表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

お母さんありがとう

作者: 香月 深青
掲載日:2026/05/10


いつも照れくさくて、素直に言えない言葉がある。


ありがとう。


たった五文字なのに、どうしてこんなに難しいんだろう。


朝、まだ眠い目をこすりながら食卓につくと、ちゃんと朝ごはんが並んでいる。


忙しいはずなのに、洗濯物はきれいにたたまれていて、部屋はいつの間にか片づいている。


熱を出した夜には、何度も部屋をのぞきに来てくれる。


帰りが遅くなれば、


「ちゃんと食べた?」


って、真っ先に聞く。


落ち込んでいれば、何も聞かずに好きなおかずが並ぶ。


叱られるときもある。

口うるさいと思う日もある。

「もう子どもじゃないんだから」って、心の中でむくれる日もある。


それでも気づけば、いつもそこにいる。


当たり前みたいに。

何も言わずに。

あたたかく。


本当は、ちゃんと分かっている。


どれだけ守られてきたか。

どれだけ愛されてきたか。


だから今日だけは伝えたかった。


今日は——母の日だから。


母の好きな、ピンク色のバラの柄の便箋を引き出しからそっと取り出す。


昔、可愛いからと何枚か買って、大事そうにしまっていたもの。


「特別な時に使おう」


そう笑っていた母の顔を思い出す。


書きたいことはいっぱいあるのに、いざペンを持つと胸がいっぱいになって、うまく言葉にならない。


ありがとう。


大好き。


いつもごめん。


いっぱい心配かけてごめん。


生んでくれてありがとう。


育ててくれてありがとう。


伝えたいことは山ほどあるのに、涙がにじんで、うまく書けなくなる。


何枚も書き直して、最後に残ったのは、短いけれど、いちばん伝えたかった言葉だった。


お母さんへ


いつもありがとう。

なかなか素直に言えないけど、本当はいつも感謝しています。

これからも元気でいてね。


大好きです。


小さな花束と、心ばかりのプレゼント。


それを、そっとリビングのテーブルの上に置いた。


見つかるかな。


どんな顔をするかな。


少し照れくさくて、少し嬉しくて、胸の奥がくすぐったくなる。


その夜。


喉が渇いて部屋を出ると、リビングに小さな灯りがついていた。


覗くと、母がひとり、テーブルの前に座っていた。


私が置いた手紙を、両手で大事そうに持っている。


肩が、少しだけ震えていた。


ぽたり。


便箋の上に、小さな涙のしずくが落ちる。


母が泣いていた。


静かに、静かに。


嬉しそうに。

愛しそうに。

何度も手紙を読み返しながら。


その姿を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと熱くなる。


ああ。


こんなに喜んでくれるんだ。


こんなに、大切に受け取ってくれるんだ。


見つかったら恥ずかしい。


そう思って、そっとその場を離れようとした。


けれど——


足が止まった。


言いたかった言葉が、胸の奥からあふれてくる。


振り向かず、ぶっきらぼうに。


少しだけ照れくさそうに。


でも、ちゃんと届く声で言った。


「……お母さん、いつもありがとう」


一瞬、静けさが落ちる。


そして、後ろから小さく聞こえた。


嗚咽まじりの声。


「こちらこそ……生まれてきてくれて、ありがとう」


胸がいっぱいになって、泣きそうになる。


でも振り向けなくて、


「……うん」


それだけ言って、自分の部屋へ戻った。


暗い部屋の中、胸に手をあてる。


あたたかい。


ずっと言えなかった、たった五文字。


でも、その五文字で、心がこんなにも満たされるなんて知らなかった。


伝えられる今日があること。


「ありがとう」と言える相手がいること。


それはきっと、当たり前じゃなくて——


とても幸せなことなんだ。


窓の外では、やわらかな夜風がカーテンを揺らしていた。


いつもの夜。

でも少しだけ、世界がやさしく見えた。


明日の朝は、ちゃんと顔を見て言おう。


照れくさくても、もう一度。


「お母さん、ありがとう」


そう、心の中でそっとつぶやいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ