LOG.005 ─ 静かなる兆し
LOG.005 ─ 静かなる兆し
朝の陽光が差し込む部屋の中、冷は一人、デスクに向かっていた。
机の上にはノートパソコンと数冊の専門書。公安選抜試験の筆記対策として、論理問題と時事対策、そして倫理設問の演習に取り組んでいた。
紅茶を一口飲み、静かに息を整える。部屋の中は物音一つなく、ただキーボードを叩く音と、ページをめくる音だけが響いていた。
(……集中できてる。今のうちに、倫理設問を片付けるか)
手元のノートには、過去の倫理的ジレンマに関する問題と、自身の見解がぎっしりと書き込まれている。
ふと、手が止まる。
さくら──昨日、出会ったばかりの彼女のまっすぐな視線と、「私も公安を目指してます」という言葉が頭をよぎった。
(……あいつも、今ごろ頑張ってるんだろうな)
冷は頭を振って意識を切り替え、端末のタブレットでサイバー分野の設問演習に切り替えた。
画面には、架空のサーバに不正侵入されたログデータとネットワーク構成が表示されている。
(これが第二段階の実技試験で出るパターンか……短時間で異常検知と対応を求められるとなると、判断の速さも重要になる)
そこに、リビングから足音が近づき、ドアが軽くノックされた。
「お兄ちゃん、そろそろ私、学校行ってくるね」
ドアを開けて顔をのぞかせた楓は、高校の制服にエプロンを重ね、髪をポニーテールにまとめていた──が、よく見るとそのまま出かけようとしているらしい。
「……エプロン、脱がなくていいのか?」と冷が尋ねると、楓は「あっ」と短く声を漏らして笑った。「やばっ、完全に忘れてた〜」と慌てて戻っていく背中に、冷は小さくため息をついた。
「……もう行くのか」
「うん、今日は生徒会の朝礼もあるから、ちょっと早めに出るんだ〜」
「気をつけて行けよ」
「ねぇ……その前に、ぎゅーってしてくれたら、もっと頑張れそうなんだけどな?」
いたずらっぽく笑いながら、楓は軽く両手を広げてみせる。
「……行ってこい」
「ちぇーっ、またかわされちゃった。でも、帰ってきたらぎゅーしてね、約束だよ?」
「……検討しとく」
「ふふっ、それじゃ、行ってきまーす!」
軽快な足音を響かせて楓が玄関へ向かっていく。
冷はわずかに口元を緩めたあと、再び画面へと目を戻した。
****
スマホの通知音が鳴った。
件名は──『綾城教授より』。
冷は画面を開き、本文に目を通した。
---
**件名:ログ確認しました**
> 才牙くん
>
> データ、確かに確認しました。あの掲示板に表示された文字列と、通信ログの内容……あなたの仮説は正しいかもしれません。
>
> ただし、現時点でこれを公に扱うのは危険です。公安内部にも、情報の漏洩が起きている可能性があります。
>
> 少なくとも、試験を終えるまでは、外部には一切の共有を避けなさい。
>
> それと、あの件──“SABLE”についても、引き続き個人的に調査してみます。
>
> 何かあれば、私から連絡します。
>
> ……気をつけなさい。
---
冷は目を細め、スマホを机に置いた。
(……やっぱり、あれはただのイタズラじゃなかった)
気づけば、背筋がぞくりとするような冷たい感覚が全身を走っていた。
冷は一度目を閉じて深呼吸し、思考を切り替えるように端末を手に取った。
画面には「違法通信の検出と通報義務に関する倫理的判断」と題された設問が表示されている。
**問:あなたは国家公安機関に勤務する技術職員である。勤務中に匿名通信により不正情報が送信されていることに気づいた。上司はそれを黙認し、調査を行わないよう指示してきた。この場合、あなたはどう行動すべきか。倫理的・法的観点から答えなさい。**
冷はすぐにメモ画面を開き、法的根拠と倫理的判断の要点を整理していく。
(公益通報者保護法の範囲内か……ただし、国家機密に関わる場合は例外もあったな)
続いて現れたのは、サイバー分野の設問だった。
**問:次のサーバログのうち、標的型攻撃の痕跡として最も疑わしいものを選び、その理由を述べよ。**
ログには、深夜3時過ぎに外部からの異常なパケットが集中していた痕跡が記録されていた。
(……これは典型的なカバースキャン。デコイを混ぜてノイズに紛れた探索型だ)
冷は即座に異常なIP帯を抽出し、仮想ネットワーク構成図に印をつけた。
小さく息をついて背筋を伸ばすと、また次の問題に目を移す──そのときだった。
****
冷はふと時計に目をやった。
(……もう午後か。集中してると時間の感覚がなくなるな)
わずかに背伸びをして、肩の力を抜いたそのとき──
玄関のドアが開く音がして、ぱたぱたと軽快な足音が廊下を駆けてきた。
「ただいま〜っ!」
リビングのドアが勢いよく開き、制服姿の楓が顔を覗かせる。
「おかえり。早かったな」
「うん、今日は生徒会の打ち合わせ早く終わったんだ〜!」
楓はバッグを軽く放り投げ、そのままリビングに駆け込んできた。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん、今日の買い物、一緒に行ってくれるって言ってたよね?」
「……ああ、言ったな」
「えへへ〜、今日ちょっと頑張ったから、いっぱい選びたいものあるのっ」
冷は手元の時計に視線を落とすと、小さくうなずいた。
「……気分転換にもなるし、付き合うよ」
「やった!」
楓はぴょんと跳ねるように喜び、玄関に向かって走り出した。
「じゃあ準備してくるから、待っててねー!」
冷は小さく首を傾げた。
「……買い物って、何を?」
楓が顔を覗かせてニッコリと笑う。
「うん、今夜は私が夕飯作るって言ったでしょ? 一緒に選びたいなって♪」
近くのスーパーまでは、並んで歩いて10分ほど。
道すがら、楓はずっとおしゃべりをしていた。学校の友達の話、テストのこと、部活のこと……。
「ねえねえ、お兄ちゃんってさ、好きな料理とかあるの?」
「急にどうした」
「いや〜、好きな人のためにご飯作るなら、好物くらい知っとかないとって思って♪」
「……誰の話だ、それ」
「えー? お兄ちゃんだったらどう?」
「……俺は、和食ならだいたい好きだ」
「ふふっ、了解〜♪」
スーパーでは、楓が冷にぴったり寄り添って歩くたびに、周囲からカップルと間違われるような視線が飛んできていた。
「ねぇ、お兄ちゃん……なんか今日、女の匂いがする」
「またそれか」
「ほんとだよ? 私の勘は当たるんだから」
「……まさか、ブラフか?」
「ふふっ、それは秘密〜。でも女の子の勘は鋭いんだから♪」
****
夕食後、冷はリビングのソファで試験用の資料を見返していた。楓はその隣でクッションを抱えながらテレビを見ていたが、やがて立ち上がってバスルームへと向かった。
「お風呂入ってくるね〜」
しばらくして、髪をタオルで拭きながら楓が戻ってくる。
バスローブ姿のまま、リビングへと現れた楓は、わざとらしく伸びをしながら言った。
「ふぅ〜、お風呂上がりって気持ちいいね〜」
「……もう少しちゃんと着ろ」
「えー? 別に家の中くらいいいじゃん。お兄ちゃん以外に見られないし〜」
「……まったく」
楓は冷の隣に腰を下ろし、ぴたりと寄り添ってくる。
「ねぇ、試験終わったら……ちょっとくらい、遊んだりしよ?」
「……考えとく」
「ふふっ、約束ね」
その笑顔は無邪気で、どこか甘えたような雰囲気をまとっていた。
冷は、いつものように「妹」として接しながらも、胸の内で複雑な感情が交錯しているのを自覚していた。
(……この平穏が、ずっと続けばいいのに)
しかし──“SABLE”というコードネームと、あの通信ログの異常が、 それを許さない予感だけは、胸の奥に確かに残っていた。
夜は更けていく。
寝る前、冷は机の上にスケジュール帳をそっと置いた。
小さく深呼吸をひとつ。
(本番までは、あと数週間か……)
カーテン越しの夜空を見上げながら、胸の奥にわずかな緊張が宿るのを感じる。
──まだ時間はある。でも、油断はできない。
その静かな決意とともに、冷は部屋の明かりを落とした。
試験の日が、ゆっくりと近づいてくる。
すべてが、静かに、動き出そうとしていた。




