〈 15の夏 scene 6 〉微睡
兄さんは徹夜の実習明けで帰ってきた。
疲れてるところに申し訳なかったけど、僕たちは事情を話すと、すぐに出発することにした。
「ちゃんと毎日連絡を入れるようにするよ」
兄さんは何も聞かなかったけど、心配じゃないわけがない。
「翔さん、ごめんなさい。迷惑かけて。何もできないのに、航に頼って、家出まがいのことに付き合わせて…でも、一人じゃどうしていいかわかんなくて…」
「いいんだよ、一番つらいのは蒼くんだろ。俺たちはできるだけのことはしてあげたいと思ってるけど、無理はしないでくれな」
「はい」
蒼が真顔でうなずいた。
「一日一回は電話して。繋がらなくても、かけたことが分かればいいから」
「うん。じゃあ、行くね」
昨日の雨は少しましにはなっていたけど、憂鬱な雨模様には変わりなかった。乗客がまばらな特急に乗り込んで、僕たちは隣り合った座席にならんで座ると、しばらく黙ったまま車窓の流れる景色を見ていた。
お腹はすいてなかったけど、朝ごはんを食べずに来たので、僕はコンビニで買ったシナモンロールとコーヒーを取り出した。蒼はずっと黙ったままで、食欲もないからと言って何も食べようとしなかった。
─そういや、昨日から何も食べてないんじゃないだろうか…
ふとそんな心配が頭をよぎったけれど、蒼は座席のリクライニングをめいっぱい倒して寄りかかると、目を閉じてしまった。
綾さんは蒼のお母さん─幸恵さんと幼なじみだそうだ。幸恵さんが桧山家に嫁ぐときに一緒に上京したらしい。
何でも綾さんの身体があまり丈夫ではないのを心配して、綾さんのご両親が行かせたのだとか。皮肉なことに幸恵さんの方が先に亡くなってしまったけど…。
ともかく幸恵さんの実家、つまり蒼のおばあさんの家に行けば綾さんのことも何か分かるはず、ということだった。
周りはだんだんと緑が多くなっていった。天気がよければとてもいい景色なんだろうけど、僕らの気持ちを表すかのように、今日はなんだかくすんで見えた。電車はときどき集落や温泉街を通り抜けていき、気がついたときには乗り換えの駅のアナウンスが流れていた。
蒼の様子がおかしいと思ったのはそのときだった。すごくだるそうで、さわるととても熱かった。
─昨日、あんなに冷えたからだ…
蒼は体に力が入らなかったが、僕は何とか立たせると抱えるようにして電車を降り、ホームのベンチに座らせた。
─どうしよう…蒼のおばあさんに電話する?でも病院に行くのが先?
ぐったりした蒼を前に思案していると、声をかけられた。
「どうしたんだ、大丈夫かい?」
顔をあげると、白髪まじりの男性が心配そうに蒼を見ていた。
「熱があるみたいで…」
男性は蒼の額に手を当てて熱を確かめた。大きくてがっしりした手だったけど、優しそうな人柄が感じられた。
「どれ。うん、ちょっと高いね…君たち二人だけかい?誰か大人の人は?」
「……」
どこからどこまで話していいのか分からず、僕は口ごもってしまった。男性はしばらく僕たちをじっと見ていたが、
「駅前に車を停めてあるから、私の家へおいで。とにかく彼をこのままにはできないよ」
「えっ、でも…」
男性は微笑んで言った。
「心配しなくて大丈夫。私は医者だよ」
橘さんの診療所は、住宅街を抜けて少し山あいに入ったところだった。ベッドが三つしかない、こぢんまりとした造りだったけど、きれいに整頓されていてとても清潔だった。
橘さんは手早く蒼を診察すると、ベッドに寝かせて点滴の準備を始めた。
「肺炎までは起こしてないと思うけど、とにかく熱が下がるまでは安静だな。食事もとってなかったようだし、ここで出来ることは限られてしまうからね」
「ホントに助かりました。ありがとうございます」
「いやいや。でもまあ、精神的なものもあるんだろうね…」
「…そうですね」
蒼は手当てをしてもらって楽になったのか、静かな寝息を立てていた。僕は蒼の額に触れながらその寝顔を見ていた。
─よかった。いい人がいてくれて
「ご家族には連絡がついたことだし、蒼くんが元気になるまでゆっくりしていくといいよ。ここには私しかいないからね、遠慮することはないよ」
「ありがとうございます。…橘さんは、ずっとここでお医者さんをしてるんですか?」
「うーん、もう三十年近くになるかなぁ」
「そんなに、ですか。病院とかにいたことは?」
「若いときはね。救急救命部でしごかれたよ」
「どうしてこっちに?」
「そうだねぇ…」
橘さんは少し言い淀んだ。
両親を見ている僕は、病院を去るという選択をした橘さんが不思議だった。もちろん、兄さんが両親のようになるとは想像もしなかったし、橘さんみたいなお医者さんも少なからずいることは、わかっていたつもりだったけど…
「私は臆病者だからね…」
意外な答えだった。
「救急搬送される人は、毎日たくさんいるんだよ。年齢、性別はもちろん、運ばれる理由もその時の状態も本当に様々だ。その人たちに今何が一番必要なのか、瞬時に判断しなければならない。知識も技術も身に付いたし、勉強にはなったけど、とにかく人の死というものが日常になっていたんだ。それは仕方のないことなんだけど、ふと気付いた時には、自分でもどうにもならないくらい疲れてしまっていてね」
「…大変、だったんですね」
「自分の力不足を嘆くとか、体力が続かないとかそんなレベルじゃなくて、人の死に馴れてしまうのが恐くてね。同僚たちはみんな自分の中で折り合いをつけて、何とかやっているように見えた。私だけが弱くて戦えないように思えていたよ」
穏やかな橘さんの顔に陰りが見えて、僕はいたたまれなくなった。なにか言ってあげたかった。
「…橘さんは、優しすぎたんですよ、きっと」
「はははっ。そう言ってくれるのはありがたいね」
「だって、僕たちのことも助けてくれたじゃないですか、訳も聞かずに親切にしてくれて」
「大袈裟だなぁ。心細いときは誰かの優しさがいつも以上に沁みるってこともあるだろう?」
─でも、それだけじゃない
「それも、ありますけど…橘さんが声をかけてくれたとき、なんて言うか僕すごくほっとしたんです。うまく説明できないんですけど…」
「わかった、わかった。ありがとう。そう思ってくれるのは素直に嬉しいよ」
橘さんは笑ってたけど、僕は自分が歯がゆくてしかたなかった。
「…僕、いつも、そうなんです」
「うん?」
「肝心なときに言葉がうまく出てこない。蒼の力になりたいのに、なんて言ってあげたらいいのかわからない。今だって蒼のこと守りたいのに、僕にはなにもできないし…」
僕は自分が情けなくて仕方なかった。あとほんの少しでもいいから強くなりたかった。
「…あのね、航くん。君はまだ高校生だろう。偉そうに言うつもりはないけど、君たちはまだまだこれからなんだよ。迷ったり、悩んだり、傷ついたり、そこから立ち上がってまた前に進んでいくんだから。今はまだそんなに落ち込んだり、自分を責めたりしなくてもいいんだよ」
橘さんは、僕を諭すように続けた。
「これから先には、それこそ歯がみしたり自分の非力さに打ちのめされたりすることも、数えきれないくらいあるだろう。そのときに立ち向かえるように、少しずつでいいから強くなればいいんだよ」
「でも、できる人はできるでしょ、そういう強さがほしいって思うんです」
僕がそう言うと、橘さんは急に真顔になった。
「航くん、人は人だよ。憧れるのはいいが、君にしかできないことだってたくさんあるはずだよ。それを大切にしていく生き方もあるんだ」
「僕にしか、できないこと?」
「そうだよ。君はさっき蒼くんを守りたいって言ってたけど、ちゃんとできてるじゃないか」
思いがけない言葉に、僕は顔をあげた。
「彼が苦しくてつらい時に、そばにいてあげている。それだって十分守ってるよ」
「それだけで…?」
「こんなに安心して彼が眠っていられるのは、君がそばにいるからだよ」
僕は蒼の寝顔をじっと見つめた。穏やかな寝息が、僕の焦りと不安を鎮めてくれるようだった。
「…そっか。気づかなかった…」
「だから大丈夫。君は君のできることをわかってるし、蒼くんを守ってあげているんだよ。それにさっき、私に言ってくれたこともとても嬉しかったよ」
橘さんの言葉のひとつひとつが、僕の心のなかにゆっくり溶けていった。胸の奥がじんわりと熱くなった。
─僕に、できること
涙で蒼の顔が滲んだ。僕は蒼の手をぎゅっと握った。
温かかった。まだ熱があるから熱いくらいだ。
─大丈夫、そばにいるよ
***
俺は手当てをしてもらってかなり楽になったが、気が緩んだせいか、眠くなってしまった。昨日もあんまり眠れてなかったのかもしれない。
航と橘さんがしばらく話をしているのが聞こえたが、だんだん二人の会話が遠くなっていった。
航は俺が眠りにつくまで、額に手を当てながら見守ってくれた。
…そう言えば昨日は俺が航の頬に手を触れていたっけ。
航の前髪が揺れていたのを思い出した。
─どうして航は、俺にこんなに優しいんだろう。
俺は航に何かしてあげられること、あるんだろうか…
昨夜はとても疲れていて、もう何も考えられなかった。ただ、どうしようもなく心細くて、航にそばにいて欲しかった。
一緒に寝るなんてまるで子ども扱いだなって思ったけど、航の隣はあったかくて心が落ち着いた。一人で置いてきぼりにされたような寂しさが、少しずつ薄れていく気がした。
明日が永遠に来なければいいのに─
このままずっと、ふたりでこうしていたいと思ったくらいだ。
─でも、綾さんに会って伝えなきゃ
綾さんは俺のことばかり考えて、いつも自分のことは後回しにする。俺だってもう15だし、いつまでも頼りっぱなしじゃ綾さんだって自由になれない。
それに、俺のためって言うなら、俺は綾さんが心から笑ってる姿が見たい。綾さんの笑顔はいつもどこか寂しそうで、大人の男性だったら守ってあげたくなるかもしれないけど、幼い頃から綾さんを見ている俺は、何にも遠慮しないで生きていって欲しいと思っていた。
─俺はもう、一人でも大丈夫だから
そう言ってあげなきゃと思った。
夢うつつでそんなことを考えていたら、誰かが手を握ってくれた。とても温かかった。
…航かな?
『大丈夫、そばにいるよ』
そう言われてる気がして、俺は安心して深い眠りに落ちた。