〈 15の夏 scene 4 〉光彩
「イルカ?」
「男ふたりでっていうのもなんだけど、よかったら見に行こうよ」
「へえ、水族館なんて久しぶり」
あれから蒼は少しは元気になって、学校にも来ているものの、ちょっと僕が席を外して戻ってくると、心ここにあらずの表情でいたりする。時間がかかることなのかもしれないけど、蒼が元気がないとなんだか僕まで気が滅入ってしまう。
「今日だったら授業早く終わるし、平日だからすいてるかもね」
蒼は乗り気みたいだ。
─よかった。これで元気になれるといいけど
でも本当はイルカを見ると元気になる、のではなく癒されるんだ。あくまで僕の場合は、だけど。いつからだったか僕は、イルカたちを見るとなぜかほっとして、泣きたくなる衝動に駆られるようになった。
兄さんに聞いたことがある。
イルカや馬と触れ合うと、気持ちが落ち着いたり病気の症状がやわらいだりすることがあるって。
もっと身近なところだと、犬や猫でも同じことが言えるみたいだ。
確かにゆずにも癒されることがあるけど。
ただ、アニマルセラピーと呼ばれるものは、例えばイルカならビーチでとか、もう少し動物にとってもリラックスした環境で行われるものらしく、水族館の限られたスペースにいるイルカたちの癒しの効果が、どれほどなのかはわからないけど…。
単純にきれいなものに感動しているのかもしれない。でも、心が洗われたようになるのは確かだった。
それを蒼に伝えると
「え、何でイルカで泣けるの?」
「や、わかんないんだけど…癒されるんだよね」
「ふーん」
蒼は不思議そうな顔をした。
─やっぱり変かな。僕だけなのかな…
ちょっと寂しかった。でも笑われないだけよかったのかも。
水族館は思った通りすいていた。
ショーが始まるまで、僕たちはいちばん後ろの席に座って、すぐ隣に見える海を眺めていた。よく晴れて雲ひとつなかったので、水平線の彼方まで見渡せるのが気持ちよかった。
それだけでも蒼の心が休まる気がした。
イルカたちが『見せるために』ではなく、ただただトレーナーの指示に従って、全力で泳ぎ、飛び跳ねる姿はそれだけでも健気だと思った。
彼らは水中で体をぐんぐん波打たせるようにして進み、力いっぱいジャンプして水しぶきをあげ、尾びれを翻した。いちばん高い位置に吊るされたボールをその尾びれで跳ね上げると、周りが一斉にどよめいて拍手を送った。
イルカはそのまま銀色の弾丸みたいに、水面を突き抜けて深く潜っていった。さざ波が立ち、水しぶきが太陽に反射して煌めくと虹が見えた。
夏の陽射しの中で、軽い目眩を覚えながら目を閉じると、今見たものが残像となって脳裏を駆けめぐっていった。
─きれいだな…
初めはただそう思っていた。
だけど、彼らを目で追っているうちに、まるで海の中にイルカと一緒にいるような感覚に陥っていた。
僕たちは人間だから、イルカと同じ速さではとても泳げない。それを彼らはちゃんとわかっていて、背びれに僕らをつかまらせてくれたんだ。
僕たちがしがみつくと、それが合図かのようにイルカは少しスピードを上げた。でもちっとも苦しくなかった。心地いい速度で自由に水中を泳いでいるようだった。
あたかも僕らの気持ちがわかっているかのように、寄り添ってくれた。心の中に抱えている寂しさを見つけて、手を差しのべてくれたんだ。
広い海で自由に泳いでいた彼らには、現状に不満や葛藤もあるだろうに、なぜそんなに純粋でいられるのか、そんなに幸せそうなのか知りたかった。
僕たちだけのために跳んでるわけじゃないのに、なぜ心のなかがわかるのか不思議でならなかった。
久しぶりだったので、自分がどう感じるのか予想できなかったけど、ショーの終盤にさしかかったところで、ふいにぐっと来てしまった。言葉にならない感情がうねりのように何度も押し寄せて、止まらなくなった。堪えたけど、涙が頬を伝っていったのがわかった。
「ごめん、やっぱり泣いちゃった…」
僕は急いで涙を拭くと、照れ隠しでわざと明るく言って、隣にいる蒼の方を向いた─
蒼の目から涙があふれていた。
イルカたちが尾びれを揺らして、さよならの挨拶をしているのをずっと見つめたまま、涙を拭おうともしなかった。
あまりにもその横顔が綺麗で、僕はしばらく蒼の涙から目が離せなかった。
それからそっと手を伸ばして指先でそれを拭った。
蒼が僕を見た。
「蒼、なんで、泣いてるの…?」
「…わ、かんな…い」
蒼はようやく自分でも涙を拭いた。
「だけど、初めて航と会った時のこと、思い出した」
「…僕と?」
僕の不思議そうな顔を見て、蒼がにこっと笑った。
「うん。でもきっと俺、いま航と同じものを感じてるよ」
僕も笑ってうなずいた。
言葉では説明できないけれど、もともと全てのことがそうできるわけじゃない。ましてや僕らはまだ子どもみたいなもの。悔しくなるくらい知らないことばっかりだ。
たとえ言葉にならなくても、蒼が今、僕と同じ気持ちでいることが、同じものを見て同じように感じていると言ってくれたことがとても嬉しかった。
そして、何かから解放されたように心が軽くなったのがわかった。
「蒼って、泣き虫だね。こないだもだし」
「し、しょうがないじゃん、航が優しすぎるんだよ」
「何それ…僕のせい?」
「だいたい航だって、今、泣いてたじゃん」
「…泣けるって言ったでしょ」
「えー、ずるいー」
恥ずかしくて先に歩きだした僕の背中を、蒼の声が追いかけてきた。
「航!」
振り向くと、蒼の笑顔が見えた。
「ありがとう!俺、すっごい癒された!」
─最高の顔するなぁ…
夏空のせいだけじゃなく、きらきらしていた。
夏のあいだ、蒼はいつも楽しそうに過ごしていた。
ふたりで塾の夏期講習に参加したり、課題を一緒に仕上げたり、時にはあちこち出かけたりした。蒼の行ったことのない場所はたくさんあったので、僕は片っ端から蒼を連れ出した。
プールで泳いだり、夏祭りを見に行ったり、電車に乗ってちょっと遠い美術館にも行った。
8月最後の日曜日には、武道館にライブを聴きに行った。門限ギリギリだったけど、蒼はいつになくハイテンションで、帰りの電車でもライブの余韻に浸りながら、ギターのフレーズを繰り返し口ずさんでいた。
こんなに濃密で色鮮やかな夏休みは初めてだった。
想い出が増える度に夏の終わりを想像して寂しくなったけど、同時に次の夏のことを考えたりもした。
「夏休み、楽しかったー!でも、あんまり遠出できなかったね。今年は俺に付き合ってくれたから、来年は航が好きなことができたらいいね。海とか星を見に行ったりしようよ」
そう言って蒼が笑うから、だいぶ元気になったなと思っていたんだけど…
あの日までは。