第八譚
「そういえば、氷雨には伝えそびれてたんだが……」
「何?」
「あいつがここにきているみたいだぞ。勘付かれたんじゃないか。……まあ、なんにせよ用心するに越したことはないだろうから、一応俺からの警告な」
紅蓮さんの一言で氷雨の表情が一瞬だが変化する。温和な表情から見たことのない冷たい表情へ。だが、それもすぐに元に戻った。
しかし氷雨の変わりようから、ただことではないと不安になり慌てて尋ねる。
「あの、氷雨が危険なんですか。誰かに狙われているんですか」
「僕が狙われてるわけじゃないんだ。だから、僕は大丈夫。少し厄介な客人がこの街に来ているようでね」
それでも僕は安心できなくて、手を強く握ってしまう。氷雨はずっと僕によくしてくれた。そんな人に危険が迫っているというのに黙っていられるはずがない。それほどまでに氷雨の存在が僕の中で大きくなっているのだ。
「天、心配してくれているのかな。もしそうなら、不謹慎だけど嬉しいな。本当に僕は大丈夫。僕じゃないんだよ、あいつが狙っているのは」
「じゃあ、誰が狙われているの……」
そう聞くと紅蓮さんは僕から視線を逸らす。氷雨と違って誤魔化せない質なのだろう。
「もしかして、狙われているのって……僕?」
二人とも何も答えない。その沈黙が答えなのだろう。
狙われているのは僕だ。
そう確信する。僕は呆然と立ちすくむしかなかった。まさか他人に狙われる日が来るとは思ってもみなかったのだ。危険とは縁遠い、平穏な毎日を過ごしてきた。そんな最中、眼前に突き付けられた危機。僕にはどうする術もない。どうしようもない。
途方に暮れる僕に氷雨が恐る恐る声をかける。
「僕が絶対に守り切って見せるから……その、帰るとか言ったりしないで」
帰る。見当違いな氷雨の言葉に驚くと同時に呆気にとられる。氷雨の存在が大きくなってきた僕に『帰る』という選択肢は挙がらなかった。
僕のことになると氷雨はよく普段の余裕がなくなる。ただそれだけでも嬉しいなんて、僕はどうしたのか。守り切って見せるという言葉に心が躍るのはどうしてなのか。
終始無言の僕に氷雨は不安なようで様子を探るように覗き込んでくる。
その仕草が可愛いと思うなんて本当に僕はどうしたのだろうか。
これではまるで暇つぶしに読んだあの小説に出てくる女の子のようではないか。幼馴染の男の子に恋をした彼女は、彼のとった行動で一喜一憂する。一緒に出掛けられるだけで嬉しくて、他の人と話しているのは寂しくて。確かそんな小説だった。
今の自分はまさにその女の子のようだ。
そう思い至った瞬間、自分の気持ちに気づいた。
僕は氷雨に恋情を抱いているんだ。
自分の気持ちを自覚した刹那、顔が熱くなるのがわかった。次第に熱を帯び、赤くなっていく頬。耳までも真っ赤だろう。俯くことで自分の髪で表情を隠す。
こんなに顔に出やすかったなんて今初めて知った。
「氷雨、今は帰ろう」
「うん、天」
氷雨はそう言うと店主に手を振り、店を出る。顔の赤い僕を心配して、そっと額に手を当てられる。熱があるのかと勘違いされている。
僕はそんな氷雨の手を取ると早々に馬車に向かう。
氷雨は何が何だかわかっていなかったが、僕にされるがまま引っ張られていった。
「本当に大丈夫なの……?」
明らかに様子の違う僕に、慌てふためき心配する氷雨。
僕はというと終始黙っていた。何か言葉を発したら、そのまま自分の気持ちを言葉に出してしまいそうだったから、何も言えなかった。一瞬でも整理をしてからにしたかった。でなければ、思いもよらないことを口走ってしまいそうだったから。
馬車で家に帰りつくと僕はまたも氷雨の手を取り歩く。
「もしかして天、怒ってる? 僕、何かしたかな」
弱々しく声をかける氷雨。いつもの余裕が微塵も感じられない。
怒ってない。何もしてない。強いて言うなら優しくされた。ただそれだけ。
想っていても言葉にできないもどかしさから、またも口を噤んでしまう。
「……天」
さっきまでとは違う凛とした声で氷雨に名前を呼ばれ、反射で顔を上げてしまう。
氷雨と目が合う。もう目が離せない。顔がまたも熱を帯び、鼓動が早くなっているのが自分でわかる。体も思うように動かない。
「天、何かあるなら言ってほしいな。僕は愚者だから、わからないんだ」
違う。そうじゃなくて。でも、なんて言ったらいいかわかんなくて。好きだけど、口がうまく動かなくて、声も発せない。口を開閉するだけで呼吸もうまくできない。
こんな自分が嫌になって、意思に反して涙で視界がにじむ。
「天!? ……僕が嫌いになっ」
「違う! 僕は、僕は。……氷雨が好きだ」
氷雨の見当違いな答えに焦った僕は、食い気味に被せて答える。自分でも吃驚するほど大きな声がでたが、兎に角、氷雨の見当違いな答えをすぐにでも訂正したくて、ただそれだけに必死だった。
「本当に……。天が、僕を好き……。夢じゃないよね。現実だよね」
「そうだよ。今さっき自覚したけど、僕は氷雨が好きなんだと思う。恋情を抱いている。氷雨はそんな僕は嫌か」
「嫌じゃない。嬉しすぎて、もう何が何だか」
やっぱり自分のことで慌てふてめく氷雨は愛おしい。その想いを伝えようと氷雨に抱きつくと氷雨も抱き返してくれる。
抱きつくと氷雨の体温を直に感じられて、心が温かくなり安心する。
「僕は氷雨と一緒にいたい。だから、僕に迫る危機を事前に知っておきたいんだ。だから教えてくれると嬉しいんだけど……」
胸に顔をうずめたまま、そう訴える。
誤魔化されるわけにはいかない。絶対に聞き出してやるという思いで。
「……わかった。全部話すよ。この前秘密にしたことも全部」
僕の思いに動かされたのか、渋りながらも全部話すと約束してくれた。
その後、氷雨の自室で僕に関するすべてを話してくれた。そのどれもが突拍子もないことで、氷雨じゃなければ信じることもできなかったかもしれない。
氷雨が話した内容はこうだった__。