壱
「やっぱり春が一番だね」
月渚は晴れ渡る空を背に薄いピンク色を一面に広げた桜の木の下で満足げに頷いた。
春は月渚にとって特別の季節だ。
これといった理由なんてない。
ただとても気持ちが高揚して何を見ても多幸感に酔いしれることができる季節だった。
おむつで膨れたパンツを着つけて重そうによたよたと歩いている小さな子を見ても、犬が吠え合っているところに出くわしても、地面にぺったりと葉を広げて茎を精一杯伸ばした黄色い花を見ても、薄暗い部屋に差し込む朝の柔らかい日差しを感じても、真新しい制服に身を包んではにかんでいる自分の姿を鏡の向こうに見つけても、なんてみんな幸せそうなんだろうと嬉しくなってくる。
いつでも春は素敵。
けれども特に今年の春は最高だ。
中学二年生の時の学校訪問で訪れて絶対ここに通うと決めた高校に入学することができたのだから。
私立桜ノ宮城陽高校。
高台の上にある桜ノ宮城陽高校は最寄駅から学校までまっすぐな一本道でとてもわかりやすい。
その一本道には桜の街路樹が植えられていて、春になれば桜並木が見事な絨毯となって高校を浮かび上がらせているそうだ。
月渚がこの高校に決めた最大の理由が桜並木だなんて口が裂けても担任には言えなかったが、言えなかった分入学式に間に合わせるように桜の開花が訪れて月渚を楽しませてくれているのだから、感慨もひとしおだった。
これからしばらくの間だが、桜が舞い散る道を歩いて登下校が出来ることの喜びに、入学式の緊張もどこへやら、月渚は口元がにやけて仕方がなかった。
「いつまで眺めているんだ?」
人が幸せに浸っているときに無粋な掛け声と痛みで目を覚まさせてくれたのは、月渚の幼稚園からの幼馴染である天羽 是清だ。
手には先程担任から配られた結構な分厚さの封筒が月渚の頭を叩いたままで止まっている。
「なによう。桜の命は短いんだかからね。散りきるまで堪能させてくれてもいいじゃない」
「何を馬鹿なことを。散りきるまであと何日あると思ってんだ?それまでこのままじっとここでいるっていうのか」
「いやあねえ。言葉のあやってもんじゃない。ちゃんと帰りますよ、ええ、ちゃんと」
「だから帰ろうって言ってんだろ。ほら、荷物かしな」
「嫌だね。自分の荷物くらいは自分で持つのが大人ってもんでしょ。それにここには大切なものが入っているんだからおいそれと他人様にはお渡しできませんことよ?」
足元に置いてあった真新しいカバンの中には購入したばかりの教科書や体操服、手持ち紐にはぬいぐるみのカバーをつけた定期券が家の鍵とセットで付けられている。
新しい出発に必要なものが勢ぞろい。
どれもこれも月渚の気持ちを持ちあげてくれる大切なものたちだ。
誰かの手に渡すなんてもったいない。
あっかんべーとひと昔前の漫画のように舌をだして威嚇すると、是清は可哀想な子を見るような眼で月渚を見た。
ざああああ
音と共に一陣の風が桜を襲い、視界いっぱいに桜の花が舞った。
「わぁ、綺麗ねえ……」
ピンクよりも白に近いソメイヨシノの花びらは靄のように拡がったかと思うとすぐに小さな一枚一枚が存在を主張し始めて舞を競い合う。
スカートのひだのばたつきを手で押さえながらも、月渚は目の前で繰り広げられている花の乱舞に夢中になる。
うっとりと舞い乱れる桜の花びらを眺めていると、ふと言いようのない視線を感じて顔を上げた。
どれだけ待たせるのかと怒っているのかと思えばそうではなく、もの凄く柔らかな眼差しが月渚を見下ろしていた。
呆れたように見られることには慣れていても、愛おしそうな瞳を向けられることなどついぞない月渚はぱちぱちと繰り返す。
瞬きで切り取られた残像は、不思議な感覚を月渚に与えた。
あれ?これってどこかで見たことが……ある?
見たことがあるのではなく、この状況を体感した経験があるといった感覚。
それは、
デジャヴってやつだよ、ね?
自分の雑学知識の多さににんまりとほくそ笑んだその時、舞い散る桜を背景にした爽やかな少年の微笑んだ姿のイラストが目の前に現れて、月渚を見つめる是清にゆっくりと重なって―――――一つとなった。
『もうお前しか見えない』
今だかつて聞いたことがないほどの、蕩けてしまいそうなほど甘い声が脳裏に響く。
誰の声かなんて考えなくてもわかっている。
狂う惜しいほどの欲を孕んだ声に腰が砕けて今にも崩れ落ちそうだ。
同時に誰かの記憶を追体験しているような、古いフィルム映写機がカラカラと軽い音をたてて画像をコマ読みさせているような、不思議な感覚に襲われた。
主人公はきっと女の子。
映し出される部屋は淡い色のストライプの壁紙にレースのカーテン。
真っ白い家具は少し幼さが垣間見えるが、これは赤ちゃんの頃から使っている大切なものだから仕方がない。
年齢と共にお姫様のような部屋には気恥ずかしさを覚えるようになったため、少しずつ大人びたものをチョイスして部屋に置くようになった。
ドアの横に置いた観葉植物にしても、ベッドに使われているカバーにしてもそうだ。
母はいい顔をしなかったが年を考えてよといったら仕方がないわねとしぶしぶ認めてくれるようになった。
………母?
そう、母だ。
お腹にいる私が女の子とわかった途端、ベビー服はピンクで揃え、子供部屋も王女様を迎えるに相応しい設えにして、天蓋に蚊よけのカーテン、モビールは天使と星にしたのよと教えてくれた、いつも微笑んでいた、やさしい母。
ああそうか。
これは私の記憶なんだ。
月渚はどうして画像が懐かしいと感じるのか不思議に思っていたのだ。
輪廻転生。
敬虔な仏教徒ではなかったはずの前世だったが、きっとそういうことだろう。
細切れに変わる画像が懐かしい理由も、すとんと受け入れることのできる自分も、きっとすべては自分が経験してきたことだったから。
だからってなんで急に前世なんて思い出すの?
記憶は月渚の気持ちに関係なくカタカタと流れていく。
教科書を積み上げた机の横には扉付きの本棚。
前後に入れた本の前側には推理小説、隠すように後ろに並べたのは漫画の本。
わたしは扉を開けて小説をごっそりと引き抜き、大切にしている漫画を手にとった。
『世界は優しさで満ちている』
主人公の女の子が幼馴染と引っ付いたり別れたりして最後は結婚する、ありきたりの話の漫画。
けれどわたしはこの漫画が大好きで、自分に主人公のような幼馴染がいないことを相当悔しがっていた。
いいよね、幼馴染。王道で。
幼馴染と言えば、現在の私である月渚には幼馴染がいる。
それこそ『世界は優しさで満ちている』にでてくるような幼馴染の設定と同じで幼稚園のころからの付き合いである『天羽 是清』が。
がん、と頭を殴られたようだった。
その名前は漫画にでてくる幼馴染の彼の名前ではなかったか。
いやまさかそんなはずはない。
カタカタカタカタ
画像の私は本の表紙絵を愛おしそうになでてからぱらぱらとめくり始める。
物語の初めは主人公が高校を入学したところから始まる。
入学式を終えたばかりの主人公は真新しい制服を着て、桜の木の下に立っている。
そこに現れたのが同じ高校に進学した幼馴染の彼。
一緒に帰ろうと彼女の名前を呼ぶ。
『月渚』
そして主人公は呼びかけに答える。
『是清』―――と。
月渚はわかってしまった。
桜並木があるにしてもどうして桜ノ宮城陽高校に入学したかったのか。
幼馴染とはいえ、家がそれほど近くないというのにずっと一緒にいなければいけないと感じていたのか。
成績からいえばもっと上の高校でも入学できただろう是清がこの高校を選んだその理由が。
全部。
全部わかってしまった。
輪廻転生なんかじゃない。
この世界は漫画の、『世界は優しさで満ちている』の世界でしかないんだから。
桜吹雪の吹く中、月渚は絶望に飲み込まれて意識を失った。