〈 15の夏 scene 3 〉予感
梅雨はまだ明けていなかったが、夏は確実に近づいて来ていた。
その夜はなかなか寝付けなくて一度トイレに行った。広い割に人けがない家なので、真夜中はいつにも増してしんと静まりかえっていた。
自分の部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、ドアの軋む音がした。綾さんの部屋の方からだった。
彼女が出てくるのかと思っていたが、そうではなく、誰かが部屋へ入って行くところだった─
父さんだった。
ドアが閉まると、また物音が消えた。俺はしばらく動けなかった。心臓がドクンと一度大きくゆっくり打ってから、バクバクと信じられない速さで鳴り出した。胸をわし掴みにされたみたいに苦しかった。
早く。行かなきゃ。
静けさが戻った部屋から、また別の物音が聞こえてくる前に─
こめかみに自分の鼓動を感じながら、俺は逃げるように自分の部屋へ向かった。ベッドにもぐり込むと、かぶった毛布の端を固く握りしめた。
─いつから…?なんで?
その疑問が頭から離れなかった。
いくら俺が15の子どもだとは言え、この状況が何を意味しているのかくらいはわかっていた。
─別に大人同士の話だし、綾さんも女ってこと…
でも一方で、いつも俺のことを真っ先に考えてくれる綾さんが、遠くへ行ってしまって自分だけが取り残されたような気にもなっていた。綾さんは、この家でたった一人の俺の味方だったから。
ただ、それが子どもじみた感傷にとどまらず、かなりのショックを受けていることに自分でも茫然としていた。
─何で、こんなに苦しいんだろう…
いくら考えないようにしようと思っていても駄目だった。真っ黒な感情が後から後から湧き出して、俺の体に絡みついてきた。
眠れるわけが、なかった。
翌朝、綾さんの顔を見る勇気がなかったので、寝不足のままいつもより早く家を出た。学校に行って誰かと顔を合わせるのも嫌だったが、無性に航に会いたかった。
でもやっぱり教室に入る気にはなれず、気がつくと屋上にいた。肌寒い日で、時折冷たい風が吹いていた。俺は手すりにもたれて、うわの空で遠くを眺めていた。
***
登校すると、蒼はまだ来ていなかった。
─いつも僕より早いのに。昨日は元気だったけど、急に具合でも悪くなったのかな…
HRが始まっても、蒼は姿を見せなかった。
「渡部、何か聞いてるか?」
須藤先生に聞かれたけど、僕は「いえ…何も」としか言えなかった。
携帯にも着信はなかった。
気もそぞろに窓の外に目を向けた─
校舎の屋上に見慣れた蒼の姿があった。
─あんなとこで、何やって…
早く蒼のところに行きたくて、僕はHRが終わるのをじりじりしながら待った。僕はなるべく平静をよそおって教室から出ると、はやる気持ちを抑えて廊下を歩いていった。
人けがなくなると階段を駆け上がり、そして屋上へ続く重いドアを開けた。ちょうど始業のチャイムが鳴ったところだった。
「蒼」
僕が声をかけると蒼は驚いてこっちを見たが、すぐに笑顔を見せた。
「どうしたの?いないから心配したよ」
「…休もうかと、思ったんだけど」
「どっか悪いの?」
蒼は首を横に振った。
「誰にも会いたくなくて…でも、家にもいたくないし…」
さっきの笑顔はもうなかった。
近くで見ると蒼はひどく憔悴していたし、僕と目を合わせようともしなかった。
「…あ、もしかして、僕にも会いたくなかった…?」
僕がおそるおそる訊ねると、蒼は急にはっとして顔をあげた。
「違っ、そうじゃ、なくて…」
僕の肩をすがるようにつかんで、蒼はまたうなだれてしまった。
もう夏だというのに、肌寒い日だった。時々吹いてくる風もこの季節にしては冷たかった。
「…ここ、教室から見えるし、寒いからあの陰に行こう」
蒼の背中に手を当てて促すと、僕たちはドアの前に隠れるように身を寄せた。
「僕の席から、蒼が見えたよ」
「…ホント?」
「まるで見つけてほしいみたいだった」
「……」
「俺はここにいるって、呼んでたでしょ」
僕がわざと軽口をたたくと、蒼は弱々しく笑った。その今にも崩れ落ちそうな姿に、僕の胸は締めつけられた。
「めちゃくちゃだな、俺。…でも、航には見つけて欲しかったのかも…」
「…そっか。なら、よかった」
そして、ふたりとも黙ってしまった。また冷たい風の音だけが聞こえてきた。
「昨日の夜、父さんが、綾さんの部屋に入ってくのを見たんだ…」
唐突に蒼が話しはじめたのと、その内容がすぐに理解できなかったのとで、僕は声を出せないでいた。
─それって、どういう、意味…
「母さんは、とっくの昔に死んじゃってるし、そんなことが、あったって、おかしくは、ないけど…」
蒼は言葉に迷いながら、自分に言い聞かせるようにゆっくりと話した。
「だからいいって、訳じゃなくて。…綾さんがそれでいいなら、俺は何も言えないけど…」
「…だけど、それは、綾さんが…望んでることなのかな」
やっとのことで僕は言った。
「俺も、そう思う…でも、何でだよ。我慢なんか、しなくても、いいじゃん…」
前髪をぐしゃっとつかんだ蒼の、声が震えて細くなっていった。
─拒んだら追い出されるから?蒼のそばにいるために?
─それとも、綾さんは…
何を言っても蒼を傷つけてしまいそうで、僕はどうしていいかわからなかった。でもこのまま放っておけなかった。
「ごめ…、こんな、話…」
うつむいて、たぶん涙を見せないようにしている蒼の腕を思わずつかむと、僕は蒼をぎゅっと抱きしめた。僕の手が触れた瞬間、蒼の体が僅かに動いたけれど、振りほどいたりはしなかった。蒼の肩は細くて、そんなに広くない僕の腕の中に入ってしまうくらいだった。
「…こ、う」
囁きよりも小さな声で、蒼が僕の名前を呼んだ。
僕は腕に少しだけ力を込めて、蒼の頭を抱き寄せた。蒼を支えてあげたくて、その気持ちだけでも伝えたかった。
蒼は僕にしがみついて、子どものように声をあげて泣いていた。
しばらく二人とも身じろぎしなかったけれど、やがて蒼が手を伸ばして、僕の上着をぎゅっと握った。蒼の掌からあたたかいものが僕のなかに流れ込んできた。
蒼を抱きしめているつもりが、反対に僕が包まれているようだった。自分のなかの寂しくて満たされない部分を、蒼がまるで隙間を埋めるように。ゆっくりとだけど確かに。
このままずっと蒼の体温を感じていたいと思ったのは、寒さのせいだけではなかった気がする。
その日の午後、蒼は僕の家で過ごした。
門限ギリギリまでいて、あとは自分の家に帰って寝るだけだったら、綾さんと顔を合わせることもないだろうってふたりで考えたから。
ゆずと遊んで、夕ごはんもいつもよりは少なかったけど、食べられた。食後にコーヒーを飲んでいた蒼は、決心したように立ち上がった。
「航、今日は本当にありがとう。たぶんもう大丈夫だと思う」
「よかった。無理はしないでね」
「うん、でも今なら帰れそうな気がする」
「わかった。駅まで送るよ」
駅までの10分間、僕たちは無言で歩いた。
あの屋上で、言葉にならない蒼の心の声を聞いた。
それを慰めてあげられるほどの気のきいた台詞は、僕にはひとつも出てこなかった。ただ蒼のペースに合わせて隣を歩くだけだった。
改札口が見えてくると、蒼は僕のほうを見て言った。
「じゃあ、ここで。ありがとね」
「うん、また明日ね」
二、三歩行きかけて、蒼が足を止めた。
「…今日、俺のとこに、航が来てくれて嬉しかった。すごい、安心した」
「あ、ごめん、僕もどうしていいかわかんなくて…」
蒼は僕に背中を向けていたが、振り向きざまに僕を抱きしめてきた。ぎゅっと包まれた感覚があって、耳元で何か囁いた…と思うと、パッと僕の体を離して、蒼は改札口へと向かっていった。
『ありがとう』
耳の奥に蒼の声が残っていた。
***
駆け込んだ電車のシートに座ると、俺は息を整えた。
一日中ずっと、夢の中にいるようで現実味がなかった。何か嫌なことがあると俺はいつもそうだ。
たぶん逃げているんだと思う。そうしないと、自分を保てないから…
でもひとつだけ確かな感覚が残っていた。
俺は窓辺にもたれ、目を閉じてあの屋上でのことを思い出していた─
航が自分の気持ちや意見を、なかなか言葉にできない気質なのはわかっていた。ただ聞いてくれればいいと思っていたけど、やっぱりこの話は重かったかな、と後悔しはじめた時…
航に腕を掴まれた、と思うとぎゅっと抱きしめられた。少しだけびっくりしたけど、それはすぐに安堵に変わり、張りつめていたものが緩んで身体中の力が抜けてしまった。
『…こ、う』
名前を呼んだけど、声にはならなかった。
でも航はまるで俺の声が聞こえたかのように、何も言わず腕に少しだけ力を込めてきた。
涙があふれてきて、航にしがみついた。
航の優しい腕の中で、俺は声をあげて泣いた─
どれだけの間、そうしていたんだろう。
航が自分にできることを、俺にしてくれたのがわかった。言葉で伝える代わりに、受け止めて支えてくれたことがとても嬉しかった。その気持ちを伝えたくて、俺も航を抱きしめた。
『…俺さ』
俺の方が先に口を開いた。鼻声になっていた。
『航のこと、好きだよ』
『え…』
『いや、好きだけど。…ふふっ』
何だか女の子みたいだなと思ったら、恥ずかしいのと可笑しいのとがこみ上げてきた。
『これは、告白じゃ、ないからね』
『…知ってるってば』
顔を見合わせて、今度はふたりで笑った。
俺は頭と泣き腫らした目を、もう少し冷やしたかったので、航に先に教室へ戻ってもらった。
半袖のシャツ一枚の俺に、航は自分の上着をかけてくれた。俺より9センチ背の高い航のジャケットは、少し袖が長くてぶかぶかだったけど、いつもと同じ航のにおいがしてほっとした。
あんなに手放しで自分をさらけ出したのも、心の底から安心したのも初めてだった。あのままずっと、航の体温を感じていたいと思ったのは、寒さのせいだけではなかった気がする。
借りたジャケットがそうさせたのか、自分の体にはまだ航の腕の感触が残っていて、得体の知れないあの不安な気持ちがやわらいでいくのがわかった。
─ありがとう…
あと少しだけ、目を閉じたままでいたかった。