22 ロレット殿下
小屋から飛び出したリリアナは、植栽をくぐり抜ける前に振り返って、そして深く息を吐き出した。
石に触れた瞬間、大量に流れ込んだものに、動揺が隠せない。今もまだバクバクと心臓が激しく音を立てている。
慈しむように大きなお腹を撫でる、見ず知らずの女性。
その女性がパートナーと思われる男性と結ばれるシーンまで遡り、一度真っ白に映像は途絶え。
その靄が晴れると、また別の女性が別世界で少年を庇っていた。
それは、何度も夢に見てきたシーンだった。
頭が鈍器で殴られたようにガンガンと痛む。
「夢、じゃなかった」
あんなに朧気だったものが、今はっきりと形取り、どこを切り取っても鮮明に甦ってくる。
今の自分が“車”からあの銀髪の少年を庇って、生まれ変わったものであること。
社会人で独り暮らしをしている“マンション”では、当たり前に“電化製品”に囲まれて、掃除も料理も便利で早い。
職場には毎日“バス”で通っている。大きな“ビル”の中、“電話”の音が鳴り響き、ひとりひとりの席には“パソコン”が置かれていて、自分の姿もその中のひとつであった。
「ああそうか、そうだったんだ」
夢なんかじゃない。すべて現実だ。違和感はない、すべてがしっくりと呑み込めた。
前世を取り戻したところで、今の自分にはなんら変わるものなどなく、不安になることもない。そう思えば、恐ろしいほどに脈打っていた心臓も徐々に鎮まってきた。
「よし、疲れたからもう寝よう」
リリアナの人生はすでにスタートを切っている。前世の自分が短く命を終えたのなら、今をしっかり生きればいいだけのことだ。
ただ、心残りがあるとすれば、あの時車にひかれそうになった少年を、ちゃんと助けてあげられたのだろうかということ。彼は生き延びているのだろうか、それだけだ。
リリアナは大きく深呼吸をして、目の前の植栽を潜り抜ける。
そのまま庭園を横切ろうと足を踏み出した時、突然黒い影が目の端で動いて、リリアナは悲鳴も出ないまま腰を抜かした。
「大丈夫ですか?」
影がゆっくりと近付いてきて、恐々と目を凝らせば、遠くのランタンの明かりで鈍く照り返す銀髪の男の姿があった。
「えっ?!」
一瞬、ジルベルトかと思ったが、恭しく手のひらを差し出し、腰を抜かしたリリアナを引っ張り立たせ優雅に微笑む姿で、違うと判断した。
ジルベルトに王族スマイルで微笑まれたことがないリリアナは、すぐにそれが、弟のロレット殿下だと気付いた。
「驚かせて悪かったね」
ロレットは、リリアナの手のひらについた砂を丁寧に払いながら微笑む。
一方リリアナは、今自分に起きていることもまだ実感できていないまま、混乱の極みに陥っていた。
ジルベルトよりも長い銀髪と切れ長の涼しげな目元をマジマジと眺めながら、何故こんな夜更けにこんな辺鄙な場所に王子様がお供も連れずいるのだ、と。
だけどよくよく考えれば、王太子のほうも辺鄙なボロボロの小屋で夜な夜な物作りしているのだ。似たようなものかと納得した。
「ところで」
ロレットは手を握ったままリリアナに、上から下へと視線を流した。
「貴女はここで、何をしていらしたのでしょう」
「えっ」
まさか相手に思っていたことを自分が問われるとは思ってもいなくて、リリアナは思わずすっとんきょうな声を上げた。
「えーと、あの」
ちらりと後ろの植栽へ視線を飛ばして、なんと言えばいいのか思い悩んでいると、フッとロレットが笑った。
「まさかあの変人の兄が、このようなところで女性とお楽しみになっていたとは、思いもよりませんでしたよ」
「え? ええっ?!」
まったくそのような事に縁のないリリアナにもわかる。酒場の客がよく言っていたものだ。この場合の“お楽しみ”は、男女の睦事を指して言うことを。
「ちっ、違いますっ! 全然まったくですっ!」
ブンブンとこれでもかと首を横に振ってみせたが、ロレットの笑みの形は変わらない。
「そうかな。兄は随分と貴女にご執心のように思えるのだけど……」
「どこをどう切り取ったらそうなるのかわかりませんけどもっ、まったくもって潔白でございますっ! ジルベルト様はそんな卑しいお考えをお持ちのかたではございませんのでっ」
元客室棟女官補佐として元王太子付き女官としても、王子のピッカピカに綺麗な潔白は証明せねばと、リリアナは鼻息荒く訴えた。これがもし、回り回って、令嬢達や上官の耳に入ってしまったらと、考えるのも恐ろしいので今は本当に考えずにいることにもした。
ピクリと、ロレットの眉が僅かにひそめられたが、それはほんの一瞬でリリアナは気付かない。
それよりも、ロレットの甘さの含まれた微笑みを目の前でくらって、ギョッとする。
「それはよかった」
何がよかったのか、リリアナはひとまず距離を取ろうと、いまだに握られたままの両手を引っ張った。しかし、ロレットはより強く握りしめるだけで悪化した。反動で、ふたりの距離がさらに縮まったからだ。
「あ、あの、私、そろそろ宿舎へっ」
「せっかく会えたのに? それは寂しいことを言うね」
「ふえっ?」
何かしらないが、リリアナは今だかつて経験したことのないフェロモンをぶつけられていることだけは本能で察した。
(しかしなぜにっ!!)
「君とは、とても話が合いそうだったのに……例えば、“火も鉱石も使わない世界”について」
「え……」
怯えたように見上げたリリアナに、ロレットは微笑んだ。
「申し訳ない、話しているのが聞こえて。だけど、わたしも知っている、見たことのある世界なのです」
リリアナは瞳を見開いた。
「見たことが、あるんですか?」
「ええ。衝撃的でしたからね、よく覚えています。当時はまだ子供でしたから、最初は何が起きたのかわかりませんでした」
「こ、子供……?」
さきほどの強烈なイメージが戻ってくる。
出勤前だった社会人の“私”が、バス停で待っている時だった。一瞬目眩がして、それから頭を上げた時に目に飛び込んできたのは、道路の真ん中に呆然と立つ銀髪色の不思議な少年。クラクションと大きなブレーキ音に、体は勝手に動いた。少年に飛び付くようにして自分の体が気持ち悪いほどに宙に浮いた、あの映像が。
「も、もしかして……」
リリアナの視線は、ロレットの髪の毛に釘付けとなった。
「殿下……何か他に、覚えていることはありますか?」
「そうだね、とても不思議な世界だった。馬でもない馬車でもない、大きなものが人を乗せていたね。でも、それくらいしか見れなかったよ正直。あっという間のことだったから」
リリアナの思考はひとつの仮定へと向かって引っ張られていく。
転生したと思われる自分が、前世で出会ったのは、ロレット殿下なのかと。
理由も原因もわからないが、何かの拍子に殿下が目の前に現れて、車にひかれた瞬間、自分はあの見知らぬ女性のお腹に宿ったのではないのか。
「無事で、よかったです」
リリアナの小さく漏れた言葉に、ロレットは片眉を上げた。
深く息を吐き出したリリアナは、今度は自分からロレットの手を強く握って、瞳をしっかりと見つめた。
「私は、あの世界で車にひかれ、生まれ変わったのだと思います。殿下が見たという、あの世界で生きていた者です」
「……」
言葉は出なかったが、ロレットの瞳は見開かれた。
「大きな塊に車輪がついていたものが“車”です。それにひかれた黒髪の女に、覚えはありますか?」
さきほどまで徹底して微笑みを絶やさなかったロレットの表情が、ゆっくりと驚きに変わっていった。
「まさか、いや、そんなことが……」
庭園の片隅で、時々吹き抜ける風にそよぐ葉や花から浮き上がるように、二つのシルエットはしばらく固まったままだった。