紅に染まる鎌倉武士
忠之は、北条秀時に仕える若い従者である。
真面目で誠実な性格で、主に忠義を尽くしていた。
厳格な秀時に従う毎日は緊張の連続だったが、忠之はそこにやりがいを感じていた。文武に優れ、決して曲がったことをしない秀時は、忠之にとって理想の武士だった。
秀時は普段、感情をあらわにしない。笑顔を見せることもなければ、従者に対する労いの言葉も最低限である。しかし、人の心がないわけではない。たまに「親に顔を見せてこい」「会えるうちに会っておいた方がいい」と気遣う言葉をくれる。そのたびに、忠之は秀時の過去――時の執権に両親を殺された主の境遇を思い、胸を打たれた。
忠之はいつでも主の傍にいた。早朝から夜遅くまで働く秀時のそばで、荷物運びや馬の世話、伝言など、あらゆる雑務に励んだ。
他人を寄せつけぬ秀時は、配下に頼らず自分で多くをこなす。忠之がいなくても困らないかもしれないが、忠之はその負担を少しでも軽くしようと昼夜を問わず働いた。
「京にのぼる」
ある日、秀時は淡々とした口調でそう告げた。忠之は平伏し、それに従った。
秀時は年に数度、都に赴く。そこには、幕府と朝廷の決定により迎えた奥方が住んでいた。
最初は面倒そうにしていた秀時も、最近はそうでもないようだと忠之は感じていた。
奥方は高貴な身分の御方で、忠之は一度もその姿を目にしたことがない。奥方の部屋へ向かうときは「ついてこなくてよい」と言われる。きっと、父や夫以外の男など見たこともないのだろう。
無骨な秀時と、上流貴族の奥方。どう考えても話が合いそうにないと、忠之は主を気の毒に思っていた。
秀時は女に興味を示さなかった。結婚前は、寄ってきた女を投げやりに相手していたと噂されるが、婚姻後は一切女を近づけなかった。周囲の血気盛んな武士たちは、あちこちの屋敷の娘や若い侍女に手を出していたが、秀時だけはそうしなかった。
文武両道の若武者として名高い秀時は、しばしば女たちに言い寄られたが、それらを全て拒絶した。ちなみに、その断り役は忠之の役目である。
忠之は一度、秀時にこう進言したことがある。「時にはおなごに癒やしを求めてもよいのではないか」と。しかし、秀時は一蹴した。
「知らぬおなごと一緒にいたところで、癒やされはせぬ」
その一言で忠之は黙り込んだ。
ちなみに、忠之が秀時の愛人ではないかという荒唐無稽な噂が立ったこともあった。秀時の立場では、何をしても周囲の注目を浴びてしまう。忠之は主の境遇を気の毒に思い、心を引き締めた。
鎌倉とは勝手の違う都。旅路に危険がないか、都で失態を犯さないか。秀時の行動一つで、幕府の評判に関わるのだ。忠之は主の身を案じながら、都へ向かった。
道中、秀時は紅を買い求めた。
「妻への手土産がないと、京の侍女たちがうるさい」と説明された忠之は、なるほどと納得した。だが、秀時がそれを懐にしまい込むのを見て、少し意外に感じた。
京の屋敷に着き、一行は旅装束を解いて湯を浴び、着替えてようやく一息ついた。 初めは鎌倉武士に怯えていた京の者たちも、訪問を重ねるうちに少しずつ慣れてきた。忠之が何も言わずとも、水や湯がそっと用意されるようになっていた。
身なりを整えた秀時は、奥方の部屋へ向かった。忠之は「奥方が挨拶に来るべきでは」と思ったが、主は気にしていない様子だった。
「疲れただろうから、休んでおれ」とだけ告げ、主はあっさりと立ち去った。
しばらく休憩した忠之は、道中よく働いた馬の手入れをしていた。そこへ、秀時が戻ってくる。
「ご苦労だな。休んでよいと言ったのに」
その声に頭を下げた忠之は、ふと目を見張った。
「秀時様、指に…血が!」
「血?」
「一体、何があったのですか!?」
秀時は不思議そうに自分の指を眺め、少しばかり気まずそうに呟く。
「別に、なんでもない」
そう言って、そっと指を隠しながら去っていく背中に、忠之は首をかしげた。
その後はいつも通り、客人の挨拶対応に追われる。秀時は旅の疲れを見せず、淡々と仕事をこなしていた。忠之は、そんな主を案じることしかできなかった。
宴の誘いも断り、ようやく一息ついた時には、すでに日が暮れていた。
「今宵は、奥方様のもとでお休みになりますか?」
「まぁ、そうだな。今日はもう休め。明日の朝はゆっくりでよい」
忠之は夜着を用意し、主の支度を手伝った。疲れた体にさらに奥方の相手をする主の背を、そっと見送る。
――翌朝。
忠之は泥のように眠り、すっきりと目覚めた。
ゆっくりでいいとは言われていたが、勤勉な秀時のこと。きっと早駆けに出るのだろうと支度を整えた。
しかし。
秀時の姿はなかった。
雨でも降っていれば別だが、そんな様子もない。まさか旅の疲れで倒れているのでは…都の者に毒を盛られたのでは……あるいは、どこかへ連れ去られて――?
不安に駆られた忠之は、奥方のもとへと急ぐ。
寝所の前で、侍女が二人、怪訝そうに忠之を睨んでいた。
「秀時様は、まだお休みで?」
「寝所からは、まだ出てこられておりませぬ」
「その…ご無事なのだろうな。間違いなく、こちらにおられるのか?」
「なんと無礼な」
侍女たちに睨まれながらも、忠之は必死に頭を下げ、中の様子を確かめてくれと頼み込んだ。
侍女たちは渋々、寝所へ入っていく。すると――
「どうした」
寝所の奥から、秀時が現れた。
「……!!!」
忠之は、思わず息を飲む。
長い髪が下ろされ、白い夜着の襟元がわずかにはだけ、鍛えられた胸元が覗いている。
その顔には、珍しく気怠げな表情。
――そして、白い襟元に赤い染み。
「秀時様、また血が…!一体、何が――!」
「忠之、煩いぞ」
はぁ、と溜息をつく主の吐息が、妙に艶めかしかった。忠之はドキリとする。
よく見ると、主に怪我の様子はない。むしろ、顔色はいつもより良い。
血のように見えたそれは……紅。
昨夜、奥方と過ごした時間の名残。
唇に塗った紅が、襟に移っただけなのだろう。
ということは――
秀時様が、紅を塗って差し上げたのか……?
そんな場面を想像して、忠之は赤面しながら深く平伏した。
「誠に、申し訳ございません…」
「謝る必要はない」
忠之の忠誠心ゆえの行動だったが、どうやら間の悪い邪魔になってしまったようだ。
「着替える。先に行っておれ」
「はっ」
やがて身を整えた秀時は、いつもの凛々しさを纏いながらも、どこか余裕を湛えていた。
馬の毛並みを丁寧に整える主の姿に、忠之はまたドキリとする。
恐る恐る、口を開いた。
「お幸せそうで、何よりでございます」
一蹴されるかと思ったが、秀時は意外そうに首をかしげた。
「そんなふうに、見えるのか」
そして、ふと――微笑んだ。
それはこれまで見たことのない、優しい笑みだった。
「奥方様は、どのような方なのですか」
「教えてやらぬ」
「骨抜きにされているではありませんか」
「なんだと! その口、斬り捨ててやる」
珍しく声を荒げて物騒なことを言う主に、忠之は思わず声を上げて笑った。
笑い、怒り、隙を見せ、どこか人間味を増した主の姿に、忠之は心から安堵する。
そして、生まれも育ちも違う奥方が、秀時の安らぎの場となっていることに、深く感謝したのだった。