんの記憶の蓋に手をかけた。


「結衣ちゃんが毎日大好きな『お姉ちゃん』ってさ……。本当に、留学に行ってたのかな? あの夜のお風呂場で言ってたこと……、誰が血まみれだったの?誰が洗ってくれたの?もう一度よく思い出してみてよ」


詩織の冷徹な言葉が放課後の無人の廊下に響いた瞬間、結衣ちゃんの瞳からすべての光が消えた。

脳内の禁忌の箱がこじ開けられ、忘却していたあの雨の夜の惨劇が、濁流となって彼女の精神を内側から破壊し始める。


「あ、う……あ、っ……! お、にぃ、ちゃん……? お姉ちゃん……ひっ、あ、あぁぁぁぁっ!!」


昨日以上のはげしい発作。

結衣ちゃんは自分の頭を強くかき抱き、学校の床に爪を立てて激しくのたうち回り始めた。

過呼吸で唇がみるみる青ざめ、浅い呼吸を繰り返しながら、泡を吹いて白目を剥きかける。

だが、詩織の足はすくまなかった。

昨日のお風呂場とは違う。今日の詩織には、この発作を引き起こしてでも、この家族の歪みを正すという『覚悟』があった。

お母さんに肉体を貪られ、結衣ちゃんに存在を消され、私には人殺しとして怯えられていた、蓮くん。

あいつをこの地獄から救い出すためには、結衣ちゃんのガラスの平穏を、自分の手で叩き割るしかないのだ。


「結衣ちゃん、しっかりしなさい……っ!」


詩織は床に膝をつき、激しく暴れる結衣ちゃんの両肩を強く押さえつけた。

過呼吸のパニックで正気を失い、ただ悲鳴を上げ続ける結衣ちゃんの顔を見据える。

お母さんと同じ、相手を自分の思い通りに動かしたいという支配欲なのか、それとも純粋な正義なのかは、もう分からない。

ただ、詩織の右手には、激しい衝動が宿っていた。



――パァンっ!!



乾いた高い音が、放課後の無人の廊下に鋭く響き渡った。

詩織の放った渾身の平手打ちが、結衣ちゃんの白い頬を赤く染め上げる。

強烈な肉体的衝撃。それが、結衣ちゃんの脳内を支配していた過去のフラッシュバックを、強制的に一瞬で遮断した。


「は……っ、あ……」


結衣ちゃんの身体の痙攣が徐々に収まる。

見開かれた瞳に、現実の『正気』の光が戻ってきた。

頬の痛みに呼吸を整えることを思い出したのか、ヒュー、ヒューと、浅かった呼吸が徐々に深く、静かなものへと落ち着いていく。


「詩織、ちゃん……? 私、いま、何を……」


床にへたり込んだまま、赤くなった頬を押さえ、呆然と詩織を見上げる結衣ちゃん。

その胸ぐらを、詩織は躊躇なく両手で掴み上げ、至近距離でその瞳を真っ直ぐに射抜いた。

今、言わなきゃダメだ。この子の心が「お姉ちゃん」という都合の良い妄想の殻に閉じこもる前に、本当の現実を突き刺さなければならない。


「結衣ちゃん、よく聞いて。よく思い出して。あの夜、激しい雨の中で、おじさんを殺して血まみれになっていたあなたを、お風呂場で必死に洗ってくれたのは誰?」


「お、ねえ……ちゃん……?」


結衣ちゃんの瞳が、恐怖で再びバグを起こしそうに激しく泳ぐ。

詩織は掴む手にさらに力を込め、放課後の廊下に響き渡るほどの声で叫んだ。


「違う!! 結衣ちゃん!あなたにとって、この世界で一番大事な人は誰なの!?」


「お姉ちゃん! 私が一番大好きなのは、お姉ちゃんだよ……っ!」


結衣ちゃんは涙を流しながら、詩織の言葉を拒絶するように叫び返した。

お姉ちゃんがいなければ、自分の精神が崩壊してしまうから。必死に幻影にすがりつこうとする。

だが、詩織の追及は、さらに冷酷にその防壁を抉り出した。


「じゃあ、結衣はお姉ちゃんの名前わかるの!?」


「え……?」


「この家に来てから、あなたも、お母さんも、誰もあの人の名前を呼んでない! あなたが毎日毎日『大好き』って縋り付いてるお姉ちゃんの名前は、なんていうのよ!? 答えてみてよ!!」


「あ、それは……お姉ちゃんの、名前は……名前は……」


結衣ちゃんの口が、金魚のように無防備に開いたまま、言葉を失った。

脳内の記憶をどれだけひっくり返しても、引き出しを開けても、大好きなはずの「お姉ちゃん」の名前が、どこにも存在しない。

ただの「お姉ちゃん」という記号しか、脳のどこにも登録されていないのだ。

思考が完全にフリーズし、結衣ちゃんの顔から、サーッと血の気が引いていく。その絶望の空白へ、詩織は決定的なナイフを突き立てた。


「お姉ちゃんの名前なんて最初から無いの。だって、最初からいないんだから……」


「え……」


「お姉ちゃんのあの華奢な身体に…っ……、あの傷だらけの身体を見て、本当に何も気づかないの!? あの夜、あなたの代わりにすべての罪を被って警察に捕まったのは誰!? 少年院で二年間もあなたを思って手紙を書いていたのは!?戻ってきてからも、自分の心を潰してまであなたの前で『お姉ちゃん』を演じ続けてくれているのは、誰なのよ!」


詩織の瞳から、ボロボロと涙が溢れ落ちた。

自分のすべてをドブに捨てて、名前も性別も消し去って、亡霊としてこの狂った家に仕え続けている、あの優しい少年への、張り裂けそうなほどの哀れみだった。


「お姉ちゃんじゃない……。お姉ちゃんの中身は、あなたが『気味が悪い』って空気みたいに無視し続けている、実の兄の、蓮くんなんだよ……っ!!」


「蓮、くん……お兄ちゃんが、私の、代わりに……う、あ、あぁぁぁぁぁっ!!」


結衣ちゃんは両手で頭を抱え、獣のような悲鳴を上げて床に突っ伏した。

お姉ちゃんに抱きつきながら、その中身である「蓮くん」に向けて放ち続けた、無数の残酷な言葉が、刃となって結衣ちゃん自身の胸に突き刺さる。

自分が父親を殺したという罪の意識。

そして、大好きな兄の人生を、肉体も精神もすべて生贄に捧げて自分だけが「お姉ちゃん」という偽りの天国でのうのうと生きていたという、あまりにも重すぎる愛の真実に、結衣ちゃんの精神は臨界点を迎えて決壊した。

その場に泣き崩れる結衣ちゃんを見下ろしながら、詩織は激しく痺れる右手を見つめた。

これで、蓮くんの偽りの天国は、私の手で完全に崩壊した。

お母さんの支配から、結衣ちゃんの妄想から、あの優しい少年を救い出すための、これが詩織の『正義』だった。




カチャリ、と静かに玄関のドアが開いた。

放課後の無人の廊下で、詩織の平手打ちと叫びによって全ての妄想を叩き割られた結衣ちゃんは、幽霊のように生気を失った顔のまま、詩織に手を引かれて歪な我が家へと足を踏み入れた。


「あ、おかえりなさい。結衣、詩織ちゃん。今日は遅かったね」


リビングのドアを開けた瞬間、いつもの、鈴を転がすような澄んだ「お姉ちゃん」の声が響いた。

そこにいたのは、完璧な美少女の姿をした蓮ちゃんだ。

一卵性ゆえに結衣ちゃんとそっくりな、胸に膨らみがないこと以外は女性と遜色ない華奢な身体に、淡いピンクのブラウスを纏って微笑んでいる。

いつもなら、結衣ちゃんが嬉々としてその胸に飛び込んでいく、この家の『いつもの日常』。

だが、今の結衣ちゃんの瞳に映っているのは、存在しないお姉ちゃんなどではなかった。


(お兄ちゃん……。私のために、自分を全部殺して、そこに立っているお兄ちゃん……)


「お、にぃ……ちゃん……っ」


結衣ちゃんの口から漏れた、掠れたその一言に、リビングの空気が完全に凍りついた。


「え……?」


完璧なお姉ちゃんの笑顔のまま、蓮くんの身体がガタガタと音を立てるように硬直した。

作っていた女性の声が、驚愕のあまり維持できなくなり、本来の気弱な少年の声が露わになる。


「結衣、いま、なんて……。僕は、お姉ちゃんだよ……? 留学から、帰ってきた……」


「お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ! ごめんなさい……っ!!」


完璧な少女の姿をした蓮くんの腰にしがみつき、結衣ちゃんは床に突っ伏して泣きじゃくった。

詩織の叫びによって、脳内の硬い殻が破られ、2年前のあの夜の『本当の記憶』が、濁流となって結衣ちゃんの全身を駆け巡っていた。

あの日、父親がいつも以上に激しく蓮くんを痛めつけ、蓮くんが意識を失いかけた、あの凄惨な夜。

結衣ちゃんを動かしたのは、自分への恐怖なんかじゃなかった。

『いつも私を守ってくれる、世界で一番大好きな、大切なお兄ちゃんが死んじゃう』その、あまりにも深すぎる、狂気的なまでの兄への愛情と激情が、普段は気弱な彼女に凶器を握らせ、父親を滅多刺しにさせたのだ。

なのに。自分の人生のすべてだったはずの、大好きなお兄ちゃんが、自分の代わりに警察に連れて行かれた。自分のせいで、お兄ちゃんの人生がめちゃくちゃに壊れてしまった。

その耐え難いほどの罪悪感と絶望に、結衣ちゃんの心は耐えきれなかったのだ。

お兄ちゃんを愛しすぎていたからこそ、お兄ちゃんを傷つけた現実から身を守るために、結衣ちゃんの脳はお兄ちゃんの存在そのものを精神から消去し、代わりに誰も傷つかない、安全な『お姉ちゃん』を作り出してしまった。


「私……お兄ちゃんが死んじゃうのが、怖くて……お兄ちゃんを助けたくて、お父さんを……っ。なのに、お兄ちゃんとの一番大事な思い出を忘れて、お姉ちゃんに会いたいなんて……っ! お兄ちゃんを、こんなに苦しめて……っ!!」


結衣ちゃんの小さな両手が、蓮くんのブラウスを強く、強く握りしめる。

愛する人を救うために罪を犯し、愛する人を思うがゆえにその人の記憶を失い、戻ってきた愛する人を「大嫌いな男」として傷つけ続けていた。

そのあまりにも残酷で、美しい因果関係のすべてが、今、結衣ちゃんの涙となって溢れ出していた。


「いいんだよ、結衣……。いいんだよ……」


女装したままの姿で、蓮くんはボロボロと涙を流し、実の妹を正面から強く抱きしめ返した。

自分の2年間の隠蔽工作も、性別も名前も捨てて紡いできた全ての嘘が、完全に崩壊した。

だが、蓮の胸を満たしていたのは、絶望ではなかった。


(結衣は、僕を忘れたんじゃなかったんだ。僕を……僕のことが大好きだから、壊れちゃってたんだね……)


生身の「蓮」としては空気のように無視され、徹底的に存在を消され続けていた少年が、二年の時を経て、ようやく最愛の妹の腕の中で、その本当の愛を受け取ることができたのだ。

2人の少女の忘却と、1人の少年の自己犠牲によって成り立っていた「偽りの天国」は、今、お互いを思い合う本物の愛の涙によって完全に洗い流され、崩壊した。

その光景を、リビングの奥から、不自然なほどに自然な、穏やかな大人の微笑みを浮かべたまま見つめている梓。

その母親の不気味さに背筋を凍らせながら、ただ立ち尽くす詩織。

誰も何も解決していない。

お母さんの搾取も、結衣ちゃんの犯した罪の現実も、ここから本当の地獄となって襲いかかってくる。

だが、蓮くんと結衣ちゃんの、愛しすぎて歪んでしまっていた二人の時計の針だけが、2年前のあの雨の夜から、ようやく今、正しく動き出そうとしていた。



ー完



ー蛇足




「さあ、二人とも、ご飯が冷めちゃうから席につきなさい」


泣き崩れる結衣と、女の姿のまま本当の「僕」を晒して涙を流す蓮。

そして、すべてを暴いて自分の『正義』と『血の業』に震える実の娘、詩織。

リビングの真ん中で、私はいつも通り、穏やかに微笑みながら声をかけた。

子供たちは誰も動かない。

まるで、この私が不気味な怪物の姿にでも見えているかのように、怯えた瞳を私に向けている。

ふふ、可哀想に。本当に可愛い子供たち。

でもね、詩織。あなたが必死になって暴いたその『真実』なんて、私にとっては最初から、なぞる必要すらないただの既定路線なのよ。

だって、あの地獄のような日々を、一番近くの特等席で、ずっと愛おしく眺めていたのはこの私なのだから。





十六歳の冬、私は詩織を産んだ。

若すぎる母親。世界からの冷たい視線。そんな灰色の世界で、私が心から焦がれ、愛したのは、先輩――蓮と結衣の父親だった。

けれど、彼は私ではなく、私の親友を選んだ。

二人は学生結婚し、あの美しい一卵性の双子を設けた。手に入らなかった絶望。

私は別の男と結婚して吹っ切れたつもりだったけれど、運命の神様は、私をただの母親では終わらせてくれなかった。私の夫が事故で亡くなり、同じ時期に、あの親友も病でこの世を去った。

残されたのは、心を病み、酒に溺れ、怪物のようになっていくあの男と、幼い双子。

私は彼を今度こそ手に入れるために、壊れていくあの家に何度も付け入ろうとした。

けれど、男は心を閉ざしたまま、酒の勢いで、自分の息子である蓮へと激しい暴力を振るうようになった。

あの日、鍵の開いたあの家に入った瞬間を、私は一生忘れない。お風呂場からは、激しいシャワーの水音が聞こえていた。

結衣が、父親の怒鳴り声と、お兄ちゃんの悲鳴から耳を塞ぐために、泣きながらお風呂場に籠って水を流し続けている音。

そして、居間の床で、父親からの凄惨なDVと性的暴力を全身に受けながら、じっと耐えていた、当時十三歳の蓮。

彼はボロボロに傷つき、涙を流しながらも、お風呂場にいるであろう妹の方をじっと見つめていた。


『僕がいくらでも汚れるから。だから、結衣には絶対に触らないで』


その瞳に宿る、実の妹を守るためなら自分の肉体も精神もすべてをドブに捨てて構わないという、あまりにも狂気的で、あまりにも純粋な、自己犠牲の愛。


その瞬間、私は、この少年に恋をした。

手に入らなかったあの男の面影を残しながら、世界で一番美しく狂った愛を放つ、この少年のすべてを、私のものにしたいと心の底から欲望した。

だから、私は止めなかった。そこから事件が起きるまでの丸一年間、男が蓮を蹂躙し、結衣がお風呂場で耳を塞いで震え続けるその地獄を、私はあえて放置した。

だって、蓮が傷つけば傷つくほど、彼の自己犠牲の美しさは研ぎ澄まされ、私の優しさなしでは生きられない身体になっていくのだから。


行為が終わった後、私はいつも「聖母」の顔をして、ボロボロの二人を優しく抱きしめてあげた。

つらすぎる記憶のせいで、二人はもう当時のことをほとんど覚えていないみたいだけれどね。


そして二年前、限界を迎えた結衣が父親を殺したあの夜。

蓮が「自分が身代わりになる」と結衣の血を洗って彼女の服を着て捕まった時も、私はすべてを察しながら、警察に「蓮くんがやりました」と涙ながらに偽の証言をした。


蓮を完璧な「前科者」という檻に閉じ込め、私の手元へ引き取るための、最高の舞台が整ったのだから。





「……お母さん、本当に何とも思わないの……?」


詩織が、ガタガタと唇を震わせながら私を睨みつける。

私の可愛い娘。

あなたは「蓮くんを救う」という正義感で結衣の記憶を暴いたつもりでしょう。

でも、そんなの何の意味もないのよ。結衣が真実を思い出して、「お姉ちゃん」の嘘が崩壊したところで、私の計画は1ミリも揺るがない。


むしろ、大好きな結衣から「お兄ちゃん」と呼ばれ、嘘の防壁を失った蓮は、これからさらに激しい罪悪感と絶望に苛まれることになる。

結衣は自分が真犯人だという地獄に叩き落とされ、詩織、あなたも自分の正義が二人を壊したという罪に潰される。

結局、子供たち、あなたたちは誰も、自力では息すらできなくなる。

そうしてボロボロになって、お風呂場の濡れたTシャツの向こうに見えた、あの眩しいほどに華奢で美しい蓮の肉体を、最後に優しく包み込んであげるのは、この私だけ。


私の本当の狙い。それは、あの初恋の男の血を引き継ぎ、私を救ってくれなかった男の代わりに、私のためにどこまでも狂って自分を捧げてくれる蓮の――『子』をこの身体に宿し、完璧な、私だけの新しい家族を作ること。


「さあ、みんな、早く座りなさい。これからは隠し事のない、本当の家族の始まりなんだから」


私は、偽りの王国が跡形もなく崩壊したリビングで、昨日までと全く変わらない、世界で一番優しい聖母の笑顔を彼らに向けた。




子供たちの足掻きも、涙も、絶望も。すべては、私が蓮のすべてを貪り尽くすための、美しい苗床に過ぎないのだから。


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