宇宙の中で
暗い…
長い、長い時間。
僕は布団のなかで、ひとりでいた。
一体どれほどの時間そこにいたのかわからなくなった頃、僕は夢を見た。
夢を見ていると自覚して夢を見るのは初めてだった。
すうっと身体からあらゆる物の感触や温もりが消えてしまい、丸裸で空中に浮かんでいるような不安な気持ちになった。
そんなよく分からない夢の中で、誰かが僕を呼んでいる事に気付いた。
こっちに来て
女の子の声だった。
その子がなぜ僕を呼ぶのか、そして僕をどこに連れて行こうとしているのかまったくわからなかった。
でもこのわけがわからない空間の中で、どうしていいのかどうするべきなのか見当もつかなかった僕は、とりあえずその子に従っていれば大丈夫だろうと思い、呼ばれるままについて行った。
行くといっても、足が地についていないので歩いて行くのとは少し違う。
彼女が示す場所へ行きたいという意思に従って、意識が少しずつ場所を移していくのだ。
しばらくの間は、何も見えなかった。
正確に言うと、視覚刺激として受け取れる情報自体が無かったのだろう。
それでも、僕が女の子の存在を見失う事は無かった。
何も見えない世界の中でも、なぜか彼女の存在だけはしっかりと追う事が出来るようだった。
そうして、僕と女の子は共に進み続けた。
ここよ
女の子が最後に示した場所にたどり着いた瞬間、目の前に視覚情報としての世界がさっと広がった。
僕はとっさに女の子の姿を探したが、僕の視界にそれらしき人影は見えなかった。
そこは、どこかで見たような世界だった。
深い深い、黒とも青ともつかない色に染まった空間に、大小さまざまな球体が寂しげに浮かんでいた。
無機質で冷たそうな球体達は、意思も感情も持たずただただ決まった軌道を動き、自分に課せられた役目を果たしているかのように見えた。
…ここは、宇宙だ。
僕は思った。
そうよ
女の子が答えてくれた。
そして、これらはみんな、宇宙に浮かんだ星たちなの
女の子は、続けた。
一つ一つの存在や働きによってこの宇宙は作られていて、一つ一つが宇宙の為に大切な存在のはずなのだけど、あまりにも全体が大きいから、時々一つ一つの存在が無視されてしまう時があるの
……………。
でも、一つ一つが宇宙の為に頑張らないと宇宙自体がなくなってしまうかもしれない。大切な物は失ってから大切だったと気付く…ってやつかしら
…君は、なぜ僕にそんな話をするんだい?
僕は聞いてみた。
…あなたが、ここに来たからよ
どういう事?
思い出してみて あなたがなぜここに来たのか…
………………。
僕は…………。
女の子は言った。
わからなくなったんでしょう?決められた「軌道」を動き続ける自分の存在が、「宇宙」にとってどんな意味を持つのか…
え…?
不思議な気分だった。
女の子の言っている事がよくわからないはずなのに、なぜか彼女の言葉は僕の胸に突き刺さる。
宇宙?…軌道を描く…?
僕は、自分がここに来るまでの記憶をたどってみた。
………………
………
…
そう。いつもと同じ、疲れ切った夜だった。
重い身体を引きずり、玄関から這いつくばるようにして家の中へ。
身体は疲れていたが、どうもその夜はそのまま寝られる気がしなかった。
ああ、またか。 僕は思った。
時々、こんな夜がある。
この上なく孤独で、この上なく空疎な夜。
普段は忙しい日常の中で考えもしないような事が、少し一息ついた時に心にわっと押し寄せる夜。
今、僕はこうして毎日をあくせくと生きているけど、たとえ僕みたいなちっぽけな人間がひとり世界から消えたとして、この社会はまた明日から今日までと同じ営みを続けて行くんだろう。
それなら、僕のこの人生は、この社会に対して何の意味も持たないということか。
疲れているんだ。 僕の理性が呼びかける。
このへんでやめておけよ。 もろい心が思考にブレーキをかけようとする。
でも、この夜はどうしても止まらなかった。
頭を冷やした方がいい。 僕はベランダに出た。
晩夏の生ぬるい風を感じながら、僕はふと夜空を見上げた。
………。
星に似ている。 そう思った。
夜空に浮かぶ星たちは、皆それぞれ自転や公転を繰り返し、季節ごとの多種多様な星空の演出に貢献していると言える。
でも、そんな星たちの一つ一つを詳細に知っている人間なんてそうそういないし、大してポピュラーでもない星が一個消えた所で、気付く者が何人いるだろうか。
そう。無数に散らばる塵のような星がいくつか消えたとして、夜空は夜空……宇宙は宇宙としてその営みを永遠に続けていくのだ。
人間の社会もまたしかり……。
………いかん。また考えてしまっている。
こんな夜はさっさと寝てしまうに限る。
全く眠くなかったが、僕は家の中に戻り、早々に布団に入った。
でも、寝られない。
寝られないまま、ただ時間ばかりが経過していった。
何も考えまいと心を無にしながら、僕は布団の中で丸くなり続けた。
そして段々と意識が薄れていき………
君は……。
僕は聞いた。
……君は……何なんだ……。
正直な疑問だった。
僕は今や、自分の心の内面まで見通しているこの女の子に、畏怖のような感情を覚えていた。
…私とあなたは、いわば軌道が近かっただけの二つの「星」のようなものよ
私は「あなたにとって」は、何の意味も名前も持たない存在
偶然すれ違った「星」どうしが自己紹介なんてしないし、
偶然目に入った星の名前なんて知らなければ知ろうともしないのとおなじようにね…
……偶然……なのか?
偶然よ
私には私の「宇宙」があって、あなたにはあなたの「宇宙」……社会がある
…一つ確かなのは、私もあなたも、それぞれの世界で、かけがえのない存在だと言うこと…
かけがえのない…。
そう かけがえのない…よ
間接的かも知れないけど、あなたが存在した事によって救われた人もいれば、不幸になった人もいる。
もしあなたがいなかったら、それらはまったく違う結果を迎えていたかもしれない。
でも……いえ……だからこそ、あなたはあなたの社会にとって、かけがえのない存在なのよ……
次の言葉は、僕の都合の良い僻耳だったのか、少し悲しげな響きを含んでいるように聞こえた。
…だから、あなたはもう、帰らなければならないわ。社会が、かけがえのないあなたを明日も待っているもの。
女の子の話が、僕の心に沈みこんでいたものをすうっと溶かしてくれたような気がした。
そうか……。
僕は目を閉じた。
とても、安らかな気分だった。
段々と意識が薄れてくる。
僕の世界・・・人間社会に帰っていくとだとわかった。
最後に聞いたのは、女の子がかけてくれたのであろう、励ましのことばだった。
…頑張って あなたならいつか誰もの心に光を灯し続ける「一番星」になれると思うわ
……だって あなたが今まで描いてきた「軌道」は、きっと正しいから……
朝、僕は一人で首をかしげていた。
…何か変な夢を見たという記憶はある。
しかしそれが具体的にどのような夢だったのか
夢の詳細についてはまったく思い出せないのだ。
景気のいい音とともにトースターから焼けた食パンが飛び出す。
既に着替えていたワイシャツにクズを落とさないよう、慎重にパクつきながら僕は時間を確認した。
…うん。そろそろ出発しないと。
今日も、また忙しい一日が始まるのだろう。
ただ、今日はいつになく、やれるだけ頑張ってみようと気持ちが前向きになっているように感じた。
玄関先で、いつものチェック。
定期よし。鞄よし。ハンカチもティッシュも持った。
………さあ、行こう!
俺は最初の一歩を、軽やかに、かつ力強く踏み出した。
響く足音が 頑張れ と言っているような気がした。
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