エンジンをかけた向こうに
今日は自然に目が覚めた。普段はアラームを何度もかけてようやく起きるのに、珍しい事もあるものだと、寝ぼけた頭で思った。
かといって、快調かと言えばそうでもない。
今週は何をやっても駄目な週だった。
提出課題の期日は忘れる、ファミレスのバイトでは皿を連続で割り、ゼミには遅刻する、気晴らしに回したソーシャルゲームのガチャは大爆死、衝動に駆られて課金してさらに大爆死して数万吹っ飛んだ。
いや、正直最後のは俺が悪いのは分かっている。だが、課金してもろくな事にならないと分かっているのにも関わらず引いてしまった。つくづく自分が嫌になる。
布団の中から手探りでスマートフォンを見つけて掴む。ビィン、と充電コードが引っかかって嫌な音を立てた。イライラする。
今は何時だろう。ひっかかったコードを乱暴に引っこ抜いてスマホの電源を入れた。起動中を示すアイコンがグルグルと回りはじめる。はて、俺は寝る前に電源を切っただろうか。 今日は1限からゼミがある。先週出せなかった課題を出さなければならないが、当然のごとく終わっていない。
「はぁ」
重い溜息を吐き出す。また教授に怒られると思うと憂鬱だ。
スマホはまだ起動しない。いい加減に買い替えなければいけないが、それすらも面倒だ。
しばらくグルグルと回り続けるアイコンを眺め続ける。
「……」
いつまでも起動しない。とうとう壊れたか? と思った矢先に、画面がバッテリー残量低下の表示に切り替わった。
どうやらコードが断線していたらしい。
もう本格的に駄目だ。またため息が漏れる。
今週は本当についていないようだ。アンラッキーウィーク。
しょうがないので布団をかぶったままベッドからずり落ちて机まで移動する。寒くて出られたものではない。まだ11月初めだというのにこんなに寒くていいのだろうか。
机の上にあった腕時計を手に取って時間を見ると、1限の時間はとっくに過ぎていた。自然に目が覚めるわけだ。逆に、こんな時間まで爆睡していたとは。
とにかく布団を撥ね除けて飛び起きる。学校に行く準備を始めなければ。
スマホでとりあえず教授に謝りの連絡を入れようとしたところで、電源が切れていた事を思い出した。
あぁ、本当についてない。今週は駄目だ。何かを蹴り飛ばしたくなる衝動に駆られる。
何か蹴飛ばせるものは無いかと思って見回すと、荷造りしたままになっているキャンプ道具が転がっていた。先週末にバイクでキャンプに行こうと思って、結局行かなかったときのものだ。
たしか、先週からずっと雨が降っていたのだ。思えば、このキャンプに行けなかった時から良くないことが起こり続けている。今週はそれからずっと暴風雨だったし、つくづく嫌な事ばかりだ。
思えば、ここしばらくバイクにすら乗ってないな、と思い出した。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。とにかく早く学校に行かないと。慌てて身支度を済ませて、やりかけの課題が入った鞄を引っ掴んでドアを開けた。
外に出た瞬間、眩しさに目が眩んだ。
一週間ぶりの快晴だった。ふわり、と洗顔したての顔を柔らかい風が撫でた。
思わず立ち止まる。こんなにも心地よい日に、なぜ俺は焦って学校に行こうとしているんだろう。そんな呆けた思考がよぎった。
「……」
いっそ、サボってしまおうか。
サボって、キャンプに出かけてしまおうか。
スマホも置いていって、なんのしがらみもない誰もいない場所に行く。
……あぁ、サボろう。
**
鞄を部屋に放り投げて、代わりに荷造りされたままだったツーリングバッグを背負い上げる。今日は暖かいが走れば風が身体を叩く。冬用のライディングジャケットをクローゼットから取り出して肩にかけた。最後に玄関に転がっていたヘルメットを拾い上げて外に出た。
駐輪場に行くと、バイクを覆っているカバーに黄色い銀杏の葉が積もっていた。暴風で飛んできたのだろうか。カバーを外すとはらはらと舞った。白い車体が陽光を反射して眩しい。
ヤマハ、XVS250ドラッグスター。大柄で存在感を放つ見た目とは裏腹に素直で良いバイクだ。
さっさと荷台に荷物を固定していく。もう慣れたものだ、このバイクに乗りはじめてもう3年、いろんなところにこのバイクは連れて行ってくれた。あっという間に荷造りは終わった。ハンドルにかけていたジャケットを羽織って、ヘルメットを被ってバイクに跨がる。
キーを回して、セルをゆっくり押し込むとエンジンが弱々しくアイドリングを始めてすぐに止まった。プスン、と情けない音を立てる。
ふふっ、と笑みがこぼれた。そうだ、このバイクは寒いとそうなるんだった。慌てずにもう一度セルを回すが、キュルル……キュル……モーターすらも弱々しい。
しばらく乗っていなかったせいでバッテリーが放電してしまったのだろう。
やれやれ、とバイクから降りた。不思議と「ついてない」とは思わない。むしろ、これだから……思い通りにならないからバイクは面白い。
「よいしょっ……と!」
チョークを引き、ギアを3速に入れ、クラッチを切って思いっきりバイクを押して走る。半クラにするとドゥン! と元気のいい音を立ててエンジンがかかった。すぐにクラッチを切ってニュートラルに戻し、スロットルを煽る。煽らないとまたすぐに止まるからだ。
そのままアイドリングを続けてエンジンを温める。しばらくするとアイドリングが安定し、V型二気筒が独特の振動を伴うエンジン音を立てはじめた。もういいだろう。
「よし、行くか!」
跨がって一回だけ景気付けのようにアクセルを吹かす。ドラッグスターは俺の勢いに呼応するように豪快に吹け上がった。
**
ひたすら飛ばしていく。平日の昼間だ、町中こそ交通量は多いが、山林に入ると一気に車がいなくなった。
俺しかいない道。俺とこのバイクだけの専用ロード。
はは、と思わず笑ってしまう。そんなアホみたいなことを考えてしまうほど楽しい。
天気は青く澄み切っていて、ジャケットを叩く冷たい風すらも心地よい。
坂道に差し掛かったのでシフトレバーを踏み込んでギアを下げる。爆音を立てながらゆっくりとバイクは坂を上っていく。正直、このバイクに馬力は無い。だが、とっくに慣れている。もう急なアップダウンだろうがお手の物だ。何度か400ccに乗り換えようと思ったが、結局このバイクに愛着があって手放せなかった。
坂道を上りきると突然視界が開けた。
切り開かれたような山脈の間に巨大な湖が広がっている。ほう、と嘆息してウインカーを出して路肩にバイクを止めた。
初めて来たが、いい景色じゃないか。
遥か遠くまで湖は続いていて、空の青色と山の紅葉を綺麗に写している。
エンジンを切ると、静かな水の音と風の音だけが流れていた。
ここでタバコでも吸えば雰囲気が出るのだろうが、生憎俺は吸わない。バイクのサイドバッグからコンビニで買った缶コーヒーを取り出す。
ぬるかった。秋だと流石に冷えてしまうか。だが、それすらも今は可笑しい。
それからしばらく走って、キャンプ場に着いた。
まだ日は暮れていない。テントを張るにはちょうど良いだろう。
キャンプ場の受付にいた眼鏡の管理人は、最初は不思議そうな顔で俺を見たがすぐにニコニコと笑って案内してくれた。平日に来る客は少ないのだろう。
「すみません、予約も無しに」
「はは、そういうお客さんも多いから平気だよ。ええと、薪はここにあるのを自由に使ってね。トイレはあそこ、水道はここね……ええと、バイクで来たんだよね? サイトに押していくのはいいけどエンジンはかけないでね」
「はい、ありがとうございます」
礼を言って管理人と別れ、テントを立てる場所を探す。
しばらくバイクを置いて歩き回ると、いい感じの高台を見つけた。
バイクのところまで戻って、バイクを押してその場所に向かい荷物を降ろす。
テントを張って、椅子を組み立てるとようやく落ち着いた。
ガスバーナーで湯を沸かすのを待つ間、家から持ってきた小説を読もうとしたが流石に暗くなってきていて読めなかった。ぽい、と本をテントの中に放り込んでオレンジ色になりつつある空をぼんやりと眺める。
しばらくしてシュウシュウ、と鍋が音を立てた。マグカップにコーヒーの粉末を入れ、湯を注ぐ。
日が地平線の向こうに沈んでいって、空が赤から群青へ変わっていく。
のんびりとした時間が流れる。そこには、何も自分を追うものはなく、何もその時間を邪魔するものは無い。
「何であんなにイライラしてたんだろうなあ」
独りごちて、また笑ってしまう。
本当に、何をあんなに「ついてない、ついてない」と憤っていたんだか。
ちょっと視点を変えるだけで、これだけ楽しい時間が過ごせたというのに。
湯気をたてる温かいコーヒーを啜る。
群青に変わる空の中で、ひときわ明るい星が輝いていた。