策士、策に溺れる6
折り返す階段を登り、時折休み、私達は歯車だらけの部屋に出た。殺風景でほとんど何もない。
「思ったより小さい仕掛けですね」
「時計は大きいのに不思議ですよね」
手を引かれ、案内されるがままに進む。
くもりガラスをつなぎ合わせている時計の裏面の向こう側に、針がうっすらと透けて見える。
自分が今、時計塔の中心部にいるという実感が湧いてきた。
「この上は見張り台になっています」
まだ登るのか、と少しうんざりしながら階段を登る。今までと違って下が見えるので、手すりがあっても少し怖い。
階段を登り終わり、踊り場に出るとエクイテスは躊躇いもせずに目の前の扉を開いた。予想外の強い風が吹き抜ける。
「うわあ……」
最初に目に飛び込んできたのは、雲の少ない澄んだ青空だった。
「本当に空が近い……」
エクイテスが手を離し、私の腰を軽く押した。手すりまで近寄る。天井はもう気にならない。
まるで空に浮いているような錯覚に陥る。
ゆっくりと移動する。起伏のある街並み。ゴルダガ城。どこまでも高い空。王都を囲む砦の外。丘や森に王都の生命線、ニーズ湖の水面の煌めきも見える。
「立派なお城。下から見ると門や木々で分からなかったけど……。ニース湖ってあんなに大きい……」
足を止めて振り返ると、エクイテスは柔らかな笑顔を浮かべていた。一瞬、息が止まる。
「ん? ええ、ニース湖は大きいですね」
「はい。あの、すみません。はしゃいで」
大鷲神によって天に召された父を感じたくて空に近い場所へ来たかった。なのに景色に夢中になるなんて、と自分を責める。
「いえ、気に入っていただけたなら良かったです」
そう告げると、エクイテスは黒羽コートを脱いで私の肩にかけた。
「俺は夜しか来たことがなかったので、不思議な感じがします。日々街中を巡回しているのに、まるで知らない世界みたいです」
エクイテスは手すりに両腕を乗せて寄りかかった。隣に並ぶ。ここからだと、ニース湖がよく見える。
湖のほとりに造られた小さな街に噂で聞く水上教会らしき建造物まで分かる。
「クリスティーナさんは空が好きなんですか?」
「えっ?」
「空が近いところ、と言っていたので」
「父を……。父を近くに感じられるかと……」
エクイテスがあまりにも優しげな眼差しだったからか、景色に感激したせいか、ついうっかり本音を漏らしてしまった。
私はエクイテスから顔を背けた。
「あの……」
「招集されて、それきりです。同じ空の下にいると、そう思って……」
マイクが父の骨の一部を持って帰ってきた。父は死んだ。貴方の部隊で、おそらくオルトが囮に使った。
いっそ、そう言って正面から非難しようか。でも謝罪なんて別に欲しくない。傷つけたい。私はオルトをめちゃくちゃに傷つけてやりたい。
その為なら、この優しそうな男も、オルトを傷つける道具にしてやる。
「そうですか。未だに知らせがないのなら、きっと無事です。どこかで治療中なんでしょう。遺体回収はあらかた済んでいますから」
「そうなんですね」
男は女の涙に弱いという。私は感情に任せて泣いて、エクイテスを見上げた。彼が小さく頷く。
優しい眼差し。アメジストのような瞳はキラキラして見える。綺麗な空が見える場所だからだろう。
「励ましてくれて、ありがとうございます。少し、胸を貸して下さい……」
一歩近づき、エクイテスの胸元に額をつける。嘘泣きしなくても、涙は溢れる。
父が恋しい。父と母の痴話喧嘩が懐かしい。母や姉に会いたい。帰りたい。家族全員が笑い合っていた頃に戻りたい。
エクイテスは何も言わなかった。手を出してきたりもしない。涙は効果ないらしい。
「すみません。ありがとうございました」
一歩下がり、エクイテスを見上げ、笑顔を作った。彼は困惑顔をしている。
「話して良かったです。希望が持てて嬉しいです。母や姉にも手紙を書きます」
「あの……」
「もちろん、帰ってこない可能性があるのは分かっています。絶望と、一縷の希望があるのでは気持ちが全然違います」
希望なんてない。貴方の友人のせいで。そう責めたらエクイテスは私の為にオルトに何かしてくれるだろうか?
しないだろう。私はエクイテスにとって、まだ何者でもない。少し気になる、見た目か愛嬌を気に入った女性。その程度。
私はエクイテスに黒羽コートを返した。
「階段をたくさん登ったら、お腹が減りません? 下の広場か近くの市場で、何かごちそうします」
「いえ、それなら俺が」
「私、何もお礼をしていません。ごちそうになり、靴まで買っていただいて、こんな素敵な場所を教えてもらったのに。これじゃあ、ますますお礼をしないといけません」
「助けたのは仕事で、お礼をいただくようなことではありません」
「のらくらお礼をさせず、何度も連れ回そうってことですか? お礼に欲しいのはクリスティーナさんなんです、なーんて」
茶化して反応を見ようと思った。反応が良さそうなら、どんどん押せば良い。
まあ、これまでの時間でエクイテスは私を気に入っていると丸分かりだけど、念のため。
エクイテスは目を丸めた後、コクンと頷いた。
(慌てふためくとかじゃないんだ……)
しばし沈黙。
「いやあの、そういう訳では。お礼は本当に必要なくて。いや、今日出掛けられたことがお礼です。ゆっくり過ごすのも、楽しいのも、久々ですから」
正直者過ぎて、分かりやすすぎて、こちらが恥ずかしい。
嬉しい演技を披露して腕を組もうと思ったのに、照れて俯いてしまった。顔が熱い。
「か、からかってすみません。からかったというか、単にその、どう思っているのか気になって……。楽しいなら良かったです……」
恥ずかしがっている場合ではない。けれどもすぐに立て直すのは無理そう。私はエクイテスに背を向けて歩き出した。
エクイテスが後ろからついてくる。深呼吸をしながら来た道を戻る。
行きは繋いでいた手が空いているので、妙にスースーした感覚。
時計塔を出ると、休憩がてら喫茶店でお茶をすることになった。靴を買ってこの広場に来るまでのように、またしても調子が狂っていて、上手く喋れない。
街がオレンジ色に染まっていくのを、紅茶を飲みながら無言で眺める。
エクイテスは特に話しかけてこず、私と同じで窓の向こうを見つめていた。
「遅くなる前に帰りましょう。そろそろ送ります」
「ありがとうございます」
エクイテスが立ち上がったので、素直に従う。私は素早く伝票を手にし、エクイテスが何か言う前に、そそくさと会計を済ませた。
「これでようやくお礼が出来ました」
店先で笑いかけると、エクイテスは小さく首を横に振った。照れ顔らしきぶすっとした表情。耳はほんのり赤い。
「いや、あの。貴女の人生を長くしたにしては、コーヒー1杯って軽すぎません?」
続きは何となく想像出来る。
「あら、エクイテスさん。お礼は要らないと言っていたのに、何が欲しいのですか?」
「欲しいものはありません。あの、もしもまた気が向いて、時間があれば、嫌でなければ……」
軽口を叩くのかと思ったら、随分と消極的。
「市場に美術館にハーブ園、行くところが色々ありますね」
時間を置いたので、調子が戻った。演技スイッチオン。
「また月曜日にお休みが取れたら誘って下さい。私、待ってます。緊張したので、次はエクイテスさんが誘って下さいね」
笑顔を向けたが、エクイテスは別の方向を見ていた。無表情で固まっている。
彼の視線の先を追う。馬に乗った騎士達の姿。5名なので定期巡回だろう。
「行きましょう」
エクイテスが私の手を取って歩き出した。わりと速い。
よく分からないが、とりあえず追いかける。ほぼ同時に騎乗巡回騎士達の馬がこちらに向かってきた。
「そこの男! 止まれ! 規則違反で逮捕する!」
「市民よ! そこの背の高いアザ男を捕まえろ!」
広場が騒つく。背の高いアザ男とは、エクイテスのことだろう。この声は常連客のサイナスとライナーだ。
他にも聞いたことのある声がいくつかした。「止まれ!」「不当休暇だ!」などと叫んでいる。
「たまりにたまった休みを消化しているだけだ!」
市民の数名がエクイテスに近づこうとした時、彼は振り返って叫んだ。
馬が追いつき、私達を囲う。
「着任から約2ヶ月、1度も休まなかったくせに急に休むなんて、相当具合が悪いんだと思ったのに。何すかこれ!」
顔は知っているが、名前を知らない騎士がエクイテスを睨みつけた。いつもサイナスと来て、大人しく飲んでいるお行儀の良い騎士だ。
「何で俺のマーメイドとデートしてるんですか!」
「おいザック、今なんつった? お前、俺に協力的だったよな?」
「サイナス先輩、いやあ……まあ……」
お行儀の良い騎士はザックという名前だったらしい。サイナスの指摘通り、いつもサイナスのアシストをしていたような気がするけど、俺のマーメイドか。
それは知らなかった。特に興味ないし、エクイテスに取り入り中なので、ザックに困り笑いを返しておく。
サイナスが気の毒そうな、それでいて勝ち誇ったような顔をザックに向けた。
いやいや、手癖が悪くて私だけではなくエミリアやサリーも同じように口説く男にはもっと興味ないけど。
「いや、サイナス。お前はパン屋のクルルさんが本命だろう?」
「んなっ! ちが、違うんだクリスティーナちゃん。おいライナー、俺を蹴落とそうとするな!」
私、モテモテ。クリスティーナ困っちゃう。
でも騎士達が私以外の女性にも粉をかけて天秤にかけているのは知っている。
「で、補佐官。その手はなんすか?」
「今日は麻薬取引調査日でしたよね?」
「頭痛が酷くて休みたい、でしたよね?」
「マーメイドだけではなく、皆のアイドルは抜け駆け禁止が暗黙の了解なんすけど?」
「何で自分だけ誘ってるんすか?」
エクイテスはパッと私の手を離した。
「嘘をつくなお前ら。麻薬取引調査は明日だし、頭痛なんて言っていない。たまりにたまった休みを消化して何が悪い。アイドルとか、暗黙の了解ってなんだ……」
上官なのに意外にエクイテスは劣勢。不貞腐れ顔で俯いている。
「マーメイドだか、アイドルだか、何だか知らないが酒の酔いに任せて触るなどそれこそ不当だ。2度と俺のクリスティーナさんに……。俺の?」
怒鳴ったエクイテスが目を大きく見開く。騎士達もさらに目を丸めた。私の目も大きく開く。
「俺の、ですか? 嬉しい……」
鬱陶しいエロ酔っ払い騎士達、特にサイナスを一掃するチャンス。そして、エクイテスを陥落させる大チャンス。
私ははにかみ笑いを浮かべ、エクイテスの手をそっと握った。
(妙にドキドキするわね。まあ、この恥ずかしい状況
、緊張して当たり前ね……)
エクイテスは無言で歩き始めた。騎士達は茫然自失という様子。
店前まで送ってもらう間、エクイテスは仏頂面に真っ赤な耳をしてずっと無言。
つられたせいか、私の心臓もバクバクして、お喋りなんて出来なかった。
今日はありがとうございました、また。それで解散。
こっそり後ろをつけて、彼の家がどこか知ることに成功。
2つ隣の商店街の裏通りにある、安そうなアパートだった。コーラリアム酒場から結構近い。隊長補佐官なら、もう少し良いところに住んでいると思っていた。
その日の夜、計画通りエクイテスの懐に入れた高揚で、ちっとも眠れなかった。