Side.LOG.010 ─ 天音と知略の脱出デート
Side.LOG.010 ─ 天音と知略の脱出デート
**「知略と、休日の小さな脱出劇」**
日曜の朝、冷のスマホに届いたメッセージは、天音からのものだった。
《今日、ちょっと面白そうな場所見つけたの。付き合って》
添付されていたリンクには、リアル脱出ゲームイベント『閉鎖された未来研究所からの脱出』のページ。
「……珍しいな。こういうの、天音が誘ってくるなんて」
返信を送ると、即座にスタンプが返ってきた。「逃げられないわよ」と書かれた謎に包まれたロボットキャラが、ニヤリと笑っていた。
———
冷が待ち合わせ場所の駅前ロータリーに着くと、すでに天音はそこに立っていた。
ただ、その前に──男ふたりが彼女に声をかけていた。
「ねえ、お姉さん、今ひとり? 一緒にお茶でもどう?」
「ちょっとだけ、時間くれない?」
天音は表情ひとつ変えず、端的に答える。
「断るわ。人を待ってるから」
「そっかー、彼氏? でもさ、少しぐらい……」
その瞬間、天音の声が一段低くなる。
「“少しだけ”って便利な言葉よね。でも、あなたたちが勝手に言っても、私はその時間を価値あるとは思えない」
鋭く、しかし冷静な言葉。ナンパ男たちは押し黙り、苦笑しながら立ち去っていった。
冷は少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。
「……さすが。俺の出番なかったな」
天音は冷の方を振り向き、小さく肩をすくめる。
「公安候補生として当然の対応よ。むしろ来るのが遅い」
「いや、普通あれは軽くビビるって……見事だった」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
---
会場は、都内にあるイベントスペース。
広々としたホールには、研究所を模した近未来的な装飾が施されており、受付前には参加者たちが列をなしていた。巨大モニターには「閉鎖された未来研究所からの脱出」というタイトルが表示され、カウントダウンが迫る演出が場を盛り上げていた。
天音は受付で二人分の参加証を受け取りながら、冷の方を見て一言。
「事前予約制だから、私が手配しておいた。ちゃんと、公安候補生ペア枠で」
「……枠、あるんだ」
「ないけど、書いたら通ったのよ」
そうして手渡されたタブレット端末には、今回のミッション概要が表示されていた。
《シナリオ:閉鎖された未来研究所に囚われた研究員たち。人工知能によって封鎖された空間から、60分以内に脱出せよ》
「舞台設定は、サイバー犯罪が発生した研究所内らしいわ。セキュリティロック、音声解析、データ復旧、心理プロファイリング……公安の想定試験より幅広いわね」
「まるで模擬訓練だな。……けど、楽しそうだ」
ふたりは手渡されたタブレットを片手に、控え室の待機エリアへと進んだ。周囲はカップルや学生グループでにぎわっていたが、どこか“本気度”が違うふたりはすでに浮いていた。
「今日は“公安候補生ペア”として参加ね。チームワーク、試されるわよ?」
「……本番より緊張するな」カップルやグループが集まる中、クールな私服姿の天音はどこか場違いなほど落ち着いていた。白のブラウスにベージュのスカート。普段の公安訓練服とは違う柔らかな印象。
「今日は“公安候補生ペア”として参加ね。チームワーク、試されるわよ?」
「……本番より緊張するな」
ゲームが始まると、ふたりはすぐに異彩を放った。
最初のステージは、研究所の警備システムの解除がテーマだった。セキュリティキーのパターンを読み解くパズル形式で、壁一面に表示された「記号の連なり」を解析し、次の解除コードを導き出す必要がある。
《条件:同じ記号が連続して現れた場合、その直後の記号は"反転"する》
「記号が連続した直後のアルゴリズム……これは、トリガー処理だわ」
天音が指を動かしながら呟くと、冷はそれを補完するように答えた。
「逆に、反転パターンが続く場所を見つければ、そこがキーになる」
「いい読み。じゃあ、連続出現のログを照合して」
ふたりはモニター前で短い言葉を交わしながら、瞬く間にコードを入力していく。
ピピッ──解除音とともに、最初の扉が開いた。
最初のステージでは、暗号を解いて扉を開けるミッション。しかし、第二ステージに差し掛かったところで、意外な演出がふたりを待ち受けていた。
《次の扉を開けるには、ペアが“同時にタッチ”する必要があります。信頼と協力が鍵です》
「……同時にタッチ、ね。これって」
「つまり、手を繋げってことだろ」
ふたりは一瞬、互いの手元を見たまま沈黙した。
「……合理的判断として。拒否はしないけど」
「言い訳しないで素直に繋げば?」
「ふふ、じゃあ……はい」
天音がすっと手を差し出す。冷も軽く息を吐いて、その手を取った。
タッチパネルにふたりの手が重なった瞬間、扉が開く。だが、それよりも、わずかに強まった握力と、互いの手のぬくもりが妙に意識に残った。
「……手、冷たいのね」
「心は熱いってことで」
「……はあ? 何そのセリフ」
「照れてる?」
「してない」
わずかに赤くなった天音の耳を、冷は見逃さなかった。
冷がトラップの傾向や仕掛けの意図を冷静に見抜く一方で、天音は膨大なデータの中からパターンを即座に抽出し、暗号を次々に解読。
「ほら、この数字列、“時系列操作のパスワード”って書いてあるでしょ? ヒントは"交差"。つまり……これと、こっち」
「早っ……完全に分析官の動きだな」
「当然でしょ。これは"趣味"じゃなく、"訓練"よ」
冷は苦笑しつつも、どこか嬉しそうだった。
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中盤のステージは、仮想記録デバイス内に散りばめられた過去の音声ログを解析し、偽装された記録から真実のログを抽出するという、心理的なトリックも絡んだ高度な問題だった。
《解析条件:全24件の音声ログのうち、話者の言語的癖・トーン・話速を精査し、真の記録を抽出せよ》
一見するとすべて自然な会話の断片。しかし、音素や抑揚、無意識の口癖などが不自然に変化している。
「こっちの音声、発音に“促音”が極端に多い……わざとらしいわ」
「ログ15とログ22、語尾の“ね”の使い方が変化してるな。たぶんAIの生成範囲が変わったタイミングだ」
「このログ、明らかにフェイクよね。でも、どこが“違う”のか、根拠が弱い……」
天音は目を細め、ディスプレイに映し出された波形とメタデータを読み込んでいた。冷も隣で資料をスクロールしながら補足する。
「この音声、同じ話者のはずなのにイントネーションが微妙に変わってる。A.I.が生成したデータじゃないか?」
「なるほど……それなら、“パラメータ切替点”を洗えば痕跡が出るかも」
言葉を交わしながら、ふたりの手がタブレットに重なる瞬間が何度もあった。自然と生まれる呼吸の一致と連携。それはまるで、公安の捜査現場さながらのコンビネーションだった。
そして──
「特定完了。ログNo.47が改竄源」
「よし、突破だ」
「……くっ、ここだけロジックが通らない。ここの文字列、どう解釈すれば……」
そのとき、冷が隣からふいに覗き込むようにして、天音の顔にぐっと近づいた。
「こうじゃないか? ここ、暗号じゃなくて“暗示”になってる。記号の対応じゃなく、文脈読み」
思わず息を呑む天音。間近にある冷の顔、真剣な眼差し。
「ち、近い……っ」
小さく呟いたその声に、冷は気づいていない様子で問題に集中していた。
頬がじわっと熱くなり、天音は無意識に一歩だけ身体を引く。
「そ、そうね……たしかに、そう読めば筋が通るわ」
「よかった、天音が詰まるなんて珍しいから焦った」
「……たまにはあるのよ。人間だもの」
ふくれたような口調に、冷が少しだけ笑った。
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最終ステージは、仮想の中央制御室。数十枚のモニターと複数の端末が並び、音声、映像、キーログ、制御コード──すべてを統合して“脱出経路”を解明しなければならない。
《最終課題:最短脱出経路を導出し、セキュリティ認証用パスフレーズを構築せよ。全ての情報は断片的に記録されている。》
モニターの一つには、セキュリティドローンの動作ログが表示され、別の画面では施設マップに自動更新される障害箇所情報が流れていた。
「ここ……ドローンの通過時間と重ねると、監視の隙が1分半だけ生まれる」
「そのタイミングでこのルートを選べば、最小リスクで抜けられるわね」
また別の端末では、パスフレーズのヒントになるキーワードが複数言語で断片的に記録されていた。
「“liberation”、“sequence”、“omega”……」
「これ、旧プロジェクトの暗号名称かも。順番に意味がある」
《この研究所は封鎖されている。突破するには、唯一正しい経路を選び、アクセスキーをリアルタイムで構築せよ》
「ここまできて、最終問題がまさか総合演習とは……」
「まさに公安向けの訓練ね」
タイマーは刻一刻とカウントを続け、参加者の焦りを煽っていた。冷は座標情報のデータを解析しながら、複数の“経路案”をホワイトボードに描き出す。
天音はその裏で、通信ログの中に混ざる偽装命令を洗い出し、真のアクセス権限がどのルートに隠されているかを突き止めようとしていた。
「こっちが本命。ログB-17とB-21の交点が不自然に歪んでる。ここがスイッチになってる」
「それが正解なら、あと一手。だが……」
冷が一瞬、操作パネルの前で迷う。
「2択だ。どっちかが正解。でも、どっちも納得いく」
天音は、ふと静かに呟いた。
「冷くんが信じる方にしなさい。私は、信じる」
言葉よりも、信頼。冷は一瞬のためらいのあと、ボタンを押した。
《正解。脱出成功です──!》
ライトが点灯し、天井から拍手とともに紙吹雪が舞った。隣にいた天音が、ふっと力を抜いて、そっと冷の腕に身体を預けた。
「……ほんとに、君って時々、運命的な選択するわよね」
「勘じゃなくて、君の言葉のおかげ」
冷が一瞬、操作パネルの前で迷う。
「2択だ。どっちかが正解。でも、どっちも納得いく」
天音は、ふと静かに呟いた。
「冷くんが信じる方にしなさい。私は、信じる」
言葉よりも、信頼。冷は一瞬のためらいのあと、ボタンを押した。
《正解。脱出成功です──!》
ライトが点灯し、周囲の拍手がふたりを包む。
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脱出後、ふたりは近くの静かなカフェに入った。木のぬくもりを感じる落ち着いた内装と、ほのかに香るハーブティーの香りが、緊張感の余韻を和らげてくれる。
天音はソファに深く腰を下ろし、少しだけ目を閉じて息をついた。
「……はあ、思ったより消耗したわ。集中力使いすぎ」
「そりゃ、あれだけ全力で解析してたらな」
冷がミルクティーをそっと差し出すと、天音は受け取りながら微笑む。
「ありがと。……優しいところ、あるのね」
「たまにはな。今日は“たまに”の日だ」
冷が冗談めかして言うと、天音はふっと笑って、けれどすぐに真面目な表情に戻る。
「でも、本当に助かった。あの最終ステージ、君がいたから突破できた」
「お互い様だよ。天音の分析がなければ、最初のパズルすら無理だった」
会話が途切れた瞬間、ふたりの間に少しだけ沈黙が流れる。
「……冷くん」
「ん?」
「今日は、ほんとに楽しかった。……ちょっと、こういうの、クセになりそう」
天音はそう言ってカップを置き、鞄から小さなチョコレートを取り出してテーブルに置いた。
「これ、ご褒美。今日はパートナーとして、最高の仕事だったから」
「お、ありがとう。……じゃあ、次の任務の後も期待してる」
「次があるかは、私の気分次第だけどね」
冷がチョコをつまもうとしたそのとき、天音が少しだけ身を乗り出した。
「でも……今だけは、気分、いいかも」
囁くようにそう言って、天音は冷の頬に、そして口元へと、ごく自然に唇を寄せた。
一瞬のキス。
触れたのはほんの数秒だったが、時間が止まったように感じられた。
離れた天音は、少しだけ照れたように頬を赤らめながら、ストローをくわえて視線を逸らした。
「な、何よ。……お礼よ、お礼。特別な意味なんて……ないんだから」
「……はいはい。ありがたく頂戴しました」
天音はストローの先で氷をつつきながら、もう一度、小さく呟いた。
「でも……たまには、こういうのも悪くないわね」
カフェを出たふたりは、並んで歩きながら駅へと向かう。
春の夕暮れ、街路樹の影が長く伸びる道を、天音がぽつりとつぶやいた。
「……今日は、予定よりずっと楽しかった」
「それってつまり、俺のこと褒めてる?」
「どうかしら? ……でも、もう少しだけ一緒に歩きたいと思ったのは、君のせい」
冷は少し照れながらもその言葉を受け止め、自然に天音の手を取った。
天音は一瞬驚いたように見えたが、そのまま手を握り返した。
「ほんと、君って……ときどきズルいわね」
並ぶ影が、少しだけ近づいた。
「でも……たまには、こういうのも悪くないわね」
休日の午後。脱出したのは仮想の研究所だけじゃなかった。ふたりの心の距離も、静かに、そして確かに近づいていた。
「意外だった。天音が、あんな風に任せるとは思わなかった」
「……信頼できる人には、判断を預けてもいいってだけ。あと――」
天音はストローをくわえながら、視線だけで冷を見つめる。
「たまには、君にリードしてもらうのも悪くないかなって。……ちょっとだけ、ね」
冷はその言葉に軽く笑い、「じゃあ次は、もっと難しい謎解きに挑戦しようか」と返す。
「ふふ、楽しみにしてる。次も、私が誘ってあげる」
休日の午後。知性と信頼で紡がれた小さな勝利と、ふたりの距離が確かに縮んだ、そんな物語。




