LOG.003 ─ 微かなノイズ
LOG.003 ─ 微かなノイズ
その後、冷は無事に受験票を提出し、校門を出て駅へと向かった。
途中、駅前の広場に設置された大型電子掲示板の映像が、ふと一瞬だけノイズを走らせる。
──いや、ノイズじゃない。
冷は歩みを止め、その一瞬に映し出された“文字列”を脳内で反芻する。
《公安選抜試験……本当に“安全”か?》
通行人は誰も気にしていない。広告がすぐ通常の企業CMに戻ったからだ。
だが冷は、スマホを取り出し、即座にログを確認した。彼が自作したネットワーク監視アプリが、駅前のWi-Fi経由で不審なパケット通信を検知していた。
「……やっぱり何か流れてるな」
暗号化されたメッセージの断片。タイムスタンプはちょうど、掲示板のノイズが走った時間と一致していた。
冷はデータを保存しながら、ゆっくりと歩き出す。
(公安の試験直前にこんな仕掛け……偶然とは思えないな)
考え込む間もなく、電車がホームに滑り込んできた。
帰路につきながらも、冷の脳内には先ほどの違和感と、さくらの笑みが交互に浮かんでいた。
****
マンションのエントランスに差し掛かると、セキュリティゲートの自動認証が静かに作動し、冷を迎え入れた。高層階へ向かうエレベーターの中、冷はスマホで保存した通信ログを見直しながら、あの掲示板のメッセージが単なるイタズラでないことを確信していた。
部屋のドアを開けると、ほのかに出汁の香りが漂ってくる。
「おかえり、冷。ちょっと遅かったね……って、今日はご飯にする? それともお風呂? それとも……私?」
楓は言いながら、無邪気に身を乗り出した。その拍子に制服の胸元がわずかに開き、豊かな谷間がちらりと覗く。エプロン越しでもはっきりとわかるその存在感に、冷は思わず視線を逸らした。
(……わざとなのか、あれ)
「え、なにが〜?」
小悪魔のように首を傾げる楓の笑みに、冷は小さくため息をつきながら靴を脱いだ。
キッチンでは、高校の制服の上にフリル付きのエプロンを重ねた楓が、手際よく料理を仕上げていた。今日のメニューは豚の生姜焼きと小鉢の煮物、それに味噌汁と炊きたてのご飯。
「……いい匂いだな」
「でしょ? お兄ちゃん、今日はちょっと頑張ったよ?」
楓はくるりと振り向き、胸元のフリル付きのエプロンをなびかせながら笑う。その無邪気な笑顔に、冷の表情も自然と緩んだ。
「なんか……楽しそうだった? 顔がちょっとにやけてるよ?」
「別に……何でもない」
「ふーん……女の子と会ったんじゃないの〜?」
「……なんでそうなる」
「なんかさ、女の匂いがするんだよね〜」
「は?」
冷は思わず自分の服の袖を鼻に近づける。「……別に、何の匂いもしないけど」
「ふふっ、うそに決まってるじゃん。ただのブラフだよ〜」
「……お前な……」
冷はたじたじとしながら視線を逸らし、苦笑いを浮かべた。
「勘、だよ。お兄ちゃんって、わかりやすいから」
「……どこかで、見てたのか、お前」
「ふふ、ほんとにわかりやすいなぁ〜冷は」
言いながら楓は、テーブルに夕食を並べはじめる。
「いただきます」
ふたりの箸が同時に動き出す。いつもの日常──のはずだが、冷の脳裏にはあの掲示板の文字列がちらついていた。
****
食後、楓は「お風呂入ってくるね」と笑顔を残して浴室へ消えていった。
数十分後──。
冷が自室で資料をまとめていると、背後からふわりと柔らかな香りがした。
「……兄ちゃん」
振り返ると、バスローブ姿の楓がそっと部屋のドアを開けていた。
湯上がりでほんのり頬を染め、髪からは湯気がまだ立ちのぼっている。バスローブの胸元は無防備で、豊かな谷間が目に入り、冷は一瞬で視線を逸らした。
「ちょっとだけ、ここいてもいい?」
そう言ってベッドの端に腰かける楓。冷は苦笑いを浮かべながらも、彼女を追い出すことはしなかった。
「……甘えすぎだろ」
「だって、お兄ちゃん最近、すぐ冷たくするし」
楓はタオルで濡れた髪を拭きながら、ほんのり拗ねた声を出す。
「それに……お兄ちゃんの部屋、なんか安心するんだよね。ずっとこうしていたいくらい」
そう言って肩にもたれかかってくる彼女に、冷はまたもやたじろいだ。
「……はいはい、ちょっとだけな」
「やった♪」
****
その夜、冷は自室のデスクに向かい、保存しておいたパケットログをパソコンに取り込んでいた。
ディスプレイに表示されたのは、膨大なログファイルと暗号化されたパケットの断片。
(……なるほど、やっぱりあのノイズは偶然じゃなかった)
冷は手元の自作アプリでデコードを開始。ログの中に含まれていたパケットは、短時間で通信が切断されたものが中心だったが、いくつかの断片には不審な構文や、特定の暗号規格に近いビットパターンが見られた。
「この暗号化形式……古い軍事系の仕様に似てるな」
彼はノイズの発生時刻と一致するパケットに注目し、ペイロードの一部をバイナリエディタで解析する。
そこには、簡易的なビット操作で変換された英文の断片が含まれていた。
──《公安選抜試験──操作されている》
「やっぱり、ただのいたずらじゃない」
さらにログのIP情報を洗い出し、パケットの送信元に関連するネットワークを調査する。
「教育機関のネットワーク経由……? いや、これは中継用のプロキシだな。IPのルートが分断されてる」
冷は額に手を当てる。
「つまり……誰かが、教育機関のネットワークを使って、匿名で“何か”を流している」
メッセージは断片的で、完全には読み取れない。それでも、データの発信が公安試験の掲示板と同期していたこと、そしてその内容が試験そのものへの疑義を含んでいたことは、偶然にしては出来すぎていた。
「このデータ、今はまだ公にできない……」
冷は断片化されたメッセージログとネットワークトレースを別ファイルに保存し、すべてを強固なパスワードで暗号化した。
その目は、冴え冴えと夜の闇を見据えていた。




