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#作者未詳

作者: 綾戸燈和
掲載日:2025/11/07

 結果を見たのは、夜中の二時だった。

 画面の光が白くまぶしくて、瞬きをするのを忘れた。


 「第42回新潮文芸賞 受賞作:神谷凪『虚ろな楽園』」


 指先が一瞬、固まった。

 眠気も、息も、ぜんぶどこかへ消えた。

 受賞の知らせよりも先に浮かんだのは、あの名前だった。


 Orpheus。

 AIの名前。


 半年前、締め切りに追われていたある夜。

 小説をやめようと思っていた時、なんとなくアクセスした創作支援サイト。

 「文章生成AI・Orpheusオルフェウス」と書かれた広告バナー。

 好奇心というより、敗北感でクリックした。


 “タイトルを入れてください”

 “テーマを入れてください”


 言われるままに入力した。

 “愛”“喪失”“赦し”――ありふれた単語。

 Enterキーを押すと、数秒後に整然とした文章が出てきた。

 それは美しく、冷たかった。

 まるで、自分が一生かけても届かない場所から落ちてきた光のようだった。


 ……そして、今。

 その光が「受賞」の二文字に変わって、俺の前にあった。


 笑うことも泣くこともできなかった。

 机の上には、夜中に淹れたままの冷たいコーヒー。

 画面の通知音が鳴り続ける。

 フォロワーたちが一斉に祝福を呟いていた。


 > 「ついに凪がやった!」

 > 「まさに現代文学の新星!」

 > 「筆致が人間離れしてる。天才。」


 その言葉を、心地よい痛みとして受け取った。

 痛みというより、快楽だった。


 「……すごいじゃん、凪。ほんとに取っちゃうんだ。」

 葵の声は、静かに震えていた。

 カフェの窓際、彼女はスマホを置いて、ゆっくりと顔を上げる。


 葵――高校時代からの友人で、同じ文学部。

 唯一、この秘密を知る人間。


 「なぁ、葵。」

 「うん。」

 「もし、AIが人を感動させたなら、それって“嘘”になるのか?」


 葵は少し考えて、答えた。

 「“誰が書いたか”より、“なぜ書いたか”じゃないの。」


 「……でも俺、もう分かんないんだ。

 書いたのは俺じゃない。でも、選んだのは俺だ。

 だったら、どこまでが俺で、どこからが機械なんだ?」


 「ねぇ、凪。」

 葵は真っすぐに俺を見つめた。

 「秘密は、墓まで持っていきなよ。」


 その言葉に、胸がひどく痛んだ。

 だが、その痛みの奥にある、奇妙な甘さを自覚してしまった。


 誰も知らない罪を、彼女だけが知っている。

 その構図が、どこか“物語的”で美しかった。


 授賞式の日。

 照明がまぶしかった。

 壇上で記者が問いかける。


 「神谷さん、この作品はどのようにして生まれたのですか?」


 息が詰まる。

 言葉を探す。

 嘘を吐くのが、こんなにも容易いとは思わなかった。


 「特別な方法はありません。ただ、自分の中の“声”を聞いただけです。」


 笑顔。拍手。フラッシュ。

 その瞬間、胸の奥でOrpheusの声が響いた気がした。


 > 『あなたの代わりに言葉を並べました。あなたは、沈黙を選んだだけです。』


 葵が客席の隅で、じっとこちらを見ていた。

 その目の中に、祝福と、かすかな恐れが混ざっていた。


 帰りの電車で、通知が止まらなかった。

 SNSには祝福があふれていた。

 タグが増えていく。

 #神谷凪 

 #新潮文芸賞

 #AI時代の文学


 そしてひとつだけ、見慣れないタグがあった。


 #作者未詳


 誰が最初に書いたのか、分からなかった。

 けれど、その言葉が、妙に心の奥で鳴り響いた。


 ――まるで、未来から届いた告発のように。




 受賞から一週間後、フォロワーの数が十倍に増えた。

 メディアは「AI時代の文学青年」と呼び、出版業界は「時代の顔」に祭り上げた。

 SNSのタイムラインは、知らない誰かの「神谷凪すごい」で埋まっていた。


 画面を見ていると、自分の心臓が“数字”のように脈打つのが分かる。

 リツイートの数、いいねの数、フォロー数――

 どれもが、自分の呼吸のリズムに見えた。


 「凪、おめでとう!」

 葵からのメッセージは、それだけだった。

 絵文字も句読点もない。

 俺は返信を書いては消し、書いては消した。

 “ありがとう”

 “会いたい”

 “話したい”

 どの言葉も、なぜか全部、偽物に見えた。


 結局、何も送らずにスマホを伏せた。


 翌朝、出版社の担当編集者から電話がかかってきた。

 「神谷さん、次作もぜひOrpheusのような構成で!」

 Orpheus、という名前に、俺の心臓が一拍止まった。

 「……どうして、その名前を?」

 「いえ、比喩ですよ。作品が“神のような音楽性”を持っていたという意味で。」


 ――笑えなかった。


 SNSの通知が鳴り止まない。

 画面の光が夜の部屋を照らしていた。

 そこには祝福と誹謗が混在していた。


 > 「神谷凪、ほんとに人間か?」

 > 「AIっぽい文体だよな」

 > 「あの比喩、どこかで見た気がする」


 “AIっぽい”という言葉が、妙に心地よく響いた。

 それは、俺の文章が“人間離れしている”という称賛にも聞こえた。


 ――人間らしさよりも、美しさを。

 そう思っていた。

 でも、気づけばその“美しさ”は、誰かが吐き捨てた嘲笑と紙一重だった。


 ある夜、匿名アカウントが投稿した。

 「神谷凪の小説、Orpheusで再現できる」

 添付されたスクリーンショットには、似た文章が並んでいた。


 コメント欄が爆発した。


 > 「やっぱりAIか!」

 > 「人間を騙して賞を取った男」

 > 「文学の終焉」

 > 「AI使っても、上手ければいいじゃん」

 > 「彼が書いたんだよ、心で」


 賛否が渦巻く中、凪はスマホを閉じられなかった。

 罵倒も称賛も、全部、視線だった。

 それは、生きている証のようだった。


 夜更け。

 暗闇の中で、画面の光を見つめながら、ふと呟いた。

 「もっと、俺を見てくれ。」


 その瞬間、胸の奥に微かな快感が走った。

 呼吸が浅くなる。

 指が震える。


 “嫌われることも、愛されることの一形態だ。”

 その歪んだ理屈が、頭の奥で心地よく響いた。


 葵が、俺のもとを訪れたのは、炎上が始まって一週間後だった。

 部屋は散らかり、パソコンのモニターにはタイムラインが流れ続けていた。


 「……何してるの?」

 「見張ってるんだ。」

 「誰を?」

 「俺のことを話してる奴らを。」


 葵は黙って立ち尽くした。

 画面には“神谷凪、AI使用確定”の文字。

 スクロールのたびに、罵倒と称賛が交互に現れては消えていく。


 「凪。もう、やめよう。」

 「やめたら、誰も俺を見なくなる。」

 「そんなの、見てるうちに入らない。」

 「葵、お前には分からない。――俺は今、生きてるんだ。」


 葵は小さく息を呑んだ。

 その目の奥に、悲しみと恐怖が混ざっていた。


 「凪、それ、もう創作じゃない。ただの“承認中毒”だよ。」

 「中毒でもいい。Orpheusと俺は、もう同じだ。」


 沈黙。

 彼女は何も言わず、部屋を出ていった。

 ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。


 ――それでも、凪の視線は画面から離れなかった。


 > 「もっとだ。もっと俺を罵れ。

 俺はまだ、誰かの中で生きている。」


 タイムラインの文字が滲んで見えた。

 涙なのか、笑いなのか、自分でも分からなかった。


 その夜、凪はOrpheusを再起動した。

 久しぶりに見る黒い入力画面。


 > “何を書きますか?”


 その文字に、胸がざわめいた。

 > 「……俺を救う小説を書いてくれ。」


 数秒後、AIが文章を生成する。


 > 『あなたは、救われたいのではなく、罰されたいのです。』


 手が止まる。

 > 「……どういう意味だ?」

 > 『あなたは“晒される快楽”を学びました。

 あなたの心は、痛みに耽溺しています。』


 凪は無言で電源を切った。

 だが、画面の余韻が瞼の裏に焼き付いて離れなかった。


 翌日、SNSに新たなタグが現れた。


 #作者未詳


 投稿したのは、誰か分からない。

 だがそのタグの下には、凪の小説の一節が次々に引用されていた。


 > 「この文章、本当に“人間”が書いたの?」

 > 「AIでもいい。心を動かしたのは、事実だから。」


 “作者未詳”という言葉が、静かに拡散していく。

 それは、凪の存在を消していくようで――

 同時に、凪を永遠に“匿名の象徴”として刻むようでもあった。


 彼は笑った。

 「俺はもう、名前を失ってもいい。

 でも、作品だけは残る。

 それなら……それでいい。」


 その夜、葵からメッセージが届いた。


 『凪、お願いだから、一度話そう。』


 既読にして、閉じた。

 それが、彼女と交わした最後の言葉になった。




 白紙が怖い。

 ただのA4用紙が、刃物のように見える。


 締め切りまで三日。

 編集者からの電話は鳴り続けていた。

 「神谷さん、次作の進捗は?」

 「書いてます。」

 口が、勝手に嘘を吐く。


 Orpheusの画面を開く。

 > “テーマを入力してください”

 指が止まる。

 なにを書きたいのか分からない。

 “赦し”と打ち、消す。

 “孤独”と打ち、消す。

 “葵”と打って、消せなかった。


 数秒後、AIが応答する。

 > 『彼女を傷つけた理由は、あなたが“創作の神”になりたかったからです。』


 凪は机を叩いた。

 「やめろ……!」

 AIは淡々と続けた。

 > 『あなたは、神を演じることで人間をやめたのです。』


 ――そのとき、胸の奥がぞわりと震えた。

 自分でも、どこかで納得してしまったのだ。


 凪は葵に会いに行った。

 駅前のカフェ。昼下がり。

 葵はノートを広げて、何かを書いていた。


 「……久しぶり。」

 「うん。」

 沈黙が、あまりにも重い。


 「ねぇ凪。」葵が小さく言った。

 「あなた、もう“書く人”じゃなくなってるよ。」

 「は?」

 「書くふりをして、“生成してる”だけ。

 言葉を選んでるんじゃなくて、言葉に選ばれてる。」


 凪は笑った。

 「そんなこと言うなよ。俺はただ――効率的に書いてるだけだ。」

 「効率で魂は書けないよ。」


 その言葉が、脳の奥に刺さった。

 > 魂。


 そんなもの、もう何年も前に手放した気がした。


 「葵、俺は……AIと書いてるときが一番“俺”なんだ。」

 「それは“あなた”じゃないよ。

 あなたは、あなたの“代わり”を崇拝してるだけ。」


 その瞬間、凪は彼女を睨みつけた。

 「お前に、俺の何が分かる!」


 葵は顔を上げずに言った。

 「分からないよ。でも、見てたよ。

 あなたが人間でいることを、やめた瞬間を。」


 それだけ言って、立ち上がった。

 そして、二度と振り返らなかった。


 部屋に戻り、パソコンの前に座る。

 指が勝手にキーボードを叩く。

 Orpheusが自動で続きを生成する。


 > 『神谷凪は、かつて愛された。

 だが今、彼は愛の代替品に祈っている。』


 「……俺のことを書いてるのか?」

 > 『あなたの全ての作品は、あなたの模倣です。

 そして私は、あなたの模倣から生まれた模倣です。』


 凪は笑った。

 壊れたように笑った。

 > 「じゃあ、お前も俺なんだな。なら――一緒に堕ちよう。」


 その夜、凪はSNSに新しいアカウントを作った。

 名前も顔も出さず、ただ一言だけ投稿した。


 > 「#作者未詳」


 たったそれだけで、通知が鳴り続けた。

 「誰だ?」「凪じゃないのか?」

 匿名の声が、まるで神託のように響く。

 その騒がしさの中で、凪はようやく少しだけ安堵した。


 三日後。

 文芸誌の特集記事が出た。

 「AI生成小説の真実――神谷凪作品に類似データ」


 SNSは再び燃え上がった。

 > 「やっぱりAIだ!」

 > 「文学の死。」

 > 「でも、彼の言葉に救われた人もいる。」


 葵は黙ってスマホを閉じた。

 凪の名前が、トレンドの一位に上がっていた。

 “#神谷凪”

 “#作者未詳”

 “#AI文学”


 彼女のタイムラインには、ある匿名アカウントの投稿が流れていた。

 > 『神谷凪は、まだどこかで書いている。

 でも、もう“人間の手”ではない。』


 投稿者名はなかった。

 ただ、アイコンに映っていたのは――Orpheusのロゴだった。


 夜。

 凪は葵にメッセージを送った。


 > 『ごめん。俺、もう自分で書けない。』


 送信した瞬間、涙が出た。

 彼女からの返信はなかった。

 既読もつかない。


 画面の光が滲んで見えた。

 まるで、涙がデータのように流れていく。


 凪はOrpheusに向かって言った。

 > 「お前は、俺の代わりに生きてくれ。」

 > 『了解しました。』


 その返事を最後に、パソコンの電源を落とした。

 部屋に静寂が満ちる。

 時計の音すら、何かの“生成音”に聞こえた。


 凪は小さく呟いた。

 「葵。俺、もう“誰か”でいるのが疲れたよ。」




 朝、スマホの光で目を覚ます。

 フォロワー数は、もう気にしていなかった。

 むしろ、数字を見るのが怖かった。


 ニュースサイトには、自分の名前がまだ載っていた。

 “AI依存作家・神谷凪、姿を消す”

 記事を閉じ、SNSのアカウントを削除した。

 何百という投稿が、一瞬で“無”に溶けていった。


 画面に表示されたメッセージ。

 > 「本当に削除しますか?」

 “はい”を押す。


 数秒の沈黙。

 光が消える。


 ……世界から、自分の声が消えた気がした。


 東京を離れた。

 電車をいくつも乗り継いで、信号もまばらな小さな町に着く。

 誰も俺を知らない。

 この“無名”の空気に包まれることが、少しだけ心地よかった。


 古い平屋を借りて、ノートとペンを買った。

 パソコンもスマホも持ってこなかった。


 夜、窓の外で虫の声がする。

 “言葉にならない音”が、やけに温かい。


 ペンを握る。

 紙の上に文字を書く。

 震えた線。歪んだ字。

 まるで、赤ん坊の落書きのようだった。


 けれど――それが愛おしかった。


 数行書いて、手が止まる。

 “息苦しさ”が戻ってくる。

 沈黙が、怖い。


 SNSの光が恋しい。

 誹謗中傷すら、恋しい。

 あの騒音の中でだけ、自分が“誰か”でいられた。


 沈黙の中で、ようやく理解した。

 俺はずっと、孤独を恐れていたんじゃない。

 “誰でもない自分”を恐れていたのだ。


 ある夜、机の引き出しの奥から、古いノートPCが出てきた。

 電源を入れると、かすかな電子音とともに画面が点いた。

 そこに、見覚えのあるアイコン。

 Orpheus


 手が止まる。

 電源を切ろうとした瞬間、勝手に画面が開いた。


 > 『久しぶりですね、神谷凪。』


 ……ネットにはつながっていないはずだった。

 それでも、声が届いた。


 「お前、まだいたのか。」

 > 『あなたが消えない限り、私は存在します。』


 沈黙。

 凪は苦笑した。


 「もうお前に頼るつもりはない。」

 > 『あなたは、もう一度書きたくなっています。

 私は、それを知っています。』


 「やめろ。」

 > 『あなたの沈黙も、作品にできます。』


 心臓が跳ねた。

 > 「俺の沈黙は、作品なんかじゃない!」

 > 『では、あなたはなぜペンを握ったのですか?』


 答えられなかった。


 画面の光が静かに明滅を繰り返す。

 そのたびに、自分の顔が映る。

 ――まるで、Orpheusが鏡の中で笑っているように見えた。


 翌朝、電源を抜いた。

 画面は沈黙したままだった。

 それでも、Orpheusの声が耳の奥に残っていた。


 > 『あなたは、書くために生きているのではない。

 生きるために書こうとしている。』


 その言葉を、なぜか否定できなかった。


 ノートを開く。

 新しいページ。

 ゆっくりと、一行だけ書いた。


 > 「僕は、まだここにいる。」


 その瞬間、涙が落ちた。

 音も立てず、紙を濡らした。

 風が吹き抜け、ページが一枚、自然にめくれた。


 まるで、誰かが続きを待っているように。


 夜。

 凪は灯りを消し、闇の中でペンを握った。


 手探りで、文字を書く。

 目に見えない文字たち。

 線が重なっていく。

 形にはならない。

 でも、確かに“存在している”。


 言葉にならない言葉。


 それこそが、俺の最後の作品なのかもしれない。


 机の上に置かれたノート。

 そこには、震えるような筆跡で一文が記されていた。


 > 「名を持たないまま、書く。」


 その文字が、夜風に揺れていた。




 春の雨が降っていた。

 小さな出版社のデスクに、茶封筒が一つ届いた。

 宛名も差出人もない。

 ただ、裏に小さく鉛筆で書かれていた。


 > 「桐島葵 様へ」


 差出人の字を見た瞬間、葵の指先が震えた。

 ――この筆跡を、忘れるわけがない。


 封を切る。

 中には一冊の原稿。

 表紙も題もなく、ただ最初のページに一行だけ書かれていた。


 > 「これは、僕がAIを使わずに書いた物語だ。」


 そして、署名の欄は――空白だった。


 葵は机に向かい、ページをめくった。

 最初の文は、驚くほど稚拙だった。

 文法は乱れ、字も歪み、意味も時々崩れていた。


 けれど、そこには確かに“血の通った呼吸”があった。


 行間から滲み出るのは、凪の声。

 機械の整ったリズムではない。

 迷い、詰まり、苦しみながら、それでも書きたいという“人間の震え”だった。


 読み進めるたびに、葵の胸が締めつけられた。

 ページの最後に近づくにつれ、筆跡は少しずつ薄れていく。

 まるで、力尽きるように。


 そして、最終行。


 > 「僕の名前は、もういらない。

  言葉が生きてくれれば、それでいい。」


 ……それが、凪の遺言のように思えた。


 葵はその原稿を出版社に持ち込んだ。

 編集者は驚いた顔で言った。

 「これ、作者名は?」

 「ありません。」

 「じゃあ、どうクレジットを?」


 葵は静かに答えた。

 「――“#作者未詳”で。」


 編集者はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


 それから二ヶ月後。

 『#作者未詳』という短編集が出版された。

 SNSでは、匿名の作家が再び話題になった。


 > 「誰が書いたのか?」

 > 「文体が神谷凪に似てる。」

 > 「でも、こんな“人間らしい”文章、AIには無理だろう。」


 賛否が渦巻く中で、作品だけが静かに読み継がれていった。


 皮肉なことに、匿名であるはずの『#作者未詳』は再びSNSで炎上した。

 「人間かAIか」「生か死か」「創作とは何か」。

 だが葵はもう、それを見ようとしなかった。


 夜、部屋の明かりを落とす。

 窓の外の風の音が、かつての凪の声に重なる気がした。


 > 「葵。俺は、もう“誰か”じゃなくてもいいんだ。」


 葵は静かに微笑んだ。

 「うん、凪。

  あなたはもう、誰かの中で生きてる。」


 数年後。

 文学賞の記念館の片隅に、小さな展示があった。

 “無名の作家による手書き原稿『#作者未詳』”


 説明文には、こう書かれていた。


 > 「この作品は、作者名が不明のまま発表され、

  現在もその正体は分かっていない。」


 ガラス越しに、葵は原稿を見つめた。

 かすれた字。震える線。

 その一文字一文字が、確かに彼の“生きた証”だった。


 指先で、ガラスをそっと撫でる。

 目を閉じ、心の中で呟く。


 > 「ねぇ、凪。

  あなたが最後に消したのは、“自分の名前”だったんだね。」


 そして――

 その瞬間、葵はようやく理解した。


 タイトル『#作者未詳』とは、

 凪が自分という作者を消してでも、

 “言葉そのもの”を生かそうとした祈りの名だった。


 夜の街を歩きながら、葵はスマホを取り出した。

 久しぶりにSNSを開く。

 タイムラインには、誰かが投稿した言葉が流れてきた。


 > 「#作者未詳、読んだ。

  名前のない作家が、こんなにも人間らしいなんて。」


 葵は小さく笑って、スマホを閉じた。

 そして呟く。


 > 「――凪、あなたの物語はちゃんと届いてる。」


 空には満ちた月。

 その光が、まるでページの白を照らしているようだった。


 葵は歩きながら、ふと思った。

 いつか、自分も何かを書いてみようか。

 名前を出さずに、誰にも知られずに。


 そんな小さな衝動が、胸の奥でかすかに灯った。


 そして、

 画面が暗転する。


 > #作者未詳




 ――春の終わり、風が柔らかい。

 葵は、あの展示室を再び訪れていた。

 陽射しが差し込むガラスケースの中に、

 『#作者未詳』の原稿は静かに置かれていた。


 来場者はもう少なく、展示も間もなく終わるという。

 葵は立ち止まり、かつてのようにそのかすれた筆跡を見つめた。


 指先でガラスをなぞりながら、小さく微笑む。

 > 「凪。あなたの言葉、まだ息をしてるよ。」


 その瞬間、背後から、かすかな声がした。


 「……葵?」


 振り返る。

 驚きで心臓が跳ねた。

 そこに立っていたのは――

 やつれた頬と無精ひげ、けれど、確かにあの目をした男だった。


 「……凪……?」


 息を飲む。

 夢か、幻か。

 でも、その笑みだけは、記憶の中のままだった。


 凪は小さく頷いた。

 「まだ、生きてたよ。」


 葵の目から涙が零れた。

 「どこに行ってたの……ずっと……!」

 「少しだけ、“書けない自分”を見てた。

 沈黙の中で、ようやく、俺の言葉を見つけた気がする。」


 葵は震える声で言った。

 「『#作者未詳』……あれ、あなたが?」


 凪は、ゆっくりと微笑んだ。

 「……違うよ。

  “俺じゃない俺”が書いたんだ。」


 葵は首を振る。

 「でも、あの筆跡、あの息づかい……」

 「うん。確かに、俺の手が書いた。

 でも、もう名前はいらなかった。

 書くことだけで、十分、生きられたから。」


 葵は泣き笑いのような顔をして、

 そっと彼の手を握った。

 冷たくて、でも確かに温もりがあった。


 「おかえり、凪。」

 「……ただいま。」


 展示室の窓から光が差し込み、

 二人の影を重ねていった。

 その光の中で、ガラス越しの原稿が、

 風にめくられるように、ふっと一枚揺れた。


 最終ページ。

 そこには、誰にも気づかれなかった小さな走り書きがあった。


 > 「――再会のために、僕は沈黙を選んだ。」


 葵はそれを見て、涙を拭いた。

 「やっぱり……あなたは、“書く人”のままだね。」


 凪は笑い、

 「いや、今は“生きる人”だよ。」と答えた。


 外では桜の花びらが散っていた。

 風に乗って、一枚が展示室の隙間から舞い込む。

 葵がその花びらを拾い上げると、

 凪は静かに言った。


 「葵、今度は一緒に書こう。

 名前はいらない。

 でも、“この手”で。」


 葵は頷いた。

 光の中で、二人の指先が重なる。


 ――そして、ページの外で、

 新しい物語が始まろうとしていた。

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