〈 15の夏 scene 7 〉月夜
夕方になって、蒼が目を覚ました。
微熱がまだあったけど顔色がよくなって、何より「お腹すいた」と言ったのが僕を安心させた。橘さんが僕たちのためにお粥を作ってくれた。
「こういう風邪なんかの時は、本当は梅干しの方が理にかなっているんだけどね」
たまごが入ったお粥は出汁がきいていてとてもおいしかった。
「料理もよく作るんですか?」
「うん。家内が三年前に亡くなってからだから、まだ大したものはできないけどね」
「…大切な人がいなくなったら、寂しいですよね」
蒼がぽつりと言った。
「そうだね、今でも時々寂しいと思う時があるよ。でも、ここは家内の生まれ育った土地でね。そのせいかあちこちにまだ彼女がいるような気がするよ」
「そんなふうに思えるのって素敵ですね」
「そうかな」
橘さんは静かに笑った。
「それに、ここには私を必要としてくれる人がたくさんいるからね。その人たちと毎日話したり、お茶を飲んだり、もちろん、診察もするけど。そうやって一緒に生きていくのが嬉しいんだ。病院に勤めていた頃にはできなかったこと、でも私が大切にしていきたいことはこれだって思うから」
『君にしかできないこと─それを大切にしていく生き方もあるんだ』
僕は橘さんのその言葉を思い出していた。
「僕、橘さんがここでお医者さんを続けたいの、わかった気がします。人は人、自分は自分、なんですね」
橘さんは、微笑んでうなずいた。
蒼の熱は次の日の朝には下がって、三日目にもなるといつもの元気が戻ってきた。僕たちは綾さんに会って、この出来事が落ち着いたら必ずまた来ることを約束して、橘さんの家を後にした。
「いつでも遊びに来てよ。待ってるから」
最後まで橘さんの優しさがありがたかった。
蒼のおばあさん─高田春子さんの家は、先日降りた駅から電車を乗り継いで30分ほど離れたところにあった。東京から比べると何もない、という場所だったけど、静かでとても落ち着くところだった。
「ばあちゃん、いるー?」
まず蒼が声をかけて玄関を開けた。奥の方で物音がしたかと思うと、ばたばたと足音がして綾さんが飛んできた。
「蒼さん!」
「綾さん、何でここにいるの?」
「おばさんに蒼さんが具合が悪いって聞いて…もう大丈夫なんですか?」
「うん、心配かけてごめんなさい」
綾さんはほっとした顔で息をついた。
「おばさん、今買い物に行ってるんです」
古い造りの家は風通しがよく、雨上がりのさわやかな風は秋を思わせた。居間は8畳ほどの和室で、家と同じくらい年季が入った卓袱台があった。
「本当にすみません。私のためにこんな遠くまで」
綾さんがお茶を用意してくれた。
「気にしないで。俺が綾さんに会いたかったんだよ。でも、もうあの家には戻ってこないんでしょ。これからどうするの?」
「それはまだ何も…蒼さんのことも心配ですし。せめて蒼さんが高校を卒業するまでは…」
「そうやってまた俺のことばっかり。綾さん、俺や母さんのために、もうこれ以上我慢なんかしないで」
蒼がきっぱりと言った。
「私は、幸恵さんに蒼さんのことを頼まれたんです。できるだけのことはしたいんです」
「それでも。自分の気持ちに正直に生きて欲しいって、俺は思うから」
綾さんは首を振った。
「…私は、このままじゃ幸恵さんに顔向けできないんです。幸恵さんを裏切るような真似を…」
「綾さん!」
蒼が叫んだ。綾さんも僕も気圧されて言葉を継げなかった。
「…お願いだから、それ以上言わないで。言葉にされたら、俺、耐えられないかもしれない。でも、自分を責めなくてもいいから。綾さんは悪くないから。だから自分のために生きてよ」
綾さんは泣き出してしまった。
「蒼さん…ごめん、なさい…」
「俺、綾さんのこと、母さんと同じくらい大切に思ってるよ。だから、いつも笑っていて欲しいんだ。俺はもう、一人でも大丈夫だよ」
「…ありがとう」
綾さんは泣きながらうなずいた。蒼も泣きそうな顔だったけど、その表情はとても穏やかだった。綾さんのすすり泣く声だけが、静かな居間に響いていた。
『守りたいものがあると、人は強くなれるんだよ』
別れ際、そう言って笑った橘さんの顔が思い浮かんだ。
その時、玄関のほうで物音がした。
「蒼?来たのかい」
「やば、ばあちゃんだ。女を泣かせたらサイテーだって言われる…綾さん、ティッシュ、ティッシュ」
「いや、この場合は大丈夫でしょ」
綾さんも、蒼の慌てぶりに涙目で微笑んでいた。
居間へ入ってきた春子さんは、小柄だけど芯がしっかりして強そうな人だなと思った。孫の元気な姿を見て安心したみたいだったけれど、憎まれ口をたたいた。
「まったくあんたは、人様に迷惑かけて。綾ちゃんを心配させてどうするんだい」
「悪かったよ。ごめんってば」
「綾ちゃんも、言ってやってよ。心配で倒れそうだったんだからね」
「はい。おばさんもですよね」
綾さんもさっきより元気になっていた。
「もうっ、あたしのことはいいんだよ」
春子さんは恥ずかしそうに台所へ引っ込んでしまった。
この日は四人で夕ごはんを食べた。
蒼はすっかり元気を取り戻していた。ことあるごとに春子さんにやり込められて、たじたじになってる蒼が新鮮でおかしくて、僕はつい笑ってしまった。綾さんも楽しそうだった。
後片付けが終わると、綾さんは帰り支度を始めた。近いから大丈夫と言っていたけど、もう暗いし心配だからと蒼が送っていくことになった。
綾さんと蒼を玄関で見送って居間へ戻ると、仏壇がおいてあるのが目に入った。
「あ…おじいさんと、幸恵さん、ですね。気づかなくて…ご挨拶してもいいですか?」
「勿論だよ、ありがとね」
黙祷している間、蒼と過ごした日々が頭の中に次々に浮かんできた。ほんの半年足らずの間なのに、もう何年も一緒にいるみたいだった。
─蒼は元気です。心配しないでください。
春子さんがお茶を淹れてくれたので、僕も席についた。
「蒼は末っ子だし、上の子たちとも年が離れてるし、昔から甘えん坊でね。あんたも世話を焼かされてるんじゃないのかい?」
「あ、まあ、そうですね…」
確かに何だかんだ世話を焼いちゃってるなあと思っていたので、ついそう言ってしまった。
「いや、でも僕は蒼といると楽しいので、全然いいんですけどっ…」
「そんならいいんだけどさ。…あの子、幸恵が死んでからはあんまり自分を出さなくなってね。なんだか可哀想になる時があるんだよ」
「…そうなんですか?蒼、よく泣いたり笑ったりしてますよ」
僕も驚いたけど、春子さんも驚いていた。しばらく僕の顔をまじまじと見ていたが、やがて
「…そうなのかい、そりゃあよかった」
泣き笑いの表情になって、何度もうなずいた。
「でも綾ちゃんのこと、母親と同じくらい大切だなんて言うから、少しは強くなったのかもね…」
「…さっきの話、聞いてたんですか?」
「いや、あの子が急に大声出したから、そこからしか聞こえてないけどね。…綾ちゃんがいなくなったら、あの子はどうするんだろうって思ったけど、あんたが蒼と一緒にいてくれるなら心配することないね」
「…僕は蒼のそばにいたいんですけど、お父さんは全寮制の学校に転校させるつもりみたいなんです…」
僕が言うと、春子さんは苦い顔をした。
「相変わらず厄介者扱いだね。あの男は、蒼をちゃんと見ないから、あの子のことを分かるわけないよ」
「でも、もし転校するなら…」
僕は考えるより先に口走っていた。
「僕も一緒に行きます」
「ええっ?何を言い出すんだい。そんなこと親御さんだって簡単には許さないだろう?」
「僕の両親も、僕のことはちゃんと見てくれない人たちです。でもだからこそ逆に、どう付き合えばいいのかわかってきた気がします」
僕が冷静に話してるので、春子さんはあっけに取られていたけれど、小さなため息をついた。
「あんたも、苦労してるんだね。そうか、だから蒼のことも…」
僕には考えてることがあった。どんなに強がっても今は親の庇護の下で生きるしかないけど、自分にしかできないこと、自分がどうしたいのかがわかってきた気がしていた。
─橘さんのおかげだな…
***
月が出ていた。
いなか道でもその光だけで歩けそうなくらいだった。俺は綾さんと肩を並べて、一応車道側を歩いていた。
「…俺の高校選んでくれたのは、綾さんだったの?」
「選んだ訳では…ただ、潤さんと麻里さんに比べたら、蒼さんは家族と過ごした期間が短いから、もう少し時間をもらえたらって思って」
「そうだったんだ…でも、俺と父さんや兄さんとはあんな感じじゃん。やっぱりあの家を出た方がいいのかなって思ってさ。一緒にいたいと思うのは綾さんだけだよ」
綾さんが急に立ち止まった。
「…綾さん?」
「…私も、蒼さんともっと一緒にいたかったですよ」
綾さんは微笑むと、何もなかったかのようにまた歩き出した。
─今の顔…泣くのを必死に堪えてるような…
「蒼さん。さっきは、ありがとう」
綾さんがいつもの口調で話し出した。
「さっきって?」
「自分のために生きてって、幸恵さんと同じくらい大切だって言ってくれて」
「…うん。それが俺の正直な気持ちだから」
「嬉しかった…」
照れくさかったので笑顔だけで答えた。綾さんも笑った。いつも寂しそうな笑顔の綾さんだけど、今日は晴れやかで、月明かりでも際立つほどだった。
─俺の気持ち、伝わったんだな…
今はそれだけでよかった。
「まあ、蒼ちゃん。大きくなって」
「ずいぶん背が伸びたんだな。もう高校生だって?」
綾さんの両親に会うのは本当に久しぶりだったから、あれこれ色々聞かれてつかまってしまった。
いつまでも小さい子ども扱いされるから、恥ずかしいけれど、会えて嬉しいと言われると俺も悪い気はしなかった。もう二人とも年はとっているけど、ともかく元気な家族がいれば綾さんのことも安心だと思った。
ばあちゃんの家も相変わらず古びていた。じいちゃんが死んでからは、ばあちゃん独りで住んでいる。口も体も達者だから、そんなに心配はしてないけど、俺も来るのは一年ぶりだ。
─ご飯、ちゃんと食べてんのかな…
人のことは言えないけど、ばあちゃんも家族に先立たれて独りぼっちだから、ちょっと気になるんだよね…
帰って来ると、航がばあちゃんとお茶を飲んでいた。ばあちゃんも、航が優しいのにすぐ気づいて、航のこと気に入ったみたいだ。
俺には素直じゃないくせに。
でもホント、航にはかなわない。気が弱そうに見えるけど、優しさの塊みたいなヤツだから、いつのまにか包まれて居心地がよくなっちゃうんだよね。
「蒼。綾さんが、橘さんのところでお手伝いするっていうのはどうかな?」
「ああ…え、でもちょっと待って、それって新しい奥さんになるってこと?」
「やっ、違うよ!綾さんは家政婦さんでしょ、あくまでお手伝いだよ。家とか、診療所のこととか」
「なんだ、びっくりしたー」
俺が慌てたのがおかしかったみたいで、航が笑った。
「蒼は綾さんのこと、ホントに大事なんだね」
橘さんの話を聞いていた時、亡くなった奥さんの話もそうだけど、人との絆をとても大切にしてるんだなと思った。こんな思いやりのある人がここでお医者さんをしてたら、みんな安心するだろうなって。
話自体もとても素敵だったけど、それ以上に航の心に響いたみたいだ。何だか背筋が伸びて、凛としていた。いつになく溌剌として話す航に、橘さんは微笑んで相槌を打っていた。
─あんな人なら、一緒になるのもいいかもね…
とにかく、これからでも遅くないから綾さんには幸せになってもらいたかった。
ま、俺らが勝手に考えてることだけど。
「俺もそれ、いいと思う。ありがとう、航」
久しぶりにふたりで笑った気がした。
そして俺たちは一週間ぶりに東京へ戻った。