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第四譚

 氷雨の部屋は宿泊施設のある館と対になっている、その館の一階の最奥に位置する。ここは日中の雑務をこなすための執務室であるようで、事務机には書類がたくさん積まれている。日当たりがよく、木製の家具が並ぶ執務室は温かい印象がある。


「天、悪いけどそっちの机に乗っている書類とかをこの机にのせてくれないかな。僕、今手がふさがってて」

「わかりました」


 部屋の中心にある大きな長机の上の書類を事務机の上に移動していく。私は一人で何もせずに生きてきたから腕力がない。そんなことをここで思い知らされるとは考えてもみなかった。大量にあるわけではないが疲れるものは疲れる。

 少しずつ少しずつ崩さないように、落とさないように丁寧に運んでいく。

 やっと長机が綺麗になった。


「今ふと思ったのですが、私が運んだところにその丼を置けば、氷雨も手伝えたのでは」

「あ、気づいてたんだ。いや、ごめんね。僕のためにせっせと運んでくれる天が可愛いなって思ってたんだ。手伝う気がなかったわけじゃないのだけど……」


 可愛いとはよく言われたものだが、お世辞とは言え、そこまで直球で褒められたのは珍しくて、戸惑いを隠せない。


「お世辞は結構です。早く食べないと冷めてしまうので、いただきませんか」

「あぁ、そうだね。天の料理はいつだって美味しいよ。ありがとう」


 こういうところは母と似ているように思える。人の懐に入るのが上手なところとか、にこやかなところとか。だからといって好意的かと問われると返答に困ってしまう。


「はい、天の分の箸。どうぞ」

「ありがとうございます」


 箸を受け取ると二人して合掌をする。


「いただきます」


 食事の挨拶を済ませると、お腹が空いていたのか自然と箸が進む。

 我ながら美味しい。毎日が暇だったから、よく料理は凝ったものを作っていた。だから料理の腕は十五歳にしてはいい方だろう。


「天、ここでの生活に離れたかな」

「はい、多少勝手が違うことを除けば、過ごしやすいです」

「そっか、ならよかったよ。ところで、その敬語はいつになったら外してくれるのかな」


 予想外の質問。私は敬語で話す人が周りに多かった。例外は市井の店主たちだけで、敬語ではない話し方にはどうも慣れない。そのため、錦にも言われたが使用人にも敬語で話していたのだ。


「えっと、私は敬語以外の話し方に慣れていなくて……」

「そっか、じゃあ、追々慣れていこうね」


 慣れる前提なのが氷雨らしい。会って三日目ながらも少しは氷雨の返事がわかるようになってきた。


「口調が女の子っぽいのも周りの影響なのかな」


 この口調って女の子っぽいことに今はじめて気づいた。外見は女の子みたいだと自覚はあるし、何度か間違われたという事実もある。


「はじめ外見も口調もあんまりにも女の子みたいだったから、僕の覚え間違いかと思ってたくらいだよ」


 たまに母の趣味で女物の着物を着ることもあったが、対面した日にはちゃんと男物の着物を着ていたはずだ。それでも男に見えなかったのだろうか。それほど軟弱なのだろうか。


「その、私はほとんど一人で過ごしてきたから……」

「でも、博識だよね。その知識はどこからなのかな」


 しどろもどろになる私に何故か嬉しそうな笑みを浮かべつつ、質問を続ける。


「近くの市には古書店がありましたから、暇つぶしのためにそこでいっぱい本を買って読んでたんです」

「そっか、たくさん本を読んだから、そんなに色々なことに詳しいんだね。僕としても君が博識なのは嬉しいことだよ」


 何故と問いたくなるが、今聞いたところで揶揄われるのが落ちだろう。意味深長に言うのが氷雨の十八番なのだから、そのすべてに付き合っていたらこっちが疲れる、というかどう答えたら正解なのかがわからないだけなのだが。

 だから、私は親子丼を食べる箸を進める。


「僕の目に狂いはなかったようで安心したよ」


 唐突にそんなことを抜かすが、これも無視をする。

 しばらくして、面白くなくなったのか氷雨も食べ進める。すると不意に手を止めた。


「今夜、ここにおいで。これはお願いだけど、来なかったら迎えに行くから、そのつもりで待っててね」

「わかりました。何時ごろに来ればいいのですか」


 拒否権はないも同然だ。こういう時は素直に従う外ない。現在がいい例だ。


「何時でもいいよ。今はまだ早すぎるから、日が完全に沈んだ後で、夜中でも何時でも」

「承知しました。温泉に浸かってからになると思うので、多分一時間ほど後に伺わせていただきますね。では、私はこれで」


 食べ終えたことだし、用事も済んだのだから氷雨の分の食膳も持って退散する。


「あ、ごちそうさまでした」

「はい、お粗末様でした」


 そのまま退室すると先ほどの女中の話を思い返す。氷雨が偏食とのことだったが、三日間の朝昼晩、すべてにおいて何かを残している姿は見たことがない。手を付けるのに億劫そうにしていた様子もなかったように見受けられる。

 一日目の晩は生姜焼き定食。二日目は朝から焼き鮭定食、唐揚げ定食、野菜炒め定食。三日目の朝は卵焼きとお茶漬け。昼は煮魚定食。晩は今さっき食べた親子丼だ。

 栄養面も考えているので多種多様な食品を使ったのだが、そのどれもきれいに食べていた。その上、美味しかったと言っている。女中は私よりも長く氷雨を見ているから、偏食をして料理人たちを困らせていたのは事実なのだろうが、今の氷雨にはその片鱗はない。

 こんなことを母に伝えたならば、真っ先に愛の力だと宣っただろうが、生憎様だが、ここにはその様な絵空事を言う人はいない。接点がないから好かれる理由がないのだ。これも母から言わせれば、一目惚れされたと言うに違いないのだろう。

 されど、私は自分の価値というか身の程はわきまえているつもりだ。夢を見たりはしない。

そうこうしているうちに厨房に着いたので、二人分の食器を洗う。

 その後は、ここの私有の温泉につかって、先ほどの肉体疲労を養っていた。


「……どうしたものか」


 することはやったので、氷雨との約束を果たさなければならないのだが、もうこのまま寝てしまいたい。久々に体を酷使したからか、非常に眠い。だが、このまま寝てしまうと迎えに来られてしまう。一時間後に行くと言ったのだ。もうそろそろ一時間経つだろう。しばらくしたら迎えに来ることは目に見えている。

 眠い目をこすりながら、体を動かす。氷雨の部屋に向かうために。

 氷雨の部屋と私の部屋は、間にそれぞれの寝室が二部屋あるだけである。近いのだが、元気な時にはどうってことのない距離が、今は遠く感じる。


「……眠い」


 壁伝いに一歩一歩足を動かす。眠さに負けて足が止まりかけるが、それでも前に進もうと頑張る。この三日間、今までの運動量をはるかに超えるくらい動いていた。身体もさすがに疲れている。

 眼前に氷雨の部屋の扉。押戸であるその扉を開けようとすると同時に中からも開けられたのか、手が滑ってそのまま前のめりに倒れかける。


「……わ」


 ぼふっと何かにもたれかかり、転倒は免れた。

 そのまま顔を上げるとそれは氷雨だった。


「……氷雨、ごめん、なさい。すぐに……退きま、す」


 この私の反応に何を思ったのか、急に抱きしめてきた。眠気が勝って呆然と立ちすくむだけの私。


「あ、ごめんね。……天、寝てるの」


 なんだか氷雨が何か言っている気もするけれど、今の私の耳には届かない。

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