LOG.142 欠落する記録、囁く屋上
LOG.142 欠落する記録、囁く屋上
### ◆ 朝──訓練前のざわめき
前夜の不可解な出来事の余韻は、翌朝になっても冷の胸を重くしていた。寝不足でまぶたが重い中、訓練場に集まった候補生たちはざわめき立っている。誰もが小声で噂を交わし、視線をそわそわと周囲に走らせていた。靴音や掛け声よりも、ざわめきの方が大きく感じられるほどで、普段の朝の整列とは明らかに違う緊張感が漂っていた。空は曇りがちで、風も湿っている。気圧の低さがそのまま人心を重くしているようだった。
「昨夜、冷が屋上にいたって話だぞ」「いや、一人じゃなかったって聞いたけど」
噂は食い違い、どれも曖昧だ。隣にいるはずのさくらに目をやると、数名の候補生はまるで彼女の存在を認識していないように会話を続けていた。冷は拳を握りしめ、背筋に冷たいものが走る。自分の知覚すら揺さぶられているような錯覚に、体温が一瞬下がった気がした。
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### ◆ 午前講義──空席の映像
教室。午前の講義は本来なら制度論と事例研究が扱われるはずだったが、教壇の教官の声を遮るように、候補生たちの意識はざわつき続けていた。教官は『公安における監視データの信頼性と危険性』というテーマで黒板に図を描いていたが、誰も集中していない。教科書のページをめくる音が虚しく響くだけだった。冷はペンを握りしめ、眠気よりも緊張で文字が書けなかった。
そんな中、まつりが端末を広げ、前夜のログを再解析した。画面の明かりが彼女の眼鏡に反射し、真剣な瞳を照らす。
「冷の移動ログは残ってた。でも……」
彼女の指が画面を示す。さくらの名前の欄には、真っ白な空白。どの時間帯にも記録がない。
「隣にいたはずなのに、消えてる……」
天音が腕を組んで吐き捨てる。「制度が意図的に削ってる。これ以上ない証拠よ」
湊は必死に声を上げる。「でも僕は見た! 確かに冷と一緒に……さくらはいた!」
その瞬間、スクリーンが一瞬ノイズを走らせ、映像が乱れた。そこに映ったのは“空席”だけが並ぶ教室の映像だった。教官ですら顔色を変え、すぐにスライドを切り替えた。背筋に冷たいものが走り、誰もが声を失った。
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### ◆ 昼休み──記憶の抜け落ち
食堂。冷、湊、まつり、天音、そしてさくらが同じテーブルを囲んでいた。皿の上には湯気を立てるシチューや焼き魚、候補生たちの昼食が並んでいる。周囲ではざわめきと食器の音が混じり合い、喧噪の中に不穏な空気が紛れ込んでいた。天井の蛍光灯がちらつき、妙に不安を煽る。
「冷、女子に囲まれてばっかじゃない」
近くの女子候補生が茶化すように言った。だが彼女らが口にした女子の名前に“さくら”だけが含まれていない。彼女はそこに座っているのに、まるで最初から存在しなかったかのように。数人の候補生は不思議そうに首をかしげながらも、その違和感を深く追及しようとはしなかった。まるで“忘れる”ことが自然な反応であるかのように。
「……私、ちゃんといるのに」さくらの声は震えていて、目尻には涙が滲んでいた。今にも泣き出してしまいそうに見えた。肩も小さく震えている。
俯くさくらの声に、冷は静かに返した。「ここにいる。俺が見てる」
その言葉に、さくらの瞳が潤み、ほんのひととき甘酸っぱい空気が漂った。湊がにこりと微笑み、まつりはタブレットを胸の前で抱え直す。天音はわざとらしく咳払いをして、場の空気を断ち切った。食堂の喧噪が再び押し寄せてきた。
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### ◆ 午後──屋上からの囁き
午後の訓練は模擬突入のシミュレーションだった。候補生たちが汗を流しながら動きを揃えている最中、ふいに耳慣れない声が校舎の上から届いた。乾いた笛の合図が止んだかのように、全員の動きが凍りつく。
「……さくら……」
誰かが名を呼んでいる。候補生たちが一斉に屋上を仰ぎ見る。しかしそこには誰もいない。空は曇天で、夕方を待たずして薄暗い影を落としていた。
冷だけは見た。フェンス越しに立つ白い影を。髪が風に揺れているように見えたが、次の瞬間には形を失い、瞬きの間にかき消えた。
「七不思議④……屋上の光、だな」冷は低く呟く。
天音が険しい顔で頷いた。「これで確定。制度の説明は全部嘘」
候補生たちは顔を見合わせ、恐怖を押し殺したような沈黙に包まれた。
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### ◆ 夜──寮での誓い
五人は寮の一室に集まり、情報を整理する。薄暗い照明の下、窓の外からは虫の声と風の音が微かに響いていた。机の上にはノートや端末が散らばり、緊張と疲労が入り混じった空気が漂っていた。カーテンの隙間から漏れる月光が床に斜めの線を描いている。
まつり「消されたログは復元できない。でも痕跡は残る」
天音「誰かが存在を削ってる。認識すら操作して」
湊「だったら……僕たちが忘れなければいい。記憶を繋げば」
冷「……そうだ。俺たちで守る」
さくらは唇を噛み、涙ぐみながら小さな声で言った。「消えちゃうの、怖い。でも……冷くんがいるなら、大丈夫」
冷は彼女の肩に手を置き、強く頷いた。湊も優しく視線を送り、まつりと天音は無言でうつむいた。部屋に漂う緊張が、五人をひとつに結びつけていた。
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### ◆ ラスト──囁き
消灯後。冷が眠りにつこうとした瞬間、枕元の端末が勝手に起動する。暗闇の中で液晶がぼんやりと青白く光り、部屋の壁に不気味な影を落とす。画面に浮かぶ文字は、無機質なフォントで冷たい響きを放っていた。
『桜井さくら──該当者なし』
瞬間、背筋に氷が走る。ベッドの上で息を呑む冷の耳に、風の音でも機械音でもない、人の声のような囁きが届く。距離が定まらない、不気味に近い声。窓が軋む音と重なり、部屋の空気が冷え込んだ。
「次は……君だ」
冷は凍りつき、呼吸が止まる。指先に力を込めても動かない。重苦しい沈黙の中、端末の光だけが彼を照らし続けていた。胸の鼓動が耳鳴りのように響き、まるで自分自身の存在さえも危うく削られていくかのようだった。




