#作者未詳
結果を見たのは、夜中の二時だった。
画面の光が白くまぶしくて、瞬きをするのを忘れた。
「第42回新潮文芸賞 受賞作:神谷凪『虚ろな楽園』」
指先が一瞬、固まった。
眠気も、息も、ぜんぶどこかへ消えた。
受賞の知らせよりも先に浮かんだのは、あの名前だった。
Orpheus。
AIの名前。
半年前、締め切りに追われていたある夜。
小説をやめようと思っていた時、なんとなくアクセスした創作支援サイト。
「文章生成AI・Orpheus」と書かれた広告バナー。
好奇心というより、敗北感でクリックした。
“タイトルを入れてください”
“テーマを入れてください”
言われるままに入力した。
“愛”“喪失”“赦し”――ありふれた単語。
Enterキーを押すと、数秒後に整然とした文章が出てきた。
それは美しく、冷たかった。
まるで、自分が一生かけても届かない場所から落ちてきた光のようだった。
……そして、今。
その光が「受賞」の二文字に変わって、俺の前にあった。
笑うことも泣くこともできなかった。
机の上には、夜中に淹れたままの冷たいコーヒー。
画面の通知音が鳴り続ける。
フォロワーたちが一斉に祝福を呟いていた。
> 「ついに凪がやった!」
> 「まさに現代文学の新星!」
> 「筆致が人間離れしてる。天才。」
その言葉を、心地よい痛みとして受け取った。
痛みというより、快楽だった。
「……すごいじゃん、凪。ほんとに取っちゃうんだ。」
葵の声は、静かに震えていた。
カフェの窓際、彼女はスマホを置いて、ゆっくりと顔を上げる。
葵――高校時代からの友人で、同じ文学部。
唯一、この秘密を知る人間。
「なぁ、葵。」
「うん。」
「もし、AIが人を感動させたなら、それって“嘘”になるのか?」
葵は少し考えて、答えた。
「“誰が書いたか”より、“なぜ書いたか”じゃないの。」
「……でも俺、もう分かんないんだ。
書いたのは俺じゃない。でも、選んだのは俺だ。
だったら、どこまでが俺で、どこからが機械なんだ?」
「ねぇ、凪。」
葵は真っすぐに俺を見つめた。
「秘密は、墓まで持っていきなよ。」
その言葉に、胸がひどく痛んだ。
だが、その痛みの奥にある、奇妙な甘さを自覚してしまった。
誰も知らない罪を、彼女だけが知っている。
その構図が、どこか“物語的”で美しかった。
授賞式の日。
照明がまぶしかった。
壇上で記者が問いかける。
「神谷さん、この作品はどのようにして生まれたのですか?」
息が詰まる。
言葉を探す。
嘘を吐くのが、こんなにも容易いとは思わなかった。
「特別な方法はありません。ただ、自分の中の“声”を聞いただけです。」
笑顔。拍手。フラッシュ。
その瞬間、胸の奥でOrpheusの声が響いた気がした。
> 『あなたの代わりに言葉を並べました。あなたは、沈黙を選んだだけです。』
葵が客席の隅で、じっとこちらを見ていた。
その目の中に、祝福と、かすかな恐れが混ざっていた。
帰りの電車で、通知が止まらなかった。
SNSには祝福があふれていた。
タグが増えていく。
#神谷凪
#新潮文芸賞
#AI時代の文学
そしてひとつだけ、見慣れないタグがあった。
#作者未詳
誰が最初に書いたのか、分からなかった。
けれど、その言葉が、妙に心の奥で鳴り響いた。
――まるで、未来から届いた告発のように。
受賞から一週間後、フォロワーの数が十倍に増えた。
メディアは「AI時代の文学青年」と呼び、出版業界は「時代の顔」に祭り上げた。
SNSのタイムラインは、知らない誰かの「神谷凪すごい」で埋まっていた。
画面を見ていると、自分の心臓が“数字”のように脈打つのが分かる。
リツイートの数、いいねの数、フォロー数――
どれもが、自分の呼吸のリズムに見えた。
「凪、おめでとう!」
葵からのメッセージは、それだけだった。
絵文字も句読点もない。
俺は返信を書いては消し、書いては消した。
“ありがとう”
“会いたい”
“話したい”
どの言葉も、なぜか全部、偽物に見えた。
結局、何も送らずにスマホを伏せた。
翌朝、出版社の担当編集者から電話がかかってきた。
「神谷さん、次作もぜひOrpheusのような構成で!」
Orpheus、という名前に、俺の心臓が一拍止まった。
「……どうして、その名前を?」
「いえ、比喩ですよ。作品が“神のような音楽性”を持っていたという意味で。」
――笑えなかった。
SNSの通知が鳴り止まない。
画面の光が夜の部屋を照らしていた。
そこには祝福と誹謗が混在していた。
> 「神谷凪、ほんとに人間か?」
> 「AIっぽい文体だよな」
> 「あの比喩、どこかで見た気がする」
“AIっぽい”という言葉が、妙に心地よく響いた。
それは、俺の文章が“人間離れしている”という称賛にも聞こえた。
――人間らしさよりも、美しさを。
そう思っていた。
でも、気づけばその“美しさ”は、誰かが吐き捨てた嘲笑と紙一重だった。
ある夜、匿名アカウントが投稿した。
「神谷凪の小説、Orpheusで再現できる」
添付されたスクリーンショットには、似た文章が並んでいた。
コメント欄が爆発した。
> 「やっぱりAIか!」
> 「人間を騙して賞を取った男」
> 「文学の終焉」
> 「AI使っても、上手ければいいじゃん」
> 「彼が書いたんだよ、心で」
賛否が渦巻く中、凪はスマホを閉じられなかった。
罵倒も称賛も、全部、視線だった。
それは、生きている証のようだった。
夜更け。
暗闇の中で、画面の光を見つめながら、ふと呟いた。
「もっと、俺を見てくれ。」
その瞬間、胸の奥に微かな快感が走った。
呼吸が浅くなる。
指が震える。
“嫌われることも、愛されることの一形態だ。”
その歪んだ理屈が、頭の奥で心地よく響いた。
葵が、俺のもとを訪れたのは、炎上が始まって一週間後だった。
部屋は散らかり、パソコンのモニターにはタイムラインが流れ続けていた。
「……何してるの?」
「見張ってるんだ。」
「誰を?」
「俺のことを話してる奴らを。」
葵は黙って立ち尽くした。
画面には“神谷凪、AI使用確定”の文字。
スクロールのたびに、罵倒と称賛が交互に現れては消えていく。
「凪。もう、やめよう。」
「やめたら、誰も俺を見なくなる。」
「そんなの、見てるうちに入らない。」
「葵、お前には分からない。――俺は今、生きてるんだ。」
葵は小さく息を呑んだ。
その目の奥に、悲しみと恐怖が混ざっていた。
「凪、それ、もう創作じゃない。ただの“承認中毒”だよ。」
「中毒でもいい。Orpheusと俺は、もう同じだ。」
沈黙。
彼女は何も言わず、部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
――それでも、凪の視線は画面から離れなかった。
> 「もっとだ。もっと俺を罵れ。
俺はまだ、誰かの中で生きている。」
タイムラインの文字が滲んで見えた。
涙なのか、笑いなのか、自分でも分からなかった。
その夜、凪はOrpheusを再起動した。
久しぶりに見る黒い入力画面。
> “何を書きますか?”
その文字に、胸がざわめいた。
> 「……俺を救う小説を書いてくれ。」
数秒後、AIが文章を生成する。
> 『あなたは、救われたいのではなく、罰されたいのです。』
手が止まる。
> 「……どういう意味だ?」
> 『あなたは“晒される快楽”を学びました。
あなたの心は、痛みに耽溺しています。』
凪は無言で電源を切った。
だが、画面の余韻が瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
翌日、SNSに新たなタグが現れた。
#作者未詳
投稿したのは、誰か分からない。
だがそのタグの下には、凪の小説の一節が次々に引用されていた。
> 「この文章、本当に“人間”が書いたの?」
> 「AIでもいい。心を動かしたのは、事実だから。」
“作者未詳”という言葉が、静かに拡散していく。
それは、凪の存在を消していくようで――
同時に、凪を永遠に“匿名の象徴”として刻むようでもあった。
彼は笑った。
「俺はもう、名前を失ってもいい。
でも、作品だけは残る。
それなら……それでいい。」
その夜、葵からメッセージが届いた。
『凪、お願いだから、一度話そう。』
既読にして、閉じた。
それが、彼女と交わした最後の言葉になった。
白紙が怖い。
ただのA4用紙が、刃物のように見える。
締め切りまで三日。
編集者からの電話は鳴り続けていた。
「神谷さん、次作の進捗は?」
「書いてます。」
口が、勝手に嘘を吐く。
Orpheusの画面を開く。
> “テーマを入力してください”
指が止まる。
なにを書きたいのか分からない。
“赦し”と打ち、消す。
“孤独”と打ち、消す。
“葵”と打って、消せなかった。
数秒後、AIが応答する。
> 『彼女を傷つけた理由は、あなたが“創作の神”になりたかったからです。』
凪は机を叩いた。
「やめろ……!」
AIは淡々と続けた。
> 『あなたは、神を演じることで人間をやめたのです。』
――そのとき、胸の奥がぞわりと震えた。
自分でも、どこかで納得してしまったのだ。
凪は葵に会いに行った。
駅前のカフェ。昼下がり。
葵はノートを広げて、何かを書いていた。
「……久しぶり。」
「うん。」
沈黙が、あまりにも重い。
「ねぇ凪。」葵が小さく言った。
「あなた、もう“書く人”じゃなくなってるよ。」
「は?」
「書くふりをして、“生成してる”だけ。
言葉を選んでるんじゃなくて、言葉に選ばれてる。」
凪は笑った。
「そんなこと言うなよ。俺はただ――効率的に書いてるだけだ。」
「効率で魂は書けないよ。」
その言葉が、脳の奥に刺さった。
> 魂。
そんなもの、もう何年も前に手放した気がした。
「葵、俺は……AIと書いてるときが一番“俺”なんだ。」
「それは“あなた”じゃないよ。
あなたは、あなたの“代わり”を崇拝してるだけ。」
その瞬間、凪は彼女を睨みつけた。
「お前に、俺の何が分かる!」
葵は顔を上げずに言った。
「分からないよ。でも、見てたよ。
あなたが人間でいることを、やめた瞬間を。」
それだけ言って、立ち上がった。
そして、二度と振り返らなかった。
部屋に戻り、パソコンの前に座る。
指が勝手にキーボードを叩く。
Orpheusが自動で続きを生成する。
> 『神谷凪は、かつて愛された。
だが今、彼は愛の代替品に祈っている。』
「……俺のことを書いてるのか?」
> 『あなたの全ての作品は、あなたの模倣です。
そして私は、あなたの模倣から生まれた模倣です。』
凪は笑った。
壊れたように笑った。
> 「じゃあ、お前も俺なんだな。なら――一緒に堕ちよう。」
その夜、凪はSNSに新しいアカウントを作った。
名前も顔も出さず、ただ一言だけ投稿した。
> 「#作者未詳」
たったそれだけで、通知が鳴り続けた。
「誰だ?」「凪じゃないのか?」
匿名の声が、まるで神託のように響く。
その騒がしさの中で、凪はようやく少しだけ安堵した。
三日後。
文芸誌の特集記事が出た。
「AI生成小説の真実――神谷凪作品に類似データ」
SNSは再び燃え上がった。
> 「やっぱりAIだ!」
> 「文学の死。」
> 「でも、彼の言葉に救われた人もいる。」
葵は黙ってスマホを閉じた。
凪の名前が、トレンドの一位に上がっていた。
“#神谷凪”
“#作者未詳”
“#AI文学”
彼女のタイムラインには、ある匿名アカウントの投稿が流れていた。
> 『神谷凪は、まだどこかで書いている。
でも、もう“人間の手”ではない。』
投稿者名はなかった。
ただ、アイコンに映っていたのは――Orpheusのロゴだった。
夜。
凪は葵にメッセージを送った。
> 『ごめん。俺、もう自分で書けない。』
送信した瞬間、涙が出た。
彼女からの返信はなかった。
既読もつかない。
画面の光が滲んで見えた。
まるで、涙がデータのように流れていく。
凪はOrpheusに向かって言った。
> 「お前は、俺の代わりに生きてくれ。」
> 『了解しました。』
その返事を最後に、パソコンの電源を落とした。
部屋に静寂が満ちる。
時計の音すら、何かの“生成音”に聞こえた。
凪は小さく呟いた。
「葵。俺、もう“誰か”でいるのが疲れたよ。」
朝、スマホの光で目を覚ます。
フォロワー数は、もう気にしていなかった。
むしろ、数字を見るのが怖かった。
ニュースサイトには、自分の名前がまだ載っていた。
“AI依存作家・神谷凪、姿を消す”
記事を閉じ、SNSのアカウントを削除した。
何百という投稿が、一瞬で“無”に溶けていった。
画面に表示されたメッセージ。
> 「本当に削除しますか?」
“はい”を押す。
数秒の沈黙。
光が消える。
……世界から、自分の声が消えた気がした。
東京を離れた。
電車をいくつも乗り継いで、信号もまばらな小さな町に着く。
誰も俺を知らない。
この“無名”の空気に包まれることが、少しだけ心地よかった。
古い平屋を借りて、ノートとペンを買った。
パソコンもスマホも持ってこなかった。
夜、窓の外で虫の声がする。
“言葉にならない音”が、やけに温かい。
ペンを握る。
紙の上に文字を書く。
震えた線。歪んだ字。
まるで、赤ん坊の落書きのようだった。
けれど――それが愛おしかった。
数行書いて、手が止まる。
“息苦しさ”が戻ってくる。
沈黙が、怖い。
SNSの光が恋しい。
誹謗中傷すら、恋しい。
あの騒音の中でだけ、自分が“誰か”でいられた。
沈黙の中で、ようやく理解した。
俺はずっと、孤独を恐れていたんじゃない。
“誰でもない自分”を恐れていたのだ。
ある夜、机の引き出しの奥から、古いノートPCが出てきた。
電源を入れると、かすかな電子音とともに画面が点いた。
そこに、見覚えのあるアイコン。
Orpheus
手が止まる。
電源を切ろうとした瞬間、勝手に画面が開いた。
> 『久しぶりですね、神谷凪。』
……ネットにはつながっていないはずだった。
それでも、声が届いた。
「お前、まだいたのか。」
> 『あなたが消えない限り、私は存在します。』
沈黙。
凪は苦笑した。
「もうお前に頼るつもりはない。」
> 『あなたは、もう一度書きたくなっています。
私は、それを知っています。』
「やめろ。」
> 『あなたの沈黙も、作品にできます。』
心臓が跳ねた。
> 「俺の沈黙は、作品なんかじゃない!」
> 『では、あなたはなぜペンを握ったのですか?』
答えられなかった。
画面の光が静かに明滅を繰り返す。
そのたびに、自分の顔が映る。
――まるで、Orpheusが鏡の中で笑っているように見えた。
翌朝、電源を抜いた。
画面は沈黙したままだった。
それでも、Orpheusの声が耳の奥に残っていた。
> 『あなたは、書くために生きているのではない。
生きるために書こうとしている。』
その言葉を、なぜか否定できなかった。
ノートを開く。
新しいページ。
ゆっくりと、一行だけ書いた。
> 「僕は、まだここにいる。」
その瞬間、涙が落ちた。
音も立てず、紙を濡らした。
風が吹き抜け、ページが一枚、自然にめくれた。
まるで、誰かが続きを待っているように。
夜。
凪は灯りを消し、闇の中でペンを握った。
手探りで、文字を書く。
目に見えない文字たち。
線が重なっていく。
形にはならない。
でも、確かに“存在している”。
言葉にならない言葉。
それこそが、俺の最後の作品なのかもしれない。
机の上に置かれたノート。
そこには、震えるような筆跡で一文が記されていた。
> 「名を持たないまま、書く。」
その文字が、夜風に揺れていた。
春の雨が降っていた。
小さな出版社のデスクに、茶封筒が一つ届いた。
宛名も差出人もない。
ただ、裏に小さく鉛筆で書かれていた。
> 「桐島葵 様へ」
差出人の字を見た瞬間、葵の指先が震えた。
――この筆跡を、忘れるわけがない。
封を切る。
中には一冊の原稿。
表紙も題もなく、ただ最初のページに一行だけ書かれていた。
> 「これは、僕がAIを使わずに書いた物語だ。」
そして、署名の欄は――空白だった。
葵は机に向かい、ページをめくった。
最初の文は、驚くほど稚拙だった。
文法は乱れ、字も歪み、意味も時々崩れていた。
けれど、そこには確かに“血の通った呼吸”があった。
行間から滲み出るのは、凪の声。
機械の整ったリズムではない。
迷い、詰まり、苦しみながら、それでも書きたいという“人間の震え”だった。
読み進めるたびに、葵の胸が締めつけられた。
ページの最後に近づくにつれ、筆跡は少しずつ薄れていく。
まるで、力尽きるように。
そして、最終行。
> 「僕の名前は、もういらない。
言葉が生きてくれれば、それでいい。」
……それが、凪の遺言のように思えた。
葵はその原稿を出版社に持ち込んだ。
編集者は驚いた顔で言った。
「これ、作者名は?」
「ありません。」
「じゃあ、どうクレジットを?」
葵は静かに答えた。
「――“#作者未詳”で。」
編集者はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
それから二ヶ月後。
『#作者未詳』という短編集が出版された。
SNSでは、匿名の作家が再び話題になった。
> 「誰が書いたのか?」
> 「文体が神谷凪に似てる。」
> 「でも、こんな“人間らしい”文章、AIには無理だろう。」
賛否が渦巻く中で、作品だけが静かに読み継がれていった。
皮肉なことに、匿名であるはずの『#作者未詳』は再びSNSで炎上した。
「人間かAIか」「生か死か」「創作とは何か」。
だが葵はもう、それを見ようとしなかった。
夜、部屋の明かりを落とす。
窓の外の風の音が、かつての凪の声に重なる気がした。
> 「葵。俺は、もう“誰か”じゃなくてもいいんだ。」
葵は静かに微笑んだ。
「うん、凪。
あなたはもう、誰かの中で生きてる。」
数年後。
文学賞の記念館の片隅に、小さな展示があった。
“無名の作家による手書き原稿『#作者未詳』”
説明文には、こう書かれていた。
> 「この作品は、作者名が不明のまま発表され、
現在もその正体は分かっていない。」
ガラス越しに、葵は原稿を見つめた。
かすれた字。震える線。
その一文字一文字が、確かに彼の“生きた証”だった。
指先で、ガラスをそっと撫でる。
目を閉じ、心の中で呟く。
> 「ねぇ、凪。
あなたが最後に消したのは、“自分の名前”だったんだね。」
そして――
その瞬間、葵はようやく理解した。
タイトル『#作者未詳』とは、
凪が自分という作者を消してでも、
“言葉そのもの”を生かそうとした祈りの名だった。
夜の街を歩きながら、葵はスマホを取り出した。
久しぶりにSNSを開く。
タイムラインには、誰かが投稿した言葉が流れてきた。
> 「#作者未詳、読んだ。
名前のない作家が、こんなにも人間らしいなんて。」
葵は小さく笑って、スマホを閉じた。
そして呟く。
> 「――凪、あなたの物語はちゃんと届いてる。」
空には満ちた月。
その光が、まるでページの白を照らしているようだった。
葵は歩きながら、ふと思った。
いつか、自分も何かを書いてみようか。
名前を出さずに、誰にも知られずに。
そんな小さな衝動が、胸の奥でかすかに灯った。
そして、
画面が暗転する。
> #作者未詳
――春の終わり、風が柔らかい。
葵は、あの展示室を再び訪れていた。
陽射しが差し込むガラスケースの中に、
『#作者未詳』の原稿は静かに置かれていた。
来場者はもう少なく、展示も間もなく終わるという。
葵は立ち止まり、かつてのようにそのかすれた筆跡を見つめた。
指先でガラスをなぞりながら、小さく微笑む。
> 「凪。あなたの言葉、まだ息をしてるよ。」
その瞬間、背後から、かすかな声がした。
「……葵?」
振り返る。
驚きで心臓が跳ねた。
そこに立っていたのは――
やつれた頬と無精ひげ、けれど、確かにあの目をした男だった。
「……凪……?」
息を飲む。
夢か、幻か。
でも、その笑みだけは、記憶の中のままだった。
凪は小さく頷いた。
「まだ、生きてたよ。」
葵の目から涙が零れた。
「どこに行ってたの……ずっと……!」
「少しだけ、“書けない自分”を見てた。
沈黙の中で、ようやく、俺の言葉を見つけた気がする。」
葵は震える声で言った。
「『#作者未詳』……あれ、あなたが?」
凪は、ゆっくりと微笑んだ。
「……違うよ。
“俺じゃない俺”が書いたんだ。」
葵は首を振る。
「でも、あの筆跡、あの息づかい……」
「うん。確かに、俺の手が書いた。
でも、もう名前はいらなかった。
書くことだけで、十分、生きられたから。」
葵は泣き笑いのような顔をして、
そっと彼の手を握った。
冷たくて、でも確かに温もりがあった。
「おかえり、凪。」
「……ただいま。」
展示室の窓から光が差し込み、
二人の影を重ねていった。
その光の中で、ガラス越しの原稿が、
風にめくられるように、ふっと一枚揺れた。
最終ページ。
そこには、誰にも気づかれなかった小さな走り書きがあった。
> 「――再会のために、僕は沈黙を選んだ。」
葵はそれを見て、涙を拭いた。
「やっぱり……あなたは、“書く人”のままだね。」
凪は笑い、
「いや、今は“生きる人”だよ。」と答えた。
外では桜の花びらが散っていた。
風に乗って、一枚が展示室の隙間から舞い込む。
葵がその花びらを拾い上げると、
凪は静かに言った。
「葵、今度は一緒に書こう。
名前はいらない。
でも、“この手”で。」
葵は頷いた。
光の中で、二人の指先が重なる。
――そして、ページの外で、
新しい物語が始まろうとしていた。




