〈 15の夏 scene 1 〉呼応
僕と蒼が初めて会ったのは高1の春だった。
蒼は隣の席だったけど、入学式以来4月は一度も登校してこなかった。僕の席は窓際のいちばん後ろだったから、右隣がずっとあいてると、なんとなく他の人と話す機会がつかめないでいた。そしてもともと人見知りな性格だったこともあって、4月の半ばにはすっかり一人でいるのがあたりまえになってしまった。
─まあ、昔からずっとそうだしね…
小学生の頃から僕は、休み時間はひとりで本を読んだり、窓からの景色をぼんやり見たりして過ごしていた。寂しくないと言えば嘘になるけど、そうやって過ごす時間も好きだった。何かきっかけがあればいいのだけど、誰かと友達になるまで時間がかかってしまう子どもだった。
4月の終わりに一度だけ、担任の須藤先生に頼まれて、蒼の家に課題を届けに行ったことがある。
「悪いな、今日の会議長引きそうでさ。ポストに入れとくことになってるんだ。桧山には伝えてあるから、頼むな」
学校から、僕が帰るのと反対方向の電車に乗って、いくつか駅を過ぎた閑静な住宅街だった。
「はー、大きい家…」
桧山家は周りの大邸宅に負けず劣らず、洋館のような造りで庭もとても広かった。
チャイムを鳴らしてみたい衝動に駆られたけど、やっぱり勇気がなくてやめた。須藤先生の話だと、蒼は連休明けには登校して来るみたいだった。門のそばにある郵便受けに、預かった封筒をそっと押し込んで、僕は二階の窓になんとなく目をやった。
カーテンが揺れた気がして見つめてると、誰かが立っているようだった。僕は窓に向かって軽く手を挙げてから、駅のほうへ向かって歩きだした。
連休が終わって登校すると、いつもはからっぽの椅子に座ってる背中が見えた。周りの喧騒をよそに、蒼は窓の外をぼんやり眺めてるように見えた。
あのとき、ちょっとだけ期待したのを覚えている。自分と同じ匂いがする…って感じがした。蒼はふいに立ち上がると僕の席に手をついて、何かを見つけたかのように窓から身を乗り出すような格好になった。
「おはよう」
声をかけて蒼が振り向いたとき、はっとした。
男の僕でも見惚れてしまうくらいの、きれいな横顔だった。
蒼の瞳に朝陽が射しこんで鳶色に輝いていた。そのまなざしに射すくめられたように、僕は動けなくなった。
心臓がドクンと鳴って、自分でも驚いたのを覚えてる。
─なに、これ…
だけど、戸惑った理由も今ならわかる。
あのとき、僕たちがお互いにかかえていた寂しさが呼応したんだ。やっと、わかり合えるひとがいたって。
「…おはよ」
思ったよりも低い声で蒼も返してくれた。
「具合、悪かったの?」
自然に言葉が出てきた。自分から声をかけるなんて、僕自身がびっくりした。
「え?」
「ずっと休んでたから」
「…ああ、そっか。いや、大丈夫、ありがとう」
「それならよかった」
周りの大部分が大声で笑ったり話したりするのがふつうの年代だったし、僕はそれになかなかついていけなかったから、蒼が静かにゆっくり話すのが耳にやさしく感じられた。
「なに、見てたの?」
「猫」
蒼が指さす先に黒猫が悠々と歩いていた。
「自由で、いいよなって」
「…そうだね。そういえばうちの猫もホント、自由だなあ」
「やっぱりそうなんだ」
「うん。あ、僕の席隣だから。よろしく」
「ここだったのか、ごめん」
蒼は窓から離れて自分の席に戻った。
「よろしく」
そう言って蒼が笑った。なんとなく、寂しそうに見えたけど、女の子が見たらほっとかないだろうなって笑顔だった。
***
俺は入学式を早退したあとは、4月は一度も登校しなかった。
特にやりたいこともなく、成績も中くらいの俺が言うのもなんだけど、父さんが勝手に決めてしまった学校だったから、思春期真っ只中の立場としては精一杯の反抗をしたまでだった。
それでも学校が悪いわけでもないし、須藤先生は三日にあげず連絡をくれたので、その情に絆されて5月からは行くと言ってしまった。
─ま、いいことだってあるかもだし…
5才の時に母さんが病気で死んでしまってから、俺はずっと寂しかった。
父さんは仕事が忙しくて帰りが遅い上に、俺とはまともに向き合おうとしない人だった。兄さんと姉さんとは年が一回り以上離れていたし、二人とも寮のある学校に通っていたので、物心ついた頃からほとんど顔を合わせたことがない。
姉さんは結婚して家を出てしまったので、今は父さんと兄さん、それからずっと住み込みで家政婦をしてくれている綾さんと、一緒に暮らしている。
兄さんは父さんと同じ銀行に勤めている。そして、将来を嘱望されている自慢の息子だ。二人とも俺のことは普段ほったらかしなのに、自分の監視下に置かないと気がすまないらしく、あれこれと自分たちのルールを押し付けてくる。
綾さんだけは、昔からずっと変わらず優しくしてくれるけど、こんなだったら学校に行ってたほうがまだましだと思った。
そうして登校初日、俺は航に会った。
初めて会った時、こないだ家に来てくれたあの背の高い人影は、航だとわかった。
あの日、声をかけられるのかと思ったけど、もし実際そうなってたら俺は、虚勢を張ったり自分を取り繕ったりすることしかできなかったかもしれない。
だから、あの時航と話せなかったのは残念でもあったけど、どこかでほっとしてもいた。
─今日で、よかった
「こないだ、課題ありがとう」
「あ、うん。やっぱり見えてたんだ」
「航は背が高いからね、それで覚えてた。
一応ひと通りやって提出した。それで成績と出席、何とかしてくれるって」
「よかったね」
愛想笑いじゃない笑顔で、航と話ができたのが嬉しかった。そんなことは久しぶりだったので、とても穏やかな気分だった。
母さんがいなくなってから、俺は笑えなくなった。
寂しいくせに強がってばかりで、本当の自分を見せられずにいた。愛想よくしていれば皆話しかけてはくれるけど、そこからもう一歩踏み出さないと本当に仲良くはなれない。俺はなかなかそこから進めなかった。
でも航は自然に俺の方に歩み寄ってくれた。決して強引ではないのに、気がついたら航のペースで喋っていた。
それがとても心地よかったんだ。
***
実際、登校したその日から蒼は女子たちの注目の的だった。
でもあれこれ話しかけられたり誘われたりしても、蒼はやんわりと断ってしまうみたいで、いつも僕と一緒に過ごしていた。
気のせいじゃなく、本当に蒼は僕に興味があるようで、どこへでも僕の後にくっついてきた。
須藤先生は「刷り込みだな」と笑いながら言った。
僕も蒼と一緒にいるのは楽しかった。
蒼のことを少しずつ知っていくのが嬉しかった。今読んでいる本のこと、こないだ見た映画の感想、好きな音楽、猫の話…そんな他愛もないことばかりだったけれど。
今までの友達とは少し違って、蒼とはずっと前から一緒に過ごしてきたような気がした。それくらい僕たちはあっという間に打ち解けてしまった。
ふたりでいることが日常になってきた頃、蒼と話していると女子にお昼に誘われたことがあった。たぶん僕はともかく、蒼が本命なんだろうな、蒼はどう答えるのかなと思っていると、
「ごめん、今日は航と話があるから…」
そんな約束もしてないのに蒼が断っているのを聞いて、僕はびっくりしてあとで言った。
「別に、お昼くらい行ってくればいいのに」
「…そしたら、航は誰とごはん食べるの?」
蒼が真顔で聞くので、僕はきょとんとして答えた。
「今までだって一人だったから、そんなの大丈夫だよ」
「…『一人で平気』っていうのは、いつも気にかけてくれる誰かがいて、初めて言えるんだよ。でも俺は航といたいし、俺がいる時には、航に寂しい思いさせたくない」
一瞬、心のなかを見られたのかと思った。
でも蒼自身も、同じ気持ちなんだとわかって嬉しかった。
「それに、皆と一緒に食べようっても思ってないでしょ」
「…ばれた?」
僕はちょっと恥ずかしかったので、わざとおどけて肩をすくめて見せた。
「今日は天気がいいから、お弁当を買って中庭で食べようか」
「いいね」
蒼も笑って賛成した。