LOG.006 ─ 不正な侵入
LOG.006 ─ 不正な侵入
試験当日の朝。肌寒さが残る春の空気を感じながら、冷は私服のジャケットの裾を軽く整え、リビングに足を踏み入れた。
「おはよう、楓」
ダイニングテーブルには、見慣れた小柄な背中。妹・楓が、味噌汁の湯気に目を細めながら、彼の方を振り返る。
「やっと起きた。間に合う? 試験ってちょっと離れてるんでしょ」
「大丈夫、余裕は見てある」
机には朝食と、包みがひとつ。お弁当だ。
「これ……お昼に食べてね。朝からずっと冷のこと考えて作ったんだから。がんばってね……帰ってきたら、ぎゅーしてあげるから」
「……え、今なんて?」
冷が思わず聞き返すと、楓はぷいっと顔を背けた。
「聞こえなかったならいいの。……ほら、早く行かないと遅刻しちゃうでしょ」
「……ま、行ってくるよ」
「落ちたらご飯抜きね」
口調は素っ気ないが、心配してくれているのは伝わる。冷は小さく笑い、鞄を手に取る。
「じゃあ、行ってくる」
「……いってらっしゃい」
駅へ向かう道すがら、冷は心を静めようとしていた。公安への道。その第一歩が今日、ようやく始まる。
ところが、目的地まであと数駅というタイミングで、電車が急停止した。
『……ただいま、沿線内の信号トラブルにより、安全確認を行っております。運転再開の目処は――』
アナウンスにざわつく車内。ちらほらと、スーツ姿の受験者らしき若者たちの焦った声が聞こえる。
(信号トラブル、か……いや)
冷は吊革を握りながら、車内のWi-Fiに繋いだ端末を開いた。だが、通信状態は不安定で、更新が途切れている。
(このタイミングで通信障害まで。偶然にしては出来すぎてる)
教授のメールが脳裏をよぎる。
『気をつけなさい。君たちは、すでに試されている』
「……なるほど、こういうことか」
彼は躊躇なく電車を降り、階段を駆け上がると別の路線への乗り換えルートを選んだ。
何度か乗り継ぎと徒歩を繰り返す中、最寄り駅で人だかりに巻き込まれた。階段で転倒した老人を助けたり、封鎖された改札を避けて裏道を走る羽目になったりと、思いのほか苦戦を強いられる。
息を切らしながらも、ようやく試験会場が見えたときには、集合時間ギリギリだった。
会場の入り口では、見知った顔がいくつかあった。湊、そしてさくら、眼鏡の少女、静かな佇まいの少女──それぞれが思い思いの表情で立っていた。
湊が真っ白なマスクをして、のんびりとベンチに座っている。花粉症なのか、少し鼻声だ。
「冷くん、遅かったね~。」
「お前……来れたのか?」
「うん、バスにした。途中で止まったけど、ランニング感覚で走ったら案外楽しかったよ」
全然楽そうには見えない。マスク越しに息が上がっていた。
その横には、静かな佇まいの少女が一人。制服姿に無駄な乱れはなく、冷の視線に気づくと、小さく会釈を返した。その落ち着いた雰囲気に、どこか見覚えがある気がする。
彼女がぽつりと何かを呟いた気がしたが、騒がしい周囲にかき消されてしまった。
(……あれが、同じ試験を受ける受験者の一人か)
続いて、制服の袖をきゅっと引きながら走ってくる少女が一人。
「や、やっと着いたぁ〜〜! お、おっはよー……っ」
桜井さくらだ。髪が乱れ、鞄の中身が少しはみ出している。
「久しぶりだな。……大学で、ぶつかったとき以来か」
あのとき、荷物をぶちまけて、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしたさくらの姿が、ふと脳裏をよぎる。
思いがけない再会に、冷は少しだけ声を和らげた。
「ううん、途中までは順調だったんだけど、急に電車が止まっちゃって……! あたし、走るのは得意じゃないのに〜」
泣きそうな顔でそう言う彼女に、冷がハンカチを差し出した。
「ほら、これ使え。……だいぶ走ったんだな」
「ありがとぉ……やっぱ冷くん、優しい……」
そう言って、さくらはほんのりと頬を赤らめた。
その様子を見ていた湊が、ちらりと冷に視線を送る。
「……あれ? その子、冷くんの彼女?」
「いや、違うよ。知り合いで、偶然ここで再会しただけだ」
「そ、そうなんだ……」
湊は微笑みながらも、どこか複雑そうに視線を逸らした。
その後ろから、もう一人、眼鏡の少女が小走りで近づいてくる。手に持った端末を操作しながら、ぶつぶつと何かをつぶやいていた。名前も知らないが、その分析的な雰囲気は他の受験者とは少し違って見える。
「ログ、変ね……交通障害が同時多発。これ、統計的に有意だわ」
眼鏡をくいっと押し上げる。
「公安試験の開始前にこんなノイズ……これ、偶然じゃない」
冷がふと隣を見ると、湊とさくらが並んで立っていた。
「湊、こっちは桜井さくら。大学のときにちょっと縁があってな。今日また偶然会った。さくら、こっちは湊。俺の高校からの友人で、今もよく連絡取ってる」
「桜井さん、はじめまして。冷くんとは古い付き合いなんです。えっと、よろしく」
「うん、よろしくね。あ、冷くんって、湊くんのこと“くん”なしで呼ぶんだね。仲いいんだ〜……あ、私のことは“さくら”でいいよ」
湊の眉がピクリと動いた。
「……さくら、ね。なんか、ちょっとヤキモチかも」
湊が苦笑いしながら、ぽつりと呟いた。
「え? なにそれ……」
さくらが思わず目を丸くする。
その瞬間、会場の扉が開いた。
『これより、公安選抜試験・第一次審査を開始いたします。受験票をご提示のうえ、指定の席へお進みくださいませ』
柔らかく、それでいて凛とした女性の声がマイクから響いた。会場内の多くが女性受験者で埋まり、その中に混ざる冷の姿は少しだけ浮いて見えた。公安職は、ここ数年で女性の志望者が急増している分野のひとつだった。メディアでの女性捜査官の活躍や、育成支援制度の整備が影響しているという話もある。
試験会場の空気が一気に張りつめる。
冷は、深呼吸しながら中へと足を踏み入れた。
試験室内は無機質な白で統一されており、床は滑らかな人工石で、照明はまるで病院のように冷たい白さだった。一人一人の座席は距離をあけて配置され、まるで誰とも関わるなとでも言われているようだ。
一人一人にタブレット端末とディスプレイが配置されている。
受験者が着席し終えると、前方の壇上に立った若い女性の試験官が、一礼して口を開いた。
「これより第一次審査、筆記試験を開始します。問題は各端末に順次表示されます。回答はすべてデジタル記録され、思考過程も分析対象となります。…ご承知おきください」
受験者たちの間に、わずかな緊張が走る。冷は周囲を一瞥し、静かに息を吸った。
(思考過程まで見られるってことは……形式ではなく、本質を見極める試験ってことか)
問題はすぐに表示された。
終盤に差しかかると、ひときわ異質な問いが表示される。
『あなたは本日、どのような経路・手段で試験会場に到着しましたか? 詳細に記述してください。』
(……これは? 問題の傾向とまったく違う。交通事情の把握? いや……)
違和感が胸をよぎるが、冷はひとまず簡潔に記述を進めた。
(文章問題……いや、これは……)
設問の内容は一見、一般的な読解や計算のようでいて、構造が異常だった。時事問題に混じって、明らかに暗号的な思考を求める文。
論理的な矛盾点を見つけ、仮想の国家危機にどう対処するかを論述する形式。
しかも設問ごとに残り時間が変動する。タイムアタックだ。
(なるほど……“考えすぎるな”という試験か)
冷は、思考の深度と速度を自在に切り替えるように回答を進めていった。
隣を見ると、眼鏡の少女が演算式を複数表示させており、タブレットを高速でスクロールしている。名前は知らないが、その動きには熟練した技術と集中力が感じられた。
さくらは「えーと……どっちだっけ!?」と、顔をしかめながらも、意外と早く回答している様子。
落ち着いた雰囲気の彼女は、タイムリミットの中でも冷静さを保ち、一つひとつの回答に丁寧に思考を重ねていた。名前は知らないが、その慎重な態度には知性が感じられる。
やがて、画面に“試験終了”の文字が表示される。
ふぅ、と小さく息を吐く冷。
第一段階は突破した。だが、これはまだ始まりにすぎない。
試験終了の合図が響き、会場内にわずかな安堵が広がる。
湊が肩を回しながら冷に話しかけた。
「いや~難しかったけど、ちょっと楽しかったかも」
「お前はそう言うと思った」
さくらが机に突っ伏している。
「もう無理ぃ……でも、あたし、たぶん白紙じゃなかったよ?」
落ち着いた雰囲気の少女は周囲を一瞥しながら呟いた。
「……この試験、きっと“答え”そのものは重要じゃない。過程を見られてる」
眼鏡の少女が頷く。
「選抜ロジックの中に、リアルタイム思考ログを抽出する構造があった。恐らく……行動心理のトレース」
冷は静かに立ち上がった。
(設問の一つ……“あなたはどうやって試験会場に来たか”。まるで試験内容とは無関係なようでいて、意味があるとしか思えない。問題の中に混ざった“異物”……いや、混ぜられた、か)
「午後が本番かもしれないな」
次の試験、“適性検査”――それは、おそらく普通では終わらない。
冷の背中に、静かに緊張が走る。
(――あのメール、まさか午後のことを指していたのか?)
物語は、ここからが本番だ。




