14 溺れる
足首まであるチュニックを捲し上げて走るリリアナの耳に、今度は「キャーッ!」という悲鳴と、ドボンッと重い水音が届いた。
さすがに能天気なリリアナにも、何か大変なことが起きたのではと冷や汗と心臓の鼓動が加速する。
出島にセッティングされているテーブルが見えてきて、令嬢達のドレス姿も目に飛び込んできてホッとしたのもつかの間。
バッとリリアナに振り返った令嬢達の表情に肝が冷えた。
オヴェストは真っ青に立ち竦み、エストも呆然としている。
そして興奮した状態のスッドがリリアナに飛び付くように叫んだ。
「リリアナ! ノルドが!」
勢いよく飛び付かれて走る勢いが止まったリリアナは、スッドが震える指で差す場所を見て愕然とした。
呆然としたオヴェストとエストの向こう側、池で水飛沫が起きていた。
リリアナは咄嗟的に、すがり付くスッドを引き剥がして駆け出し、令嬢達が息を呑む間もなくドボンッと自ら池に飛び込んだ。
大きく水面が揺れ飛沫を巻き上げる中に、辛うじて顔を出すようにもがくノルドに抱きつく。
悲鳴すら上げられる状態ではなかったノルドに、自分の存在を知らせるように強く抱きしめ叫んだ。
「ノルド様! プハッ! リリアナです! 暴れないでっ、力を抜いて!」
水飛沫でリリアナも酸素を上手く吸えず、一緒に沈みそうになるのを力一杯足で掻く。
その様子に我に返ったスッドが陸から叫ぶ。
「ノルド! リリアナの言うこと聞いて! 落ち着いて!」
その大きな声でノルドの暴れるような腕の動きが少しおさまった。リリアナはすぐさま彼女を陸のほうへ寄せる為片手で水を掻き、それに応えるようにスッドがノルドの手を掴む。リリアナはさらにノルドの背中を手探りし、きつく結ばれた紐を少しずつほどいていく。
「今、ドレスを、脱がします! 脱げたら引き上げて!」
「わかったわ! ノルド動かないで! エスト! オヴェスト! 誰か呼んできて!」
その後は無我夢中だった。とにかく水を吸った重たいドレスを必死に脱がし、ノルドを陸に上げる為に池から押し上げる。
だからリリアナは、自分が力尽きていることに気付くのが遅れたのだ。
スッドやエストが伸ばす手が、どんどん離れていく。掻いているつもりだった足はすでに動いていなかった。女官の長いドレスがまとわりつき自由を奪って、どんどん枷のように池の底へと押し戻されていくのだ。
「リリアナ! リリアナ!」
令嬢達の悲鳴すら、水に塞がれた耳にはコポコポと雑音が入り込んで遠のいていく。
そして意識まで途絶えてしまったのだ。
陸ではリリアナの指先が水面の下へと消えていく景色に、令嬢達も駆けつけた侍女達も固まり言葉を失ってしまった。
しかしその中、集まった侍女達を掻き分けるように黒い影が飛び込んできた。
「おい! 何事だ!」
突然の男性の声にビクリと全員が振り向くと、濃紺のフードを深々と被った男が立っていた。
「リリアナが、池に!」
スッドの泣き声に、男は大きく舌打ちをし、その重たいマントを脱ぎ捨て池に飛び込んだ。
その一瞬の光景に、誰もが目を疑った。
脱ぎ捨てたマントから現れたのは、煌めく銀髪を靡かせ見たこともないような硬い表情の、ここにいるはずのないジルベルト王子であったからだ。
なんの躊躇いもなく池に飛び込んだ王太子殿下を、信じられないものを見たかのように誰もが言葉を失った。
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ブルリと寒気を感じて瞼を押し上げたリリアナは、見慣れた天井を見つけて安堵した。
(し、死んだかと思ったっ)
ノルドを陸に上げたところまでは覚えているが、その後はどんどん沈んで水面が手の先の届かない場所へとなった時に、水を一気に飲んで意識がなくなった。
ガタガタ震える身体は、冷えたからか恐怖からなのか。リリアナは身体を横たえたまま上掛けを掻き抱くように引っ張った。
「寒いか?」
「はい。……え?」
突然横から声が飛んできてリリアナが視線を向けると、見慣れた濃紺のマントを相変わらず深々と被ったオットーが椅子に座っていた。
「ホットミルクを用意してるぞ、起き上がって飲めるか?」
「え? あ、うん。……なんでいるの?」
起き上がってオットーの背中をマジマジと眺める。布巾が被せてあった陶器のピッチャーからカップへミルクを注ぐオットーは何も答えず、無言のままリリアナへそれを押し付けた。
「ありがと」
リリアナは素直に受け取り口をつける。芯まで冷えていたのか、ほどよいミルクの温もりが、喉や内臓をゆっくりと通ってじんわりと温めていくのを感じた。
「うっ、はーぁ。よかった生きてる私っ」
感無量で突然叫ぶリリアナに鋭く「アホかっ」とオットーは返した。
「お前な、アホだヤバいヤツだとずっと思っていたけど、恐ろしいほどのアホだなっ」
「なっ!」
このタイミングで労って欲しかったリリアナは目を剥く。
「だって、目の前で溺れてたら、助けるしか浮かばないでしょ」
「お前のその自信はどこから来るんだ! 男手を呼べ! あんな格好で浮くと思うか!」
「……たしかにっ」
言い返したかったが、オットーの言うことがごもっともなのでグッと声を詰まらせた。咄嗟とはいえ、女官の制服は脱ぎ捨てるべきだった。
「今度からは、ちゃんと脱いでから飛び込みますっ」
「違う、そうじゃないっ」
呆れたようにオットーは深く溜息をつきつつも、ウックと肩を震わせベソをかきだしたリリアナの頭をポンポンと叩く。
「怖かったな。とにかく無事でよかった」
いつになく優しいその声音に、リリアナは頭を上げた。
「心配させてごめんなさい」
「……お前の素直さが逆に怖い」
「素直に謝ったのにっ」
むくれたリリアナに、オットーの軽やかな笑い声が漏れる。
「元気そうで安心だ。メイドに追加の上掛け頼んでおくよ。ゆっくり休め」
「え、もう行くの?」
すでに背中を向けているオットーに寂しさを覚えて、思わず呼び止めた。オットーは振り向きいつもの呆れ声で「お前な」と呟く。
「女官の部屋に男がいること自体、イレギュラーだと思えよ。ていうか俺がここにいると色々話が拗れるんだよっ」
「心配して来てくれたんでしょ? おかしくないでしょ」
「誰も言ってないのかコイツに、そもそも男子禁制だって」
オットーは頭を押さえている。
「もうちょっと、ね、ね」
リリアナが拝み始めたので、渋々とオットーは近くのデスクに座って足を組んだ。
「ね、オットーさん。私お礼言わなくちゃなんだけど、誰が私を助けてくれたか知ってる?」
よく考えれば、服もすでに着替えさせてもらっている。意識を失っている間に、池から引き上げてくれて、部屋まで運んでメイドにお願いしてくれた者がいるのだ。
しかしオットーの反応はない。むしろ何か固まっている。
「あれ? オットーさん? もしもし?」
突然ガバリと全身をひねるようにオットーが振り返った。手を突き出すように何かを見せている。
「おい、これはなんだ!」
「ん?」
リリアナは目を凝らすようにオットーの見せるものを見た。焦れたのかオットーは立ち上がって目の前にかざして見せた。
「これはお前が描いたものなのか? なんだこれは!」
「ん? ああコレ?」
デスクに広げたままだったリリアナのノートである。
「それね、落書き。こんなのあったらいーなーって」
時々思い出す非現実的な世界の中で、何故か使い方を知っているおぼろげなものを、なんとなく描いてみたのだ。
「メイドさん達がね、あの大きな絨毯の掃除洗濯が大変そうだったから、石の力使って便利なもの作れないかなーと思って。あ、ちなみにそれはね“洗濯機”って名前だよ」
「洗濯キ……」
オットーは半ば呆然とした様子で、ノートの絵とリリアナの顔を見比べている。
リリアナはその様子に「エヘン」とばかりに胸を張ってみせた。てっきりオットーが発明とも思えるリリアナの絵に、感動して言葉を失ったのだと思ったのだ。
実際は、リリアナの予想を上回るものであった事なのは、数日後に判明する。