第九話 名もなき英雄(噂・第二)
噂というものは、
必ず“事実”から離れていく。
特に――
人が恐怖の中にいる時は。
「また村が助かったらしい」
街道沿いの宿で、商人が言った。
「今度は夜襲だ。
ゴブリンだけじゃない。
黒耀帝国の斥候もいたって話だ」
「……それで?」
「死者、なし」
その言葉に、周囲がざわつく。
「本当か?」
「奇跡だろ」
「いや……
あの“名もなき英雄”だ」
名が出ない。
だが、
誰の話かは、もう通じていた。
「聞いた話だと、
剣を振るう前に――
空気が変わったらしい」
冒険者の一人が、酒を煽りながら言う。
「次の瞬間、
オーガが倒れてた」
「魔法か?」
「分からん。
神の加護だって言う奴もいる」
別の男が、鼻で笑った。
「都合が良すぎる」
「そうか?」
冒険者は、真顔で返す。
「剣の国が滅びた今、
奇跡が一つくらい起きてもおかしくない」
誰も、反論できなかった。
噂は、少しずつ形を変える。
「子供だって話だったよな?」
「いや、実は青年だったらしい」
「鎧を着てないのに、
魔物の攻撃を受け止めたとか」
「一緒にいたエルフが、
ワイバーンを落としたって噂もある」
話は、盛られていく。
事実と違っても、
止める者はいない。
助かった村がある。
それが、すべてだった。
同盟本部。
報告書が、一枚、また一枚と積み上がる。
《辺境村落、防衛成功》
《敵戦力、詳細不明》
《協力者、未確認》
同じ文言。
名前は、ない。
「……増えているな」
魔法の国の補佐官が、眉をひそめる。
「はい」
書記官が頷く。
「同盟軍が動く前に、
すでに事が終わっているケースが増えています」
「偶然か?」
「それを判断する材料がありません」
沈黙。
それは、
同盟にとって不安材料だった。
制御できない力は、
味方であっても、危険だ。
「探すべきでは?」
誰かが言った。
「英雄なら、
同盟の旗の下に立たせるべきだ」
「……英雄、か」
別の声が、低く応じる。
「名も、誓いもない存在を?」
円卓の空気が、張り詰める。
剣王を失った世界で、
“次の英雄”という言葉は、重い。
一方、辺境。
夜明け前の村で、
人々が壊れた柵を直していた。
「助かったな……」
「本当に」
「名前、聞いたか?」
「聞いてない」
誰も気にしていなかった。
生きている。
それで十分だった。
遠くの森の奥。
誰にも見られず、
誰にも呼ばれず。
名もなき存在は、
すでに次の場所へ向かっている。
噂だけを、残して。




