愛憎のはざま4
スープを飲み終わると、オルトはトイレに行くと席を立った。
周囲をうかがいながら、ポケットに忍ばせておいた粉末にした眠くなる薬草を、オルトの飲みかけのビールにそっと入れる。
今夜は薬草の効果があるかどうか実験。
(もう今夜でいいんじゃないかしら。もう1回誘って、2人で食事なんて吐き気がするわ。何でこんな奴がエクイテスさんの唯一の家族……)
私が大、大、大嫌いでもエクイテスはオルトが好き。大切な友人で、兄や弟のような存在だから。
(使える駒なんて言われて、許せない……)
私は少し期待していた。
オルトが「生きるために必死で、どうしようもなく味方を見捨てることもあった。心が痛かった」というような事を言うかもしれないと。
そうしたら、許せるかもしれないと思っていた。結果は火に油。目を瞑ると、燃え盛る炎が天に登っていく映像が浮かぶ。
「おお、肉が来た。すみません、赤ワイン。いやあ、肉には赤ワインだよな」
飲みかけのビールは? と思ったら一気飲みしてくれた。味が変化しているかもしれない。気づかれないかヒヤヒヤする。
オルトは美味しそうな表情だった。ホッと胸を撫で下ろす。
「それで、なんだっけ。そうそう、エクイテスの好きな色。分かんねえな。とりあえず赤はダメ。この赤ワインも飲めない。味覚が変になった頃からだから、血を連想して嫌なんだろう」
それを聞いて、赤いリボンを捨てて、赤い靴と口紅も売り飛ばそうと決意した。
「赤以外ですね」
「まあ赤も君に関連すると好きだったりしてな。幸せ者だね、エクイテスは。恋とか愛のパワーって凄くて驚き」
「欲しいです?」
「んー、微妙。羨ましいけど、想像つかない。そこまで誰かにのめり込める……エクイテスの女版がいたらそうか? いや、長年の絆があるからで、あんな性格の女は嫌だな。お断りだ」
「時間をかければ良いということですね」
「長年、苦楽を共にして。もうそんなに苦労する事はないだろう。俺に尽くしに尽くす奴もいない。俺はもう基本的に1人で何でも出来る」
オルトは肉をバクバク食べて、グビグビ赤ワインを飲んでいく。
「昔は弱くてさ、俺はいつもエクイテスに助けられてきた」
(エクイテスさんが助けてきた……)
その人を、貶める。死刑台送りにしようと考えている。罪悪感でズキズキ、ズキズキ、胸が傷みはじめる。いつもより酷い痛みだ。
「お腹いっぱい? 君、ちんまりしてるから胃袋も小さそう。いただきます」
3分の2しか食べていないチキンソテーにフォークを刺されて奪われた。
「ゆっくり味わって食べていただけです」
「そうなの? 返そうか?」
憎い男がフォークをぶっ刺して噛み付いた肉なんて食べたくない。私は首を横に振った。
「オルトさんって、モテなさそうですね」
「いや、モテるけど。何で?」
「相談もせず勝手に注文したり、人の物を勝手に食べるからです」
食べ方に品がないし、優しくないし、軽薄そうだし、人を食ったような態度で相手をイライラさせるし、過剰な罰を与えるし、と悪口を続けそうになった。流石にその言葉は飲み込む。
笑顔を作るために、オルトの良いところを探そうとする。良いところ……ある? エクイテスを大切にしていること。私の宝物、エクイテスを大事にしている。それだ。1つだけあった。
私は微笑んだ。多分、上手く笑えているはず。
「スマートに注文して、少食に配慮だろ。君と俺って、相性悪いよな。絶対」
「悪くて結構です。私はエクイテスさんと相性が良ければ……」
「えっ? 相性良かったって、最後までヤッたの?」
私はむせた。
「ゲホッゲホゲホッ」
「顔真っ赤。冗談だって。分かりや……」
「突然の下品な発言に羞恥心が出ただけです!」
思わず立ち上がってテーブルを両手で叩いていた。注目されてしまい、慌てて座る。
「反応がエクイテスそっくり」
「……」
「リスみたいな顔」
ケラケラ笑うオルトを睨みつける。
「下街娘や田舎娘って、信仰心が薄くて貞操観念が緩いって聞いたから、本当かなって」
「人によるんではないでしょうか」
結婚もしてないのにそういうことをして逃げられて、1人で子育てする女性がいる。とても苦労する。
私は母からそう教わった。だから婚前交渉はしない。
「知識はあるのか。純朴そうな可憐な顔してエロいな。貴族のご令嬢は結婚前夜にほんの少しだけ教わるらしい。1から手取り足取り教えるなんて、燃えるよな」
「私は男性ではないので知りません! エクイテスさんに言いつけますよ! 酒場のお客さんより酷いって!」
「またリスみたい。本当、可愛いのにブスだな。エクイテスは君のどこに惚れたんだ?」
オルトが赤ワインのボトルを掴んだ。グラスに傾けるが空。
「すみません、赤ワインをもう……いや、飲み過ぎか。何でもありません。さっきから、君が時々エクイテスに見えてつい。ごめんね」
ゆっくりと瞬きをすると、オルトは大きなあくびをした。薬草の効果が出てきたのかもしれない。
ミニデザートが運ばれてくる。レモンの香りがするシフォンケーキだった。クリーム付き。
悲しいことに、ミニというだけあってサイズが小さい。
「俺、甘いもの嫌い。エクイテス、やるよ」
オルトは私にミニデザートの皿を渡した。受け取って、皿をテーブルに置く。今、私のことをエクイテスと呼んだ。
「……。なあオルト。お前は何を失うのが1番辛い?」
「ねみぃな。何だ急に」
「知りたくて」
目を擦りながら、オルトはうーんと唸った。
「俺はお前と酒を飲んで、バカを言えればいいから、必要なのは仕事と金と住む家とたまに高い女……」
コクン、コクン、とオルトが船を漕ぐ。私がエクイテスに見えるとは、相当酔いが回っているし、薬草も効いているに違いない。
(1番って聞いたのに複数。でもやっぱりエクイテスさんの事が大切なんだ。高い女って、なんなのよ)
デザートを食べて、会計を頼む。オルトは眠そうなのに、財布を出して支払いをし、フラフラしながら店を出た。
黒羽コートを椅子にかけたまま忘れそうになっていたので、そのまま忘れろと思ったのに、コートを着た。
「エクイテス、結構長持ちするよなこのコート。最初の戦場で生き残って、報奨金で買ったやつ」
「飲み過ぎですよ、オルトさん。署まで送ります」
本番は家までだ。いや、いっそ今夜? こんな男とまた2人で会うなんて、本当に御免だ。
「おかしいな。このくらいの量は平気なのに。疲れてるのかな。俺が送りますよ。クリスティーナさんに夜道を1人で歩かせたら、エクイテスに殺される」
ほら、と手招きされて2人で歩き始める。
(途中、私とエクイテスさんを混同したりしたけど、お酒も薬草も足りないのか)
「そうだ。護衛……。いた。第5部隊の君! 俺の妹分を家まで送り届けてくれ!」
オルトが周囲を見渡し、サイナスを見つけて手招きした。サイナスが駆け寄ってくる。
これではどこかの密室や路地裏に連れ込めない。
その時、オルトが通りの中央の方へよろめいた。そこに、スピードの速い馬車が突っ込んでくる。
(天罰……天罰だわ!)
馬車に引かれて大怪我か最悪死亡。
私は何の罪も犯さず、エクイテスを自ら傷つけることなく、溜飲を下げることが……。
オルトは馬車に気がつき、こちらに戻って来ようとした。引かれるか引かれないか、ギリギリというところ。
助けるふりをして押せば——……。
『俺はいつもエクイテスに助けられてきた』
体に激痛が走り、意識が遠のく時に見えたのは目玉が落下しそうなほど目を見開いたオルトの姿。
憎くてならない、性格の合わない、大嫌いな男。
でも——……。
大好きなエクイテスが助けてきた人——……。
☆
薄霧の世界。紫色のガラスが、キラキラ、キラキラと宙を舞う。エクイテスの瞳と同じ色。綺麗……。
「ピィ——!」
鷲の声。私は周囲を見渡した。鳥の影近づいてきて、遠ざかっていった。風が吹き抜ける。
すると、ゆらゆら揺れる人影を見つけた。小太りの……。
「お父さん?」
待って。待って!
私は走り出した。けれども、体は前に進むどころか後ろに下がっていく。
不意に、霧が晴れた。一面青空。いつか見た、時計塔から見た空にそっくり。
こちらを振り向いて微笑む父が遠くに見える。父の肩に、大鷲が止まった。
「お父さん!」
父はただ、微笑んでいる。
猛風が吹きつけ、霧に覆われ、目眩と共に世界は暗転した。
☆
目を開いた時、体の節々が痛かった。見慣れない木目の天井をぼんやりと見つめる。
(馬車に引かれそうなオルトに体当たりをして……)
自分が引かれた。左足がものすごく痛い。布団がめくれていて、左足だけ見える。膝下が包帯でぐるぐる巻き。
同じくらい痛いのは頭の左側。手で触ると包帯を巻かれていた。
「クリスティーナさん。良かった」
声がして、ベッド脇にオルトがいたことに気がつく。彼は椅子から立ち上がり、中腰で私の顔を覗き込んだ。
窓から差し込む朝日に照らされるオルトの顔は蒼白。
「俺が飲み過ぎたせいだ。本当にすみません。俺、エクイテスにどう詫びれば……」
私は首を小さく横に振った。
「いえ。私が貴方のお酒に薬を入れました……」
「えっ?」
体を起こし、オルトの胸を手で押す。立って私を怪訝そうに見据えるオルトから顔を背けて俯く。
「婦女暴行、強姦罪は死刑台行きですから……。貴方が馬車に引かれそうになった時、天罰だと思いました」
両手で布団を握りしめた。体が震える。
「あの、何言って……」
「貴方が生き残るために使った駒は……。私のお父さんです」
「お父さん?」
涙が溢れて、ぽたぽたと落下した。夢の中で、父は笑っていた。良くやった、というように。
「待って。父? 駒って、あの話。義理の兄が俺達の部隊にいて、生きていたって……」
「父も同じ部隊にいました。義理の兄から父の最後を聞いて……。帰ってきた父は、小さな骨だけ……」
「えっ……。待て。待て待て。知ってて俺達に近づいたのか? お前、エクイテスに何するつもりだ!」
胸ぐらを掴まれた。今にも殴られそうな勢い。でも、ちっとも怖くない。この人は私を殴れない。傷1つつけられない。
自分が薬を盛られて陥れられようとしたことよりも、エクイテスの心配をしたから。エクイテスが自分より大切だから。
だからオルトはエクイテスの宝物には絶対に手を出せない。
私を睨むオルトを睨み返した。
「いや、ならどうして俺を助けて、こんな話……」
オルトの青白かった顔が、ますます悪くなっていく。
「エクイテスさんが助けてきた人だから……」
目を閉じる。もう父の姿は見えない。真っ暗闇にチラチラ、チラチラと火が揺れている。
「彼の大切な人だから……。私……エクイテスさんに会いたい。出てって!」
オルトの両手を掴み、強く握りしめた。
「あの人がいなかったら殺してた!」
オルトの手を自分の胸ぐらから引き離し、思いっきり突き飛ばす。
「エクイテスさん……ごめんなさい……」
体を丸めて、感情に任せて泣いた。子どもみたいに大声を出して。
しばらくして、オルトが出て行く気配がした。
「エクイテス……」
「オルト、クリスティーナが暴漢に襲われたって知らせを受けて……」
私は顔を上げた。涙で視界がぼやけて、エクイテスの姿が良く見えない。
「エクイテスさん……」
ベッドから降りる。右足だけで立とうとして、バランスが取れずによろめいた。椅子に手をついたものの、尻餅をつく。
「クリスティーナ」
私の前に移動してきてしゃがんだエクイテスの首に、すぐに腕を回した。
一瞬、オルトと目が合う。私は彼を無視してエクイテスにしがみついた。
「ごめんなさい。止めてくれて……ありがとう……」
「止めてって、あの、クリスティーナ? さっきの話……」
ごめんなさいとありがとうを繰り返しているうちに、オルトはそっと部屋から出て行った。




