惚れたら負け2
「エクイテスさん、いらっしゃいませ。オルトさんも、こんばんは」
せっかくクリスティーナに話しかけられたのに、顔を上げられない。
「どうも。あの、昨日はどうも」
俺は深呼吸をして、膝の上で拳を握り、顔を上げた。
(可愛い……)
昨日と違って髪が1つ結び。髪飾りも違う。化粧の感じも少し違う。女性の化粧のことなんて分からないが、昨日より大人っぽく見える。
「昨日は楽しかったです。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
「またブランデーボトルを入れておいたので、お持ちしますね。他にご注文があれば、おうかがいします」
「えっ? ボトル?」
「沢山ごちそうになりましたし、靴まで。そのお礼です。それに、ボトルがあると来やすいかなと思いまして」
それは、つまり、俺に来て欲しいってことか?
「じゃあそのブランデーだけで良いです。グラス2つに、今夜は水もお願いします」
「はい、かしこまりました」
オルトが注文したのでそれで終わり。クリスティーナが遠ざかっていく。彼女は他のテーブルの客と雑談したり、空きグラスや皿を回収しながらカウンターの方へ移動した。
俺達用のブランデーボトルなどを用意し始める。
「おい、エクイテス。靴ってなんだ」
「時計塔に登るのに、ヒールでは大変だと思って」
「欲しいと言われて、貢いだのか」
「俺が勝手に買っただけだ。欲しいとは言われてない。会計ももめた」
「ふーん」
オルトは不審そうな目付き。信じてなさそう。
「薔薇、渡すから出せ」
「ふーん。こんな大勢の前で?」
「……人が減ってからにする」
「そっ」
クリスティーナが戻ってきて、真新しいブランデーボトルやグラス、水の入ったデキャンタをテーブルに並べた。それからナッツの乗った小皿も出てきた。
「歓迎会の日、沢山食べていましたよね? サービスです」
ナッツの乗った小皿は俺の前に置かれた。
「いやあ、恋人にはボトルにナッツと大サービス。美人だし、羨ましい奴だなお前は」
「おい、オルト」
「いえあの、その、恋人なんですね? 良かった。昨日、勘違いかなとか、自惚れかなとか、眠れなくて」
クリスティーナはお盆で半分顔を隠し、俺達に背を向けた。遠ざかっていく。
「うーん、分かんねえな。酒場娘ならしたたかそうだし、あざとくないか? いや、でも本心かもしれない。この間も思ったけど、確かに可愛いな」
「聞いたかオルト、俺、恋人で良いらしい。良かったって」
「エクイテス、お前は俺の話を聞いていたか?」
彼女が移動途中で酔っ払い親父に腰を抱き締められた。
「んなっ!」
「あんなの日常だろ。ほっとけ。ほら」
立ち上がろうとしたが、オルトに上着を引っ張られた。
クリスティーナは笑いながら酔っ払い親父の手をつねり、ウインクしている。
抱きついてウインクをされるとは、羨ましい。
しかし、許せない。これが日常ってことは、この酒場の客は、サイナスのようなアホだらけってことだ。
女にベタベタ触りたければ娼館で金を払って触れと怒鳴りつけてやりたい。
「お前さあ、本気なら彼女に仕事を探して紹介してみたらどうだ?」
「俺が仕事を?」
「毎晩男にベタベタ触られ続けて良いのか?」
「嫌に決まっているけど、彼女、住み込みだろう? きっと住み込みで働ける場所を、ここしか見つけられなかったんだ。出稼ぎだから、節約したいんだろう」
「引っ越して一緒に暮らせば?」
ブランデーボトルを掴もうとした手が震え、ボトルを倒しそうになった。
「なっ……」
「俺なら男が出来て、ここで働き続けたりはしないな。男漁り、他に乗り換える気があるなら色々言い訳をして続けるだろう。かまかけてみろよ」
「一緒に暮らすとか……そんなの……無理だろ……」
「さあ? 言ってみなきゃ分かんねえぞ」
「未婚女性が男と暮らすなんて、破廉恥にも程があるだろう。イエス、なんて言うはずない」
「相変わらず信仰熱心というかお堅いことで。エクイテス、酒場娘だぞ。まあ、ならさっさと結婚しろ」
「俺のことをもっと知って……もらわない方が良いのか? 少しは話したけど」
不思議だ。俺が恋人で彼女は「良かった」と言った。頬をつねってみる。あまり痛くない。夢か? 昨日から全部夢か?
「夢じゃないから安心しろ。お前の全財産を奪われるかもしれないから、浮かれ過ぎるな」
「分かった。貢がない。金を貸さない。彼女に仕事を紹介する。それで良いんだな」
オルトとちまちまブランデーを飲み、似たような会話を繰り返した。
やがて客は減っていき、エミリア、サリーという女性店員も帰宅。
その間、クリスティーナが客に絡まれたのは5回。軽くポンっと尻を叩くのはまだなんとか我慢出来たが、胸を触られた時は殴りかかりそうだった。
オルトに押さえつけられた。
「ラストオーダーですが、ご注文はありますか?」
クリスティーナに笑顔で問いかけられたが、あまり嬉しくない。彼女は仕事中、ずっと笑顔だった。
毎日この仕事。嫌なことがあっても笑えるのだろう。
「仕事を変えて欲しいです」
「えっ?」
「家なら俺が契約して払いますし、仕事は巡回がてら探します。興味のある仕事があれば、そこで働けるように協力します」
「エクイテスさん?」
「新しい仕事が決まるまで、俺が君の生活費を出します。住む家が決まるまでホテルを手配します」
嫌だと言われたら、俺は彼女を諦めるのだろうか?
いや、毎日ここにきて酔っ払い客を見張ろう。胸はダメだ、胸は。尻も軽く触るのはギリギリ我慢するが、揉もうとしたら切り捨ててやる。
反応が怖い。顔が見れなくて、俺はずっと俯いている。
「エクイテスは可愛い恋人が酔っ払い客にベタベタ触られるのが嫌みたい。こいつの提案はやり過ぎだけど、少し考えてくれない?」
「私も嫌なので、店主夫人に相談しました。新しい子が入ったら、男性のお客さんが増えてくる時間からは裏方担当です」
「えっ?」
俺は安堵で顔を上げた。クリスティーナは困り笑いをしている。
「元々そろそろ仕事を変えようかなと思っていて、退職相談をしていたんです。何人か面接予定があるそうなので、わがままが通りました」
「そう、なんですか……」
「ふーん。良かったなエクイテス。クリスティーナさん、こいつ本気だから。とっとと結婚したいらしい」
「おい、お前!」
恐る恐るクリスティーナを見上げると、彼女は目を丸めて瞬きを繰り返していた。
「結婚を前提とした恋人ってことです? 私みたいな娘を?」
「貴女みたいなって、どういう意味です? 酒場娘、ウエイトレスがって意味なら、職業に貴賎はありませんし、俺がそもそも大した男じゃなくて、俺にはもったいない……」
「嫌なら今のうちに逃げて下さいね。俺、こいつに悪さされたら、腹を立てて何するか分からないんで」
オルトがクリスティーナに笑いかけた。目が笑っていない。オルトは昔から過保護だ。
「オルトさんはエクイテスさんのお兄さんですものね。私、エクイテスさんのことを大切にします。自分なりになので、上手く出来るか分かりませんけど」
「いやあの、俺が大切にします!」
ここで薔薇だ、と思ったがオルトから受け取っていない。
薔薇は諦めてチョコレートとマカロンの詰め合わせを渡すことにする。足元に置いてある紙袋を掴んで立ち上がった。
「これ、昨日のお礼です」
「お礼?」
「俺と出掛けてくれたので」
クリスティーナは紙袋を受け取り、中を確認した。
「まあ、ラヴェル菓子店……」
「このお店を知っているんですか?」
「ええ。出掛けてくれたなんてお互い様です。こんな高価なものはいただけません」
「まあ、もう買っちまったから受け取っておけば? エクイテス、困らせるようだから今後はあんまり物を買うな」
オルトがテーブルの下で俺の足を蹴った。顔は笑っている。
「それなら、今回は……」
嬉しい、と笑ってくれるかと思っていたので、気後れしたような困り顔は予想外。残念過ぎる。
「これ、エクイテスからクリスティーナさんへ」
オルトが上着の内ポケットから薔薇を出し、クリスティーナへ差し出した。
「あら……。素敵な薔薇」
お菓子を受け取った時よりも、クリスティーナは嬉しそうな反応を示した。
「薔薇は1本だとあなたしかいない、って意味らしいです。花屋の主人が言っていました」
「まあ……」
頬を赤らめると、クリスティーナは俺を見据えた。若草色の瞳がキラキラ光って見える。
「ありがとうございます、エクイテスさん。凄く嬉しい」
花が咲いたように笑うと、クリスティーナは薔薇をしげしげと眺めた。
(お菓子より花なのか。また買おう)
「じゃあ帰るか、エクイテス」
「ん? ああ」
名残惜しい。クリスティーナとほとんど喋っていない。
「お会計はありませんね。エクイテスさん、オルトさん、お休みなさいませ」
クリスティーナは伝票を確認して、俺達に軽い会釈をした。オルトがにこやかに手を振り、先に歩き出した。去り際、俺の肩を叩いて。
「エクイテスさん、お仕事のお昼休憩って時間は決まっています?」
「えっ? おおよそは。何か事件がなければ」
「私は13時頃から夕方まで割と融通が効きます。明日、一緒にこのお菓子を食べません?」
急な誘いに戸惑う。
「美味しいものは分かち合いたいというか、単におしゃべりしたいというか……」
クリスティーナは困り笑いを浮かべた。
「明日なら13時頃。俺、迎えに来ます」
「いえ。ワーグス広場にある署に近いベンチで待っています。13時半で良ければ、お弁当も用意しておきますね」
「なっ……」
「な? ナッツ? 好きですね、ナッツ」
クリスティーナは肩を揺らした。
「別に好きじゃないです。俺が好きなのはクリスティーナさんです。13時半に待ってます」
脳みそが爆発しているのか、スルッと言葉が出てきた。慌てて手で口を隠す。口にした後だと、何の意味もない。
クリスティーナの顔がみるみる真っ赤になった。耳まで赤い。目が泳いでいる。可愛い。めちゃくちゃ可愛い反応。
「クリスティーナちゃん、ラストオーダーはいいの? おじさん達はずっといたいけどさあ」
「おいやめろ、若者の邪魔をするなって」
「お兄さん、薔薇やら差し入れって古典的だな!」
店の中央あたりのテーブルを囲う客がクリスティーナに声を掛けた。
「はい、ただいま!」
クリスティーナは俺に会釈をして、手を振り、背中を向けた。
仕事の邪魔だな、と俺は店を出た。名残惜しくて、店を出る前にクリスティーナをしばらく見つめると、彼女は俺に気がついて、笑顔で手を振ってくれた。
「遅い」
「ん? 先に帰ったんじゃなかったのか?」
「反省会だ反省会。そうとう悪どい演技派の女か、安心安全か、どっちか分からねえ」
「反省会って何だよ。明日は今夜の分、早朝訓練するから署に戻って寝る」
足を蹴られそうになったので、蹴り返す。
「別に演技だって、身ぐるみ剥がされたって良いだろ」
「はあ?」
「何かされたって、今この時間や気持ちが消えるわけじゃない。オルト、今日は付き合ってくれてありがとな」
俺は全力で走り出した。疲れないと、全く眠れなそうで。