第十話 名もなき英雄(本人視点)
夜明け前の空気は、冷たい。
村の外れ、焚き火の跡がまだ燻っている。
俺は、剣を拭きながら、静かに息を吐いた。
(……また、生き残った)
それだけだ。
達成感も、誇らしさもない。
ただ、今日も死ななかったという事実だけが残る。
背後で、気配が動く。
「……見張り、交代するわ」
低い声。
振り返らなくても分かる。
弓を背負ったエルフだ。
「助かる」
短く答え、剣を鞘に収める。
村では、誰も俺たちを起こさなかった。
それでいい。
名を聞かれなかったのは、幸いだった。
(名を持てば、足が止まる)
それを、俺は知っている。
⸻
昨夜の戦いを思い返す。
ゴブリン数体。
斥候らしき人影が二つ。
正面からやれば、囲まれて終わりだ。
だから――
選択する暇はなかった。
距離を詰め、
一体を斬り、
次の瞬間には背後へ回る。
剣の腕は、正直に言えば、まだ足りない。
だからこそ。
(……頼む)
心の中で、そう念じた瞬間、
感覚が“はっきり”した。
まるで、世界の輪郭が強調されるように。
踏み込み。
刃の軌道。
――当たる。
確信があった。
結果は、噂の通りだ。
だが、誰にも説明する気はない。
⸻
「ねえ」
エルフが、少しだけ声を落とす。
「また、見られてたわよ」
「……そうか」
「噂になる」
分かっている。
だから、ここに長居はしない。
「追われるのは、嫌?」
「面倒だ」
即答すると、
彼女は小さく息を吐いた。
「英雄扱い、向いてないものね」
「向いてる奴なんて、いないだろ」
焚き火の灰を踏み消す。
準備は終わりだ。
⸻
剣の国が滅びた。
その事実を、俺はもう受け入れている。
怒りも、悲しみもある。
だが、それを振り回す気はない。
(……守れなかったものは、戻らない)
だから、今は。
目の前で、失われそうな命だけを拾う。
それでいい。
英雄にならなくていい。
名も、称号も、旗もいらない。
ただ――
「行くわよ」
「ああ」
村を離れる。
背後で、人の声がする。
「……また来てくれるかな」
「分からないさ」
誰かが答えた。
その言葉が、胸に刺さる。
でも、振り返らない。
振り返った瞬間、
“名もなき英雄”になってしまう。
俺は、ただ歩く。
次の村へ。
次の戦場へ。
世界がそれを望む限り。
――名を持たぬまま。




