〈 15の夏 scene 2 〉兄弟
「航、今日時間ある?」
ある日、蒼に誘われた。
「うん、なんで?」
「行きたいとこがあって。ちょっと付き合って」
それまでお昼を一緒に食べたり、図書館で本を探したりノートを写しあったりしたことはあったけど、学校の外で過ごすのは初めてだった。
─本屋かな。こないだ気になる本があるって言ってたし…。
どこに行くかというよりも放課後も蒼と一緒にいられるのが楽しみだった。でも…。
「え、ここ…?」
「いや、俺、行ったことなくて…」
蒼がめずらしく照れくさそうに笑うから、僕は面食らってしまった。
「初カフェ…ねぇ」
「航と来たかったんだ」
陽当たりのいい席に座って、蒼は初めてのカフェラテを嬉しそうに飲んでいた。
「あっつっっ!ねぇ航、これ、ふた取ってもいいのー?」
「いいんじゃないの、ダッサイけど」
「何それー、もう無理なんだけどー」
猫舌の蒼が悪戦苦闘してるのがおかしくて、僕はなんだかとても優しい気持ちになった。
─蒼なんて友達もたくさんできそうだし、こういうところで誰かと過ごしてもおかしくないと思うんだけどな…
蒼はやっと冷めたカフェラテのカップを、両手でかかえながら話しだした。
「中学はバスケ部だったんだけど、めっちゃ厳しくてさ」
「永山二中かぁ…。帰宅部の僕ですら聞いたことあるって、またすごいとこだね。しかもスタメン」
「まあね。でもさ、ずっと部活一色だったのに、膝を大ケガしてしばらく休んだら、シュートが入らなくなっちゃって。あの時は折れたよ。だけど、部活やめて羽を伸ばそうと思ったら、今度は受験のための塾に行かされちゃってさ」
蒼は不満そうにぶちまけた。
「何でも父さんのスケジュール通り。窮屈だよね、監視されてるみたい」
蒼の家の話は初めて聞いた。というよりお互いになんとなく避けてるところがあった。
「…そうなんだ。それで高校生になったから、今度こそ羽を伸ばすって?」
「航もでしょ」
蒼は肩をすくめていたずらっぽく笑った。
そうか、蒼を初めて見た時に、同じ匂いがすると感じたのは…
「…僕はこの春から、兄さんと2人で暮らしてる」
「そうなの?親は?」
「元気だけど、僕とは合わなくて…」
「お兄さんは味方なんだね」
僕はうなずいた。兄さんは僕に優しくて信頼してくれてるけど、僕と両親との距離は微妙だった。
僕の両親は二人とも医師で、病院ではそれなりの地位に就いている。ご多分に漏れず、子どもたちには過度なプレッシャーがかかっている。うちの場合、申し分ないくらい兄さんが優秀で、医学部の4年生だ。
─そして僕は…
『航。ちゃんと勉強してるの?』
『お兄ちゃんはもっと頑張ってたわよ』
カフェのざわめきが遠くなり、母さんの声が頭の中に響いてくる。
『あの高校のレベルじゃ医学部は無理でしょう。どうするつもり?』
『お兄ちゃんに恥かかせないでね』
父さんの声もする。
『航、もっとハッキリしろ。自分の意見はないのか』
『やる気がないやつに、何を言っても無駄だな』
『翔の邪魔だけはするなよ』
─渡部家の、落ちこぼれ…
「…航?」
蒼の声で我に返り、周りの音が戻ってきた。
「大丈夫?なんかコワイ顔になってたよ」
「あ…うん。ごめん」
「…親がすごいとって言うか、その親に気に入られないと子どもはしんどいよね」
「うん、まあ、ね…」
「ねぇ、お兄さんってどんな人?」
蒼は殊更に明るく聞いてきた。
「うーん、僕とは正反対かなぁ…明るくて社交的で、器用で何でもできて。優しいしモテるし」
「正反対?そんなことないでしょ」
─兄さんに会ったら、きっとみんな思うんだよ
そう、何かと兄さんと比較されることに慣れてた僕はちょっと意地悪く考えていた。だから…
「航だってすごく優しいよ。一緒にいたらわかる」
ドキッとした。
いつも隣にいる蒼が、そんなふうに言ってくれたのは素直に嬉しかった。と同時に、ひねくれてた自分が恥ずかしくなった。
「比べること、ないのに。航は航だよ」
「…ありがと」
やっとのことで言うと、蒼はくしゃっと笑った。
「…蒼は、兄弟いるの?」
「兄さんと姉さんが1人ずつ。だけど母さんが死んでから、あの家に俺の居場所はないんだよね。綾さんがよくしてくれるから、まだいられるけど」
「綾さん?」
「家政婦さん。俺が生まれる前からずっといる人。
…でも、綾さんがいなくなったら、俺はどうなるんだろう…」
さっき見た笑顔が消えていて、僕は急に寂しくなって思わず言った。
「あのさ、よかったらうちに来る?」
「え?」
「兄さんも蒼に会いたがってたし」
「いいの?ホントに?」
蒼の顔がたちまち輝いて、僕はほっとした。
「もちろん。ただし、今日は僕が食事当番だから、買い物付き合ってね」
「行く行くー!」
蒼は小さな子どもみたいにはしゃいだ。
***
俺のリクエストで、航がその日は豚肉のしょうが焼きを作ってくれることになった。
「えっ、しょうが焼きってはちみつが入るの?」
「うん、砂糖よりもおいしくなるよ。テレビで言ってたの真似しただけだけど」
「へぇ、すごいな。料理研究家みたい」
「そんな大げさな。でも作るのも食べるのも好きだからね、僕も兄さんも」
「綾さんも料理が上手なんだ。ケーキとかも焼いてくれるし、だからカフェいらずだった」
「ああ、そういうこと」
買い物袋を下げてふたりでマンションに帰り、ドアを開けると猫の鳴き声がした。
「この子がゆず?」
「うん。ゆず、蒼だよ」
ゆずはまた鳴いた。航が軽くゆずの頭を撫でた。
とても人懐っこいみたいで、航のすぐ後ろに見える俺のことも全然恐がってないようだった。
─猫も結構、人を見るからな…
ゆずは本当に物怖じしない性格で、俺がおもちゃで気を引くと夢中で食らいついてきた。
猫は好きだけど飼ったことがないので、初めはちょっと戸惑っていたが、ヒートアップした後に一度引いてみたら催促されたので、なんとなくコツがつかめた気がした。緩急つけてちょっかいを出してみると、面白いくらい反応してくれて、ずっと見てても飽きなかった。
─あーあ、これじゃどっちが遊んでもらってるのか、わかんないな…
ごはんができあがった時、ちょうどお兄さんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「こんばんは。おじゃましてます」
「お、もしかして蒼くん?」
俺の顔を見ると、お兄さんは楽しそうに聞いた。
「うん。ご飯一緒にと思って」
「いいね。いつも航が仲良くしてもらってるみたいで、ありがとう。兄の翔です、よろしくね」
「こちらこそ。会えて嬉しいです」
航に似て、優しそうな人だなと思った。両親とはうまく行かなくても、航が優しいのはこの人がいたからなんだろうと、ちょっと羨ましくなった。
しょうが焼きはおいしかった。男3人分だったからかすごい量を作ってくれたけど、結局皆で全部食べてしまった。俺は久しぶりによく笑い、よく話した。
夕食がすむと、翔さんがオセロに誘ってくれた。
最近はスマホでもゲームができるのに、レトロだなあと思ったけど、兄弟と遊んだ記憶のない俺にはとても新鮮で嬉しかった。
─でも、今どきオセロでそんなに盛り上がる…?
俺が角を取ると、翔さんは本気で悔しがったし、逆に縦も横も斜めも俺の石をひっくり返すと、子どもみたいに歓声をあげた。
初めは遠慮がちだった俺もだんだん本気モードになり、対戦を重ねるうちにかなり白熱してしまった。
「あっ、翔さん、やっぱ今のナシ!」
「ダメ。手遅れ」
「えー!」
コーヒーを淹れていた航は、湯気の立つキッチンの向こうから、俺たち二人の異常な盛り上がりを時々眺めては苦笑していた。
だけど、兄弟の優しさにあふれているこの部屋はとても居心地がよくて、このまま今日が終わらなければいいのにとさえ思わせた。
ここでなら、ずっと笑っていられそうだった。
その日以来、時々俺は航の家に行くようになった。外出が制限されてるので、たいていは塾のあと、自習するというのを口実にして行くことにしていた。
夕食の準備を断ったり裏口を開けてもらったり、綾さんには迷惑だったかもしれない。でも綾さんも、俺が楽しんでいることがわかっていたみたいで、門限に関しては何も言わないでおいてくれた。
一度急に雨が降りだして、翔さんに車で家の前まで送ってもらったことがある。綾さんに裏口を開けてもらうために、俺は携帯から電話をかけた。程なくして通用門が開くと、綾さんが傘を持ってやって来て、車に向かって軽く会釈をした。
俺は車から降りて、受け取った傘を差した。
「ありがと、綾さん」
「旦那様はまだお戻りになられてません。今のうちに…」
「あはは、わかった。じゃ、航、また明日ね。翔さん、ありがとうございました」
「おやすみ」
俺が先に門をくぐった。綾さんはすぐ後に続くかと思っていたが、踵を返すと航の方に向かって行った。
─綾さんは綺麗だからな。航が緊張してる
ちょっと焦ってる航を笑って見ていたが、綾さんがまるで母親のように俺のことを話しているのが聞こえてきた。
「蒼さんのこと、よろしくお願いいたします。航さんのことはとても信頼しているようで、私にもよく話してくれるんですよ」
─まあ、今となっては母親みたいなもんだけどね…
少しだけ恥ずかしかったけど、悪い気はしなかった。