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September  作者: 星空
5/19

〈 15の夏 scene 5 〉夜嵐


 その日は土曜日だった。

前の日に航と映画を観に行って帰りが遅くなったこともあって、起きたのは昼近くだった。綾さんには食事はいらないと伝えてあったけど、何か軽く食べようとキッチンへ向かった。


 キッチンに入って違和感を覚えた。使い勝手は良かったけど、綾さんはそんなに几帳面ではないので、それにしてはいつもよりきれいになってるなと思ったのだ。俺も時々手伝わされていたから雰囲気はなんとなく覚えていた。

 コーヒーメーカーの(かたわ)らに、布巾(ふきん)をかけたお盆が見えた。めくってみると、パンとインスタントのスープがのせてあった。


─用意しておいてくれたんだ


お皿の下に封筒が見えた。何だろうと思って開けてみると綾さんからの手紙だった。


『蒼さん

突然のことで申し訳ありません。

私が至らないために、お暇をいただくことになりました。蒼さんが高校を卒業するまではそばにいたかったのですが、それも難しくなってしまいました。本当にごめんなさい。

私は実家に戻りますので、ご心配なく。

蒼さんが元気に過ごしてくれるのが、私の願いです。  綾』

手紙を握りしめて、俺は父さんの部屋へ向かった。


 勢いよくドアを開けると、父さんは俺に一瞥(いちべつ)をくれて、冷たく言い放った。

「何だ、いきなり」

「何だじゃないよ、綾さんに何したんだ!」

「お前が綾に迷惑をかけたんだろう?俺の言うことを聞かずにほっつき歩いて。それに綾も綾だ。俺には何の報告もせず、お前を野放しにしてたんだからな」

「俺のせいなら俺に文句言えばいいじゃないか。なんで綾さんにひどいことするんだよ」

「その方がお前は反省するだろう?」

「何…っ」

何て卑怯な奴…俺は悔しくて唇を噛んだ。

「ちょうどいい、話がある。お前、清陵学園に転校しろ。あそこは寮があるから、今までのように好き勝手なことはできないぞ。初めからそうすれば良かった。お前だけ特別扱いなんてむしろ逆効果だったんだ」

「何だよ、それ…」

「綾が、どうしてもって言うから、この家から高校に通わせることにしたんだ。お前は何か誤解していたみたいだったがな」


─綾さんが?俺のために?

そばにいてくれようとしてたってこと…?


すぐには意味がわからず、俺はパニックになっていた。父さんを黙らせたくて、言わなくてもいいことを思わず口走っていた。

「俺、見たんだ。父さんが綾さんの部屋に入っていくところ」

父さんは明らかに(ひる)んだけれど、すぐに開き直った。

「だから何だ。俺も綾も独り身なんだ。俺達の好きにするさ」

「そういう問題じゃないだろっ。いくら母さんがもういないからって、綾さんだって、本当に望んでるのかよ。父さんが、無理やり…」

「大人の話なんだよ。お前には関係ない」

「…綾さんは俺のために、いつも自分を犠牲にして、いっつも我慢して…無理して笑ってるみたいに…」

息があがってうまく喋れなくなった俺に、父さんがたたみかけた。

「何をそんなに(かば)ってるんだ。綾を守るつもりでいるのか?お前が、綾に何をしてやれるってんだ。親に頼らなきゃ生きていけない、子どものくせに」

それ以上父さんの声を聞きたくなくて、俺は部屋を飛び出すと、そのまま家を出た。行く(あて)なんてなかったけど、綾さんがいないこの家にはもういたくなかった。


 どこをどう歩いたのか、覚えていない。

なるべく人のいない、静かなところへと思っていたけど、週末のせいかどこに行っても誰かの楽しそうな声が聞こえてきた。すれ違う家族連れは皆幸せそうに見えて、俺は(みじ)めな気持ちで街を歩き続けた。

 夕方からひどい雨が降りだしたが、傘は持ってなかったし、もう濡れてもどうなってもいいと思いながら歩いていた。

気がつくと航が住んでるマンションの前だった。


 急に猛烈な感情が込み上げてきて泣きそうになり、雨の中でしばらく動けずにいた。


─俺は、航に会いたかったんだ…


覚えている暗証番号でエントランスに入ると、雨の音が少し遠くなった。静けさの中で、前髪やシャツから(しずく)がしたたっているのを感じた。階段を上ってドアの前に立つと、俺は祈るように玄関のチャイムを押した。


***


 突然、どしゃ降りの雨の音をかき消すように玄関のチャイムが鳴り響いて、一人でいた僕は飛び上がった。

「…はい」

「航、開けて」

インターホンから聞こえてきた、消え入りそうな声は蒼だった。急いでドアを開けると、びしょ濡れの蒼が立っていた。

「蒼!」

「ごめん、こんな時間に」

「どうしたの?そんなに濡れて。何があったの?」

ともかく蒼を家の中に入れて、バスタオルで髪を拭いた。まだ秋と言うには暑い日々が続いていた。なのに、芯まで冷えきった蒼の頬は氷みたいで、とても生きているようには思えないほどだった。


─いったいどれだけ雨の中にいたんだ…


「これじゃダメだ。蒼、お風呂沸かすから入って。このままじゃ風邪ひいちゃう」

蒼は言われるまま、おとなしく僕についてきた。ひとことも喋らなかった。着替えと新しいタオルを用意して、蒼を浴室に押しやった。

 一人になると僕は大きく息をついて、蒼のために紅茶を淹れようと思った。こんな時間だからコーヒーよりいいかと思ったけど、ハーブの香りで落ち着きたかったのは僕のほうだったのかもしれない。


─どうしよう…あんな切羽詰まった蒼は見たことがない


ゆずが静かに足元に寄ってきていた。いつもの蒼じゃないと、ゆずも感じているようだった。僕はゆずの頭をなでてから、気持ちを(しず)めるために自分の紅茶をひとくち飲んだ。


「綾さんが追い出されたんだ」

 体があたたまったせいか、少し生気が戻ってきた蒼を見てほっとしたのもつかの間、また気持ちが凍りついてしまいそうな話だった。蒼の目元に泣いたあとが見えて、僕はやるせなくなってしまった。

「俺がしょっちゅう外出してたのを、綾さんが父さんに黙ってたことが気に入らなかったらしい」

「そんなの、綾さんのせいじゃな…」

「言いがかりなんだよ、理由は何でもいいんだ。俺たちを自分の思いどおりにしたいだけなんだよ、あいつは!」

僕の言葉を遮るように蒼が吐き捨てた。

目の前にいるのは、いつもの蒼じゃなかった。

何もかも壊してしまいたい衝動が抑えられず、行き場をなくした寂しさが蒼の中で悲鳴をあげているようだった。

「おまけに全寮制のとこに転校しろって…」

「そんな乱暴な…綾さんは?」

「実家に戻るから心配するなって…今朝早くに、出ていったらしくて……」


『蒼さんのこと、よろしくお願いいたします』


 一度しか会ったことはないけど、蒼のことを大切に思ってくれてるのがわかる、彼女の優しい笑顔を思い出した。そんな大事なものを奪われて、もがいてる蒼の気持ちを想像するとやりきれなかった。

「…綾さんがいなくなったら、あの家に俺がいる意味なんてもうないだろ…」

絞り出すように呟くと蒼は片手で顔を覆った。その細い指先が震えていた。


「俺、綾さんのとこへ行く」

顔をあげると、蒼は僕に取りすがるように言った。

「お願い、航。一緒に来てよ。綾さんもいなくなってそのうえ転校なんて、航と離れるなんて嫌だよ!」

「ちょっ、ちょっと待って。急に言われても…いや、行くのはかまわないけど、もう遅いしこんな雨だし、せめて明日の朝とか…」

 そのとき、ゆずが鳴いた。

ゆずはいつもと雰囲気が違うと感じたのか、蒼をずっと遠巻きに見ていた。でも、蒼が伸ばした人差し指に鼻を近づけると、匂いを嗅いでから蒼の膝の上に乗ってきた。蒼が頭をなでてやると、今度は頬をすり寄せた。

「…何でわかるんだ?俺がどうしようもなくへこんでるって」

それまで険しい顔だった蒼は、ふっと笑みを浮かべると膝の上のゆずの背中に顔を(うず)めた。小さな温もりが蒼を何とか繋ぎ止めてくれているようだった。

「…航を困らせたい訳じゃないんだ。いきなり来たのに、ごめん。でも俺、どうしていいかわかんなくて…」

「…不安なときは、僕だってそうなると思うよ。蒼も今日は疲れたでしょ。明日一緒に行ってあげるから、それまでゆっくり休んで、ね?」

「ありがとう」

蒼がやっと笑顔を見せた。



 少し落ち着いたとは言え、こんな状態の蒼を一人にするわけにはいかなかったので、今晩はうちに泊めることにした。

「一緒に寝るなんて、修学旅行みたいだね」

「蒼はベッドじゃなくていいの?」

「うん、大丈夫」

 それぞれの布団に入って電気を消しても、すぐには眠れなかった。しばらくとりとめのない話をしていたが、僕はいつの間にかうとうとしていたらしい。


 ふと、何か頬に触れた気がして目を開けると、すぐ目の前に蒼の顔があった。僕の頬に手をあてて、僕の顔をじっとのぞきこんでいた。

「蒼…?」

 蒼は指先で僕の髪を(もてあそ)んでいるだけで、黙ったままだった。でもなんだか今にも泣き出しそうな()だった。

「眠れないの?」

「…俺、父さんと綾さんのこと…まだ受け止めきれない。だけど綾さんを、嫌いになんかなれないし…」

「綾さんが心配なんでしょ?」

蒼がうなずいた。

「心配だし、会いたい。甘えてばっかりだったけど…俺だって、綾さんを守ってあげたい」

「今はそれが答えでいいんじゃないの」

「…うん、そうだね」

少しほっとした声で蒼が言って、ベッドの枕元に顎を乗せてきた。それでも蒼の顔を見ると、まだ心許(こころもと)ない気がした。

「…航、そばにいて」

「ん…」


─どうしたら、蒼は笑ってくれるだろう…


とっさに言葉が出てこなかったので、僕も手を伸ばして蒼の頬に触れた。

「…一緒に、寝よっか?」

たぶん、寝ぼけてた、と思う。じゃなきゃ…

「おいでよ」

「うん」

無邪気な笑顔を見せて、蒼は僕の隣にもぐり込んできた。

「あったかい」

「蒼もね」

蒼はやさしく、でもしっかりと僕の腕をつかんだ。大切な宝物を、もう二度と手離さないようにする子どもみたいに。僕はその手の上に、自分のもう片方の手を重ねた。

「安心、する」

蒼はまた微笑んでから目を閉じた。

「…ベッドから落ちないでよ」

「ふふっ」


 蒼が少しでも笑ってくれたらよかった。蒼を悲しませるものから蒼を守ってあげたかった。

でも、まだ15の僕にできることって何?

蒼に何をしてあげられるんだろう?

明日が永遠に来なければいいのに─

情けないけど、せめてそう願うだけだ。このままずっと、ふたりでこうしていたいと思った。

 誰かの温もりがこんなに心地いいなんて、蒼を抱きしめたあの時まで僕は知らなかった。蒼の髪からは(かす)かにシャンプーの香りがしていて、それに身を(ゆだ)ねるように僕も目を閉じた。



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