LOG.004 ─ それぞれの覚悟
LOG.004 ─ それぞれの覚悟
朝の陽光がカーテン越しに差し込み、部屋の空気を温かく包んでいた。
その直後、部屋の扉がそっと開いたかと思うと、エプロン姿の楓が忍び足で中に入ってきた。
「お兄ちゃん、まだ寝てるの〜?」
小声で囁きながら、楓はそっとベッドの脇まで近づく。
ベッドの中で寝返りを打った冷の顔を覗き込み、にやりと笑った楓は、胸元の開いたエプロン姿を活かして、わざと身をかがめるようにして顔を近づけた。
「起きないと……おっぱい、当てちゃうぞ〜?」
その瞬間、冷のまぶたがぴくりと動いた。
「……お前なぁ、朝から何やってんだ」
目を開けた冷は、真正面に迫っていた楓の谷間を見て、慌てて顔をそむけた。
「わっ、起きた! ふふ、やっぱこれが一番効果あるね〜」
「……まったく、変な起こし方するなよ」
「だって、今日は朝ごはん頑張ったんだもん。お兄ちゃんに食べてもらいたかったの〜」
照れ隠しのように笑いながら、楓は軽やかにベッドから立ち上がり、ひらりとスカートを揺らして部屋を出て行った。
冷は布団を払いのけながら、小さくため息をついた。
(……朝からペース乱されるな)
その後、冷は顔を洗い、身支度を整えてダイニングへと向かった。
****
朝食のテーブルには、焼きたてのトーストとスクランブルエッグ、彩りの良いサラダが並び、湯気の立つ紅茶の香りが漂っていた。
「はいっ、朝ごはん完成〜♪」
エプロン姿の楓が誇らしげに微笑みながら、最後にジャムの瓶を食卓に置いた。
「……朝からずいぶん張り切ってるな」
「だって今日、大事な日でしょ? お兄ちゃん、試験対策とかでいろいろ大変なんだから、せめて朝ごはんくらい元気出してほしいなって思って♪」
「……ありがとう。素直に嬉しいよ」
楓はその言葉に満足げに頷くと、冷の向かいにちょこんと腰を下ろす。
「さあさ、あったかいうちに食べよう?」
「今日も公安の準備? なんか、昨日はちょっと雰囲気違ってたよね〜。まさか、女の子と話してたとか?」
「……なんでそれを」
「ふふん、女の勘としか言いようがないかな。お兄ちゃん、知らない匂いしてたよ?」
「は? 匂い?」
冷は思わず自分の服の袖を嗅ぐ。「……別に、何も変わらないと思うけど」
「うそうそ、ブラフだよ。そんなに慌てるなんて図星かな〜?」
楓はくすくす笑いながらテーブルにつく。冷は苦笑しながら紅茶を一口飲んだ。
「ただ、受験書類の提出に行っただけだ」
「でも、なんとなく……お兄ちゃんのこと、気になってる子がいる気がするな〜って思って」
「……知らないよ、そんなの」
「で、試験まであと数日だけど、準備はどう? 」
「昨日の講義と、(あの掲示板のノイズの件)……今日、綾城教授に相談してみるつもりだ」
「そっか。教授、すごく頼りになりそうだったもんね」
「……ああ」
****
朝食を終えた後、冷は自室に戻り、机に腰を下ろすと、ノートPCを立ち上げた。
あの駅前の掲示板ノイズ──あの瞬間にキャプチャしたパケットログは、明らかに不自然な構造をしていた。ただの広告の乱れではない。暗号化された通信データの断片が、Wi-Fi経由で局所的に送られていた形跡。内容は不明だが、時間帯、場所、そして公安試験に関連するキーワードが不気味な一致を見せていた。
(……あれは偶然じゃない)
冷は改めてログを確認し、パケットのタイムスタンプ、発信元、通信プロトコルの種類、エンコード形式、すべてを表計算ソフトに落とし込む。自分で作った簡易解析スクリプトが動き出し、数秒後に“疑わしい文字列”として、ある一文が浮かび上がる。
《SABLE - Start after Blackline Event》
(暗号名か、コードネーム……?)
冷は小さく息を呑み、すぐに画面を閉じた。
すべてを一人で抱えるには荷が重い。だが、誰にでも見せていい内容でもない。
(……綾城教授なら)
あの講義での眼差しと、かつて父と何らかの関わりがあったらしい雰囲気──冷は、彼女を信じることに決めた。
USBメモリに解析ログの要約を移し、添付する準備を整えたうえで、スマホを手に取る。
メールアプリを開き、深呼吸をひとつ。そして、ゆっくりと指を動かし始める。
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**件名:不審な通信ログに関するご相談**
**宛先:綾城 冴教授**
> 綾城教授
>
> いつもお世話になっております。創進大学・情報工学部の才牙 冷です。
>
> 先日の講義の後、偶然とは思えない不審な通信ログに遭遇しました。
>
> 内容は、駅前の大型電子掲示板にて一瞬表示された《公安選抜試験……本当に“安全”か?》という文字列に端を発します。その直後、私の自作ネットワーク監視ツールがWi-Fi経由の不審な通信を検出しました。
>
> 添付ファイルには、その時に記録したログのサマリーと、私が行った初期解析の内容をまとめております。
>
> ご多忙のところ誠に恐縮ですが、もしお時間をいただけるようであれば、直接お話を伺いに伺いたく思っております。
>
> ご確認のほど、何卒よろしくお願いいたします。
>
> 才牙 冷
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送信ボタンを押すと、冷は深く椅子にもたれかかり、目を閉じた。
(……俺の勘違いなら、それでいい。だが、もしこの背後に何かがあるとすれば──)
部屋には、微かに風がカーテンを揺らす音と、PCのファンが回る低い音だけが響いていた。
****
その後、冷はノートを開き、試験の出題傾向を確認しながら対策を練りはじめた。
試験は三段階構成。
第一段階は筆記試験──国家公務員一般職の応用問題をベースに、論理的思考・倫理判断・時事問題・サイバー分野の知識が出題される。
第二段階は実技試験──模擬事件に基づく捜査・分析・判断をリアルタイムで行い、瞬時の判断力と実務応用力が問われる。
そして最終段階は面接──公安官としての資質と覚悟を見極めるため、複数名の面接官による圧迫気味の質疑が行われる。
(問題は、倫理設問とサイバー実務系……ここを重点的に)
紅茶を一口すすると、ふと、さくらの顔が浮かぶ。
《……応援してますからね、才牙さん》
さくらも、この試験を受けているのだろうか──またどこかで顔を合わせる日が来るのかもしれない。
冷はそう思いながら、浮かびかけた笑みを抑えるように頭を振った。
苦笑しながら頭を振り、冷は再び画面に向き直った。




