第七十九話 風魔神 ――神話の残骸
扉が、閉じた。
それは音ではなかった。
世界そのものが、背後で「区切られた」感覚だった。
ユウトは、反射的に一歩前へ出ようとして――
足を止めた。
重い。
いや、違う。
立つことを、許されていない。
膝に圧がかかる。
肺が、勝手に空気を吐き出す。
息を吸おうとするほど、胸が軋んだ。
「……っ」
サラも、同時に息を詰めていた。
弓を握る手が、わずかに下がる。
精霊の気配が――薄い。
いや、違う。
押し潰されている。
ここは第百二十層。
世界樹が“神話の残骸”を隔離した場所。
世界を守るために、
世界から切り離された場所。
空間は広い。
だが、どこまでも“閉じて”いた。
空はない。
地平もない。
あるのは、荒れ狂う大気そのもの。
次の瞬間だった。
――風が、逆巻いた。
下から上へ。
内から外へ。
世界の法則を嘲笑うように、
空気が渦を巻き、立ち上がる。
それは、ただの竜巻ではない。
大陸を飲み込める規模。
渦の中心に、稲妻が走る。
一本、二本ではない。
空間そのものが裂け、
光の槍が、無数に突き刺さる。
轟音。
いや、音という概念が、遅れている。
世界が壊れる“前兆”だけが、
先に存在していた。
「……来る」
ユウトが、低く言った。
剣を構えるより早く、
精霊王の剣が、自ら震えた。
だが――
炎は、応えない。
水も、大地も、沈黙している。
唯一、反応したもの。
サラの指。
風の王の指輪。
白銀の宝玉が、強く光を放った。
それは警告ではない。
共鳴だった。
「……イルク?」
サラが、息を殺して名を呼ぶ。
返事はなかった。
だが次の瞬間――
声が、響いた。
風ではない。
精霊でもない。
もっと深く、
もっと古い。
『……ここまで来たか』
渦の中心が、歪む。
稲妻が絡み合い、
風が“形”を持ち始める。
それは、人の輪郭に似ていた。
だが、巨大すぎる。
山より高く、
城壁よりも太い。
風でできた“神”。
否――
風魔神。
神話の時代、
暴風神と呼ばれた存在。
そして。
イルクの――父。
『……父よ』
今度は、はっきりとした声だった。
指輪から、風が溢れる。
サラの背後に、淡い人影が浮かび上がる。
若き日のイルク。
だが、表情は硬い。
『なぜ……なぜ、ここに』
問いには、答えが返らない。
風魔神は、ただ見下ろしていた。
人を。
世界を。
その視線に、感情はない。
愛も、憎しみもない。
あるのは――
否定。
『……まだ、世界は未完成だ』
低く、重い声。
『止めねばならぬ』
『壊れねばならぬ』
その言葉が放たれた瞬間、
竜巻がさらに膨張した。
稲妻が、床を撃ち抜く。
空間が焼け、裂け、再構築される。
この場に立っているだけで、死ねる。
ユウトは理解した。
これは戦闘ではない。
災害ですらない。
“世界の調整”。
その時――
別の声が、重なった。
『……無駄だ』
闇。
風の音を、すべて飲み込む低音。
世界樹の奥から、
否定そのものが囁く。
『感情を捨てた神に、言葉は届かぬ』
『すでにこれは、意志ではない』
『風魔神は――
止まらぬ』
サラの指が、震える。
イルクが、叫ぶ。
『父よ!
もう、終わったはずだ!』
『世界は――』
最後まで、言わせてもらえなかった。
竜巻が、爆発した。
稲妻が、無数に降り注ぐ。
視界が、白に塗り潰される。
ユウトは、剣を前に突き出した。
精霊王の剣が、初めて悲鳴を上げる。
この先は、神話の領域だ。
人が踏み込めば、
砕けるだけの場所。
それでも。
ユウトは、一歩も引かなかった。
――ここで退けば、
世界は終わる。
風魔神が、腕を上げる。
次の瞬間。
ありえない大きさの竜巻と稲妻が、部屋全体を覆った。
それは、
戦いの始まりを告げる合図だった。




