第六譚
「天、今日は一緒に出掛けないかい。天の着物とか日用品とか買いたくて」
少し近づけたと思った四日目と何もなかった五日目がそのまま過ぎ去り、今は六日目の朝だ。今日も今日とて三食の食事を準備するだけかと思っていた。
あの日に言った通り、氷雨は律儀に厨房まで来て、僕の調理姿を眺めていた。出会ってからの五日間は黒の着物を着ていたが、今日は赤い着物を着ていたから、何かあるとは思っていた。まさか自分に関することとは考えていなかったが、さっきの一言はそんな時に発せられた。
「いいけど、僕そんなにお金持ってきてない。錦に頼めば家に預けたままの自分の貯金を持ってきてもらえるだろうけど……」
「天、君はそんな心配をしなくていいんだよ。何故なら僕が払うから」
そんなににこやかに言われても、素直に嬉しいとは言えない。
そんな僕の感情を見透かしてか氷雨は優しく諭すように声をかける。
「天は僕の許嫁だよ。許嫁の面倒を見るのは僕の役目だから」
「……僕、無償の好意に慣れてない。僕は何も返せないから、されてばかりになっちゃう」
人との関係性で困るのはいつもこれだ。優しい人に慣れない。優しくされたときが一番対応しづらい。
「それは天が優しいからだよ。優しすぎるから他人の好意に何か返したくなるんだ。僕だったらもっとしたたかに、もらえるものはもらっておくよ」
「僕が……優しすぎる、から」
そんなこと初めて言われた。僕は愛想のないつまらないやつだからって思ってきた。
「そうだよ、天。君が優しいからあんなに遠いところからお父さんのために縁さんのところまで来られたんだ。僕ならそんな自分勝手なやつの言うことなんて聞かないし、知らないやつのところになんて行きたくないけどね」
「氷雨だって優しいよ。僕の面倒を見てくれるんでしょ」
「それは天だからだよ。君以外ならこんなに大きな好意を見せたりしない」
言われ慣れていない数多の言葉が氷雨の口から出てくる。なんだか落ち着かない。そんな空気感を変えるため、僕はその言葉に応えないまま朝食を手渡した。
「ありがとう」
感謝されるのにも慣れていなかったが、ここにきてから毎日のように氷雨が伝えてくれるから、それが当たり前になってきた。氷雨は気を使って過ごさなくても大丈夫だから、素でいられる。なくした自分が見つかりそうで少し嬉しい。
朝食を食べ終えると準備をしようと部屋に戻ろうとした。
「天、よかったらこの服で出かけてくれないかな」
「これで? うん、いいよ。これ、氷雨の着物と似てるんだね」
そう言って氷雨が手渡したのは、今日氷雨が着ている着物に似ていた。氷雨は赤い着物に襟や帯紐に黒い差し色のある柄のない簡素なもの。それに対して僕に渡されたのは、氷雨の着物に柄を足したものだった。その柄は何故か椿の黒い花だった。
「椿の花が可愛いけど、なんで僕のだけ」
「……特に意味はないよ。天に似合うから、そうしただけだよ」
この前から自分に関係する出来事について質問できるようになってきた。氷雨はそういった類の質問をされると一瞬だけ驚いて、すぐに嬉しそうにはにかむ。邪険にしないと暗に示してくれているようでほっとする。
それでも意味深長にはぐらかす姿勢は変わらないのだが。
「そうなんだね。ありがとう、氷雨」
花が咲くような満面の笑みでその言葉は迎えられた。
なんだか照れくさくなった僕は即座に氷雨の部屋を後にした。