〈 16の春 scene 1 〉勇気
※15の夏からの続きになります。
高2の春、僕と蒼は転校することになった。
出来事で言えば一行で終わるけど、それまでにいろんなことがあって、とても大変だった。
順番として僕は両親の許可を得なければならなかったのだけど、まずは兄さんに話をした。僕が医者になりたいことを伝えると、兄さんはかなり驚いていた。
「本気なの?」
「うん。でも親への反抗心とかじゃなくて、純粋にこうなりたいなって人がいてね。橘さんて、とっても優しいお医者さんだったんだ」
「…そうなんだ。その人の人柄に憧れて考え方や生き方を真似る気持ちはわかるけど、医者にならなくてもできることではあるよね」
僕もそれは考えた。わざわざ医者にならなくても、他の仕事でもできることはたくさんある。
「…正直、僕に医者が向いてるかどうかはわからない。でも、橘さんが僕たちを助けてくれたみたいに、僕も僕のやり方で誰かの助けになりたいって思ったんだ。颯爽としてなくてもオペの神様みたいにならなくてもいいから、そばにいるみんなを笑顔にできるお医者さんになりたい」
「航らしいね」
兄さんは笑って言った。
「俺はほら、もう医学部で医者になる道を進んでるじゃない。だから航がこの先を乗り越えられるのかなってちょっと心配になったんだ」
「勉強は頑張るつもりだけど…でもまずは大学に受からないと話にならないよね」
「それもそうだな。心配しすぎか」
「ううん、気持ちは嬉しいから、気が早いってだけ」
夜に兄さんから父さんに電話をかけてもらった。
「あ、翔だけど。うん、元気、航も」
僕は緊張してきた。父さんと話すのは数ヵ月ぶりだった。ひとしきり自分の近況を報告すると、兄さんは僕に携帯を渡した。受け取る手が少し震えていた。おそるおそる受話口に耳を当てると、兄さんが口だけで『頑張れ』と言っているのが見えた。
「…もしもし、航です」
声がかすれた。
「久しぶりだな。お前から話があるなんて珍しいじゃないか」
忘れかけてた父さんの声が聞こえた。
「うん、ちょっと、お願いがあって」
事前に練習した流れを必死で思い出した。僕はひとつ深呼吸すると、一気に言った。
「あの、僕、医者になろうと思ってて。それでちょっと調べたら清陵学園だったら医学部も狙えるかなって考えて、寮生活になるし編入試験もあるんだけど、やってみたいんだ。転校…して、挑戦しようと思うんだけど」
須藤先生や蒼にはあんなに強気で宣言したくせに、声と手は震えてるし、心臓はうるさいくらいドキドキしてるし、情けないったらなかった。
父さんはしばらく黙っていた。どんな言葉が返ってくるのか僕はじっと待ち構えていた。
「…本気なのか?航」
「うん。今まで何をやりたいか決まってなかったけど、ちょっときっかけがあって」
「そうか。まあ、中学生で将来決める奴もそんなにいないだろうからな」
「回り道になっちゃったけど…いいかな?」
─どっちに出るか…
二度目の長い沈黙のあとに、父さんはため息をついた。
「…わかった。やってみろ。母さんには俺から言っておくから」
「うん、ありがとう」
僕はほっとして答えた。心なしか、父さんの声は嬉しそうに聞こえた。
─そういうものかな…。今までなんにも期待されてないと思ってたけど
やり取りから結果を察知した兄さんは、ゆずをぎゅっと抱きしめて喜んでいた。ゆずは迷惑そうにニャーと鳴いた。電話を切って両手に握りしめると、僕は大きく息を吐いて床に座りこんだ。
「やったな、航!」
「ありがとう」
兄さんが自分のことのように喜んでるのがとても嬉しかった。
「あれこれ突っこまれたらどうしようかと思った」
「母さんだったらそうだろうね。だからこういう時は父さんから攻めるんだよ」
兄さんがいたずらっ子みたいに笑った。
「え、兄さんもそんな戦略立てたりするの?」
「そりゃあ、するさ。お互いにうまくやりたければ」
両親から可愛がられてきた真面目な兄さんが、僕と同じように駆け引きするなんて想像もしてなかった。そういう僕だって今までこんなこと、考えたこともなかったけど。
─もう少し自分の思ってること出しても、いいってことなのかな…?
夜の10時を回ってたけど、すぐに蒼に電話をかけた。
「頑張ったね、航」
「うん、とりあえず第一段階クリアした」
「緊張したでしょ」
電話の向こうでにやにや笑ってる蒼の顔が浮かんだ。悔しいけど見透かされてる。
「ちょっとね。蒼の方はどうだった?」
「どうもこうも。一方的に行けって言われて終わり」
「そっか…」
「でも、さすがに父さんがキレすぎて、兄さんが抑えてくれた」
蒼の声はちょっと楽しそうだった。
「へぇ…いろいろ変化があるんだね。うちも父さんがなんとなく嬉しそうにしてた。僕がそう思っただけだけど」
「嬉しいんじゃないの、実際。ところでさ、相談なんだけど。俺、そこのマンションに居候させてもらえないかな?」
「え?」
「綾さんがいないと、寂しいのはもちろんなんだけど、ストッパーがいなくなっちゃうから、お互いにすごいストレスになりそうで。兄さんもそこは譲ってくれそうだったし、生活費も出すって」
なんだか桧山家の混乱が目に浮かぶようだった。
「あー、まぁ、僕は構わないけど。うちの兄さんもダメとは言わないと思う」
「助かるよ。もちろん転校するまでの間だけだからね。何だかんだ、うちの連中はみんな綾さんに頼りっぱなしだったってことがわかったよ」
それから次に、清陵の方が偏差値が高かったので、編入試験に通らなくちゃいけなかった。僕たちはふたりとも成績は中くらいだったけど、今回は今の学校でトップの1割くらいに入るレベルが求められていた。
須藤先生は僕たちのために補習の時間を作ってくれた。相変わらず先生は、楽しそうに僕たちに付き合ってくれている。
「こっちでの定期試験の結果も評価されるって話だから、気を抜かないで頑張れよー」
「えー!」
嬉々として情報を提供する先生に、僕たちはふたりで悲鳴をあげた。
2学期の定期試験を無事に終えて、編入試験を迎えたのはクリスマスの日だった。清陵は全寮制だけど都内にある学校なので、許可さえあればいつでもすぐに帰ってこられる距離だった。冬休みになった校舎はがらんとしてだだっ広く感じた。同じ教室の離れた席でふたりでテストを受けた。
面接では型通りの質問をいくつかされただけで、もっといろいろ聞かれるかと身構えていた僕は、ちょっと拍子抜けだった。
─でも、ともかく終わった…
すべてが済んで学校を後にすると、ふたりで大きく息をついた。
「できることは、やったよね」
「うん」
「…航、ありがとう。いくら自分の夢を叶えるためとは言え、俺に付き合ってくれて」
「全然。蒼と一緒にいたいのもホントだし。それに逃げないで向き合ったことで、親との距離も少しだけど縮んだし」
予報では真冬日だった。気温は1日通して零度に届かず、真っ白な空からは今にも雪が降りだしそうだった。僕たちは白い息を吐いてならんで歩きながら駅へ向かっていた。
「僕ね、ずっと医者には憧れてたんだ」
歩きながら独り言のように言った。
「…そうなの?」
「自分には無理だって、思ってた。成績とか、向いてないかなとか」
いつも兄さんと比べたり、比べられたりの日々のなかで、僕はいつしか自信を失っていた。両親は絶えずプレッシャーをかけてきていたし、兄さんは優しかったけど、僕とは違う『勝者』だと思っていた。
でも、橘さんが教えてくれた。
『君にしかできないことだってたくさんあるはず─それを大切にしていく生き方もあるんだ』
兄さんが言うように、医者にならなくても橘さんみたいに生きていけばいい。だけど思った。僕は僕や蒼みたいに苦しんでいる、子どもたちの心を救いたい。ほかの仕事でもできるかもしれないけど、やれるところまでやってみたい。今まであきらめてた分を取り戻したい。
「あきらめるのは、まだ早いって思ってね」
「そうだよ。航は絶対いいお医者さんになれるよ」
「…うん、ありがとう」
雪がちらちら舞いはじめた。
「あ、やっぱり降ってきた」
「ホワイトクリスマスだね。男ふたりじゃ盛り上がんないけど」
ともかく試験は無事に終わった。結果が出るまではゆっくりしたいと思った。
「今日はおいしいものを食べようよ。昨日もずっと勉強だったもんね。蒼はなにがいい?」
「うーん、唐揚げ!」
「じゃあ、買い物して帰ろう」
「やったー」
蒼が無邪気な笑顔を見せた。こんなに平和なクリスマスは、久しぶりだった。