思へども9
「アルベル、アルベルティーナさん⁈」
「アルベルティーナ。あんたオルトさんが快眠出来るように色々買ったんだろ。渡してやりな。出征するならきっと役に立つ。あとそういうことは部屋でするんだね」
アメリアに肩を掴まれてオルトから引き離された。そういうこと?
「だ、だ、だきついたりなんて、すみま……」
オルトを見たら丸まっていた。頭を抱えている。
「何だい。こっちはこっちで悶絶して。ほらほら、部屋に行きな」
悶絶……オルトが飛び起きた。
「部屋になんて行けるか! 何言ってるんですかアメリアさん!」
「私は寝る準備をするからね。鍵もかんぬきもかけちまうから泊まっていきな。また王宮騎士がゾロゾロ来たらさすがの私も怖いからいてくれ。アルベルティーナ、息子の空き部屋を用意してやんな。あんたの部屋でも良いけどね」
そう告げるとアメリアは私達に向かって手で追い払う仕草をして、施錠を始めた。
その後、厨房の方へ行き「あんた! 出てきて守ろうとしないとはどういうことだい!」と怒鳴った。
茫然としているオルトの手を掴む。大きくて、豆だらけで固い。もう4日しか会えないかもしれないなら、この手に触れられるのも数回しかないだろう。
「なっ……」
「2階に行きましょう。今日、ハーブ園でハンドマッサージを教わったんです」
「ハンド……マッサージ……?」
「私は空き部屋で寝るので、私の部屋を使って下さい。その方が早く眠れます」
4日……。4日……。泣いたってオルトは行ってしまう。泣いたって休戦交渉が上手くいくか分からない。泣いたってオルトが死ななくなるわけじゃない。
それなら少しでも体を休めてもらう。それが今の私に出来ることだ。
手を引いてオルトを自分の部屋に連れて行った。部屋に入る前にオルトと向かい合って、顔を見上げる。涙目で視界がぼやける。
「オルトさんは絶対私を襲わないので、剣をそこに置いて下さい」
「えっ? いや、あの……」
「置いて下さい!」
「は、はい」
オルトは素直に剣を下げているベルトを外して、廊下の壁に立てかけた。これでよし、と部屋に入る。私の部屋には屋根裏部屋のクリスティーナの部屋と違ってソファはない。
「とりあえずベッドに座って下さい」
オルトの黒羽コートを脱がして、クローゼットからハンガーを出す。
「上着も……」
オルトは壁に背中をつけて固まっていた。近づいて、上着を脱がす。大人しい。信頼している通り、ちっとも襲ってこない。
「いやあの、本当、俺……」
「ほら、襲いませんね。そんなことオルトさんには出来ませんよ」
上着もハンガーにかけて黒羽コートと並べる。
「夕食はまだです?」
「いや、特訓前に食いました」
「それならハーブティーだけ持ってきます」
オルトに渡すはずだった香り袋の入った袋もハーブティーを入れた保温瓶も全部1階だ。私は部屋を出て、荷物を持って戻った。
入室するとオルトはまだ壁に張り付いていた。困った人。私は荷物をローダンスの上に置き、オルトの手を引いてベッド前に連れていった。
「座って下さい」
「あの、いや……」
「座って下さい。それから飲んで下さい。おすすめブレンドのハーブティーです」
蓋を開けて、保温瓶を渡す。
オルトは保温瓶を受け取り、ようやくベッドに腰を下ろした。
テーブルの上の櫛や鏡に化粧品などを全部ローダンスの上に移動させ、テーブルをオルトの前に移動。椅子も運ぶ。使う物と渡す物を全部テーブルに乗せる。
「では、手を出して下さい。最初は右手です」
「あのー……」
「のんびりしていると眠る時間が減ってしまいます。寝不足で出征なんて危険です。マッサージをしながら説明します」
緊張なのか、照れなのか、動かないオルトの手から保温瓶を取って左手に持たせる。それから右手を取った。
私の緊張や照れが吹き飛んでいるのは、使命感だろう。オルトに安らかに眠ってもらいたい。それがきっと、彼の帰りに繋がる。そう信じたい。
教わった通りにオイルを塗り、右手のマッサージを始めた。彼は俯いてしまった。多分、そのうち慣れるだろう。
私はマッサージをしながら、ハーブ園で教わったことや本で読んだ知識をオルトに伝えた。
しっかり眠ってから出征して、帰ってきて欲しい事も言った。大きめでふさふさした毛並みの犬を飼ったらどうかという提案もする。
「なのであと4日、しっかり休んで欲しいので、この中から1番好きな香り袋を選んで下さい。犬を飼うのは無事に帰ってこられたらですね」
オルトは俯いたまま。返事が無い。
「オルトさん?」
「はい……」
「あの、嗅いでみて下さい。あと、飲んでみて下さい。嫌いな味ならまた買ってきます」
「いやあの、もう限界で、俺、死にそう……」
「えっ?」
「息が、呼吸が出来ない。心臓が口から出そう」
「喋って息を吸っていますし、心臓は口から飛び出てこないので大丈夫ですよ」
そう口にしたら、オルトがバッと顔を上げた。真っ赤な顔をして、唇を震わせている。照れがうつって私の顔も熱くなった。胸もドキドキしてくる。
このまま見つめ合っていたい。顔をしっかり覚えておきたい。だから私は顔も目も背けなかった。
オルトは瞬きすらせずに止まっている。
「次は左手です」
オルトの右手を離し、保温瓶を持ち替えるのを待つ。動かないので、香り袋を摘んで彼の鼻先に移動させた。
「どうです? 好きですか?」
ようやくオルトが動いた。少し考えるような表情。護身術講座の時に聞いたけど、確か視線が左上は過去を思い出している、だっけ?
「この匂い、ナナリーの香水に似て……」
過去のこと。ナナリーの香水。ナナリーのことを思い出している。
「アルベルティーナさん?」
私は香り袋をローダンスの上に向かって放り投げた。見事着地。あれは要らない。誰かにあげよう。
「こちらはどうです?」
「さっきと違いがそんなに分かり……」
私はまた香り袋をローダンスの上に投げつけた。あれも要らない。ナナリーとかいう女性の香水に似てる? 思い出して眠るの? 絶対嫌。
嫌? そうだ。嫌だ。何でこんなに嫌なのか……。
「アルベルティーナさん?」
「えっ? あの、こちらはどうです?」
私は最後の香り袋をオルトの鼻先に寄せた。
「ああ。これが1番好きです。さっきアルベルティーナさんに抱きつかれた時に、フワッと香ってきた匂いに似ています」
「へっ?」
照れてる場合ではない。口許が緩む。何だか嬉しくてヘラヘラしそう。私は唇に力を入れた。ヘラヘラしそうで……唇に力をいれる? どこかで聞いたような……。
「では、そちらを寝る時に布団に入れて下さい。確かベルガモットとオレンジスイートです」
「いや、これは眠れるか分かりません。さっきの2つなら慣れているのでもしかしたら……アルベルティーナさん?」
「何です? 私よりナナリーが良いのですか?」
「はい?」
「だいたい、ナナリー、ナナリー、ナナリーうるさいですよ! 私はアルベルティーナさんなのに! ナナリーさんって呼ぶかアルティにして下さい!」
オルトの保温瓶を奪い、右手に持たせる。それから左手のマッサージを始めた。
「あの、アルベルティーナさん?」
「何です?」
「何で怒ってるんですか?」
怒っている? 私はオルトの左手を見るのをやめて、彼の顔を見上げた。
「俺にはその、もしかしたらその、ヤキモチ……的な?」
「ヤキモチ?」
「冗談ですよ冗談。こんなに色々考えてもらって、こんな血染めの手をマッサージなんて感無量でつい期待したというか……アルベルティーナさん?」
オルトの左手を強く握りしめる。ヤキモチ、そうだ嫉妬だ。きっとこういう感情を嫉妬という。
私はこの手にずっと触れていたい。
義兄になる親切なエクイテスに抱きついて「行かないで」と泣くことなんてない。切ないし、悲しいけれど、張り裂けそうな気持ちにはならない。
オルトが連れていくかもしれない、他の第3部隊の騎士のことなんてまるで思い出していない。
戦争になって一緒に逃げたいと頭に浮かぶ人もいない。オルトだけだ。
「……き」
「き?」
「好き……」
「好き? す……きいいいいいい⁈」
オルトが立ち上がろうとした。手が離れそうになる。
「嫌っ。離さないで」
「は……はいいいいいい⁈」
私は思いっきりオルトの左手を握りしめた。
「好き? えっ? マジ? 俺? なんで? 急に? えっ?」
「ナナリーはもう抱きしめないで……」
「あのアルベルティーナさん? あの……」
「抱きしめたら嫌!」
「はい。分かりました」
左手を引っ張ったからか、オルトはベッドに座った。
「急に分かりました。でもきっと、好きなのは前からです。アメリアさんは先に分かってて、クリスティーナもだわ。貰った服を着てみたらなんてそうよ。そうするとエクイテスさんもきっと……。私だけが……。いえ、私とオルトさんだけが……」
間抜けすぎる女だ。他の男性とデートまでして、オルトとデート出来るようにしてもらって、それでも気がつかなくて、こんなことになってようやく理解するなんて、アメリアの指摘通りポヤポヤ娘だ。
「あの、もう1回言ってもらってもいいです?」
「へっ?」
「耳が壊れてるのかもしれないので」
「いや、聴こえてますよね。だって私達、会話していますよ?」
「そうですね。あー、その。うん。あと4日、何回聞けるか分からないんで……。単にもう1回聴いておきたくて……」
オルトが困り笑いを浮かべた瞬間、私は立ち上がってテーブルを横にずらした。そのままオルトに飛びつく。抱きしめると、オルトは後ろに倒れた。
そんなつもりはなかったのに、上に乗る形になってしまった。
すみません、と言いかけて口を閉じる。このままが良い。
「好きです……」
体が持ち上がり、グランと視界が反転した。自分が下で、オルトが私に覆い被さっている体勢。オルトは私を渋くて赤い顔で見下ろしている。
ふと、半開きの何か言いたげな唇が目に入る。お互い好きなら私達は恋人同士で、恋人ならキスをする。
キス……してみたい。どういう気持ちになるのか知りたい。一緒にいられる時間は4日しかないかもしれない。
初恋の人とキスをしておきたい。私を好きなオルトも喜ぶ。
私はオルトの首に腕を回した。恥ずかしいから目を閉じる。キスは唇に唇を重ねる行為。位置は分かる。腕に力を入れて、体を持ち上げてオルトに近寄る。
柔らかくて温かな感触。ドクドク脈打っていた胸が、きゅぅっと締めつけられる。
幸せだ。すごく幸せ。ああ、だからキスというものはこの世に存在するんだ……。
腕から力が抜ける。ベッドに背中をつけた。そっと目を開く。オルトは相変わらず渋くて赤い顔で私を見下ろしていた。目がまん丸。嬉しくなかった?
「オルトさん?」
「何、今の」
「へっ? 何って、あの、キ、キ、キス……間違っていました?」
「いえ、合っています」
合ってる? ということは、この人はキスをしたことがあるの? 誰と? 誰と!!!
「誰とキ……」
「キスされたあああああ! 何だこれ、めちゃくちゃ気持ち良い! 可愛い! 無理だあああああ!」
オルトが両手をこめかみにあてて、私に馬乗りのまま体を起こして天を仰いだ。
「あの、オルトさん?」
「足が動かねええええ! このまま好き勝手したい。無理。助けて。助けてエクイテス。俺を殴りつけてくれ」
ゴンッと鈍い音。オルトが右手を拳にして自分の頬をぶった。これ、前にも見たな。あの時は蚊とか虫と言っていた。
オルトが私の上からどいた。私も起き上がる。
オルトはベッドから降りて立つと、ジリジリ後退りしていった。真っ赤な顔で床を見て、私に向かって両手を振っている。
「ち、ちか、近寄らないで下さい。俺、襲うんで」
「はい、あの、どうぞ……。嫁入り前ですので、そこそこでお願いします……」
「はああああああ⁈」
「あの、いっそもうお嫁さんになりますか? 4日間だけでも夫婦が良いです」
「ふうふうううううう⁈」
まるで私の口ではないみたいにポンポン言葉が出てくる。自分で言って、自分で照れてしまう。
恥ずかしいのでスカートを両手で握りしめて俯いた。
「いやあの、帰って、帰ってくるので。絶対帰ってくるんで。手足がもげても、死んでも帰ってくるんで、キチンとしましょう」
オルトは壁に張り付いた。
「キチンと?」
「もっとデートして、もう少し俺を本当に好きか確認してもらって、婚約して、式をして……俺、エクイテスを結構羨ましいと思っていたんで……毎日会ったり、弁当とか……。本当に必死で帰ってくるんで……」
「それなら、それはそれでしましょう。確認しなくても好きですよ。さっき、このまま好き勝手したいって言っていましたよね?」
「したいですけど! な、な、なんで、何で誘うんですか⁈ マジで襲いますよ!」
「だってもう1回キスしたいから……。それでオルトさんが我慢出来なくても、それでも、もう1回はしたい……。すごく幸せだったので……」
泣きそうになる。まもなく幸福は消えてしまう。もっと早くこの気持ちに気がついていれば、思い出も温もりも沢山増えていた。
「いやあの、じゃあ。ありがたくもう1回だけ。耐えるんで。俺は耐えます」
待てども待てどもオルトは近寄ってこない。なので、私は立ち上がってオルトに近寄った。追うと逃げる。逃げるから追う。
ついに部屋の角にオルトを追い詰めてしまった。
そっと抱きつき、彼を見つめる。オルトはそれでも動かない。背伸びをしても唇に唇は届かない。それで、私はオルトのシャツを掴んで思いっきり引っ張った。ビクともしない。
「お願い、もう1回だけ……」
頼んだら、オルトは目を閉じた。しかし動かない。抱きしめられたので待ってみた。
待って、待って、待ったらようやくオルトは体を曲げて、そっと一瞬だけのキスをしてくれた。




