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無題  作者: ヤスタカ
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愚連隊のようなことをしていた僕の母は、祖母からの度重なる虐待に耐えかねて、入学式も含め高校を三日で中退、碌に物も持たず生家である福井を出奔した。その結果、母は一家眷属から縁を切られた。縁を切られるとはどういうことか。例えば、僕は親戚に会わせてもらったことが無い。祖母にも曾祖母にもほとんど顔を会わせたことが無い。おかげで幼少の時分には、お年玉が他の子どもに較べ見劣りするので歯噛みした。その後、若き母はアルバイトで糊口を凌ぎながら関東地方と転々とし、埼玉、東京と渡り千葉へ移り、そこで父と出会ったという。

父はヤクザだった。十九歳の母を孕ませた父は、引責する形でそのまま結婚し、二人は父の実家のある静岡へ移住、そこで第一子を生んだ。僕である。その一年後にまた子を生んだ。次男のユージである。

結婚生活は五年で破局を迎えた。どのような経緯があったのか判然としないが、家庭裁判所で離婚を決議し、それから父は慰謝料や養育費などをすべて放擲して蒸発した。爾来、僕は父には会っていない。顔も覚えていないし、名前も聞いた筈だが失念した。母は再び関東を渡り歩いた。今度は赤子ふたりを連れて。まるで逃亡生活者のように転居を繰り返した。



最終的には東京に落ち着いたが、都内でも引越しを重ねた。

はじめは大泉学園という場所で暮らしていた。その頃には僕は小学二年生になっていた。僕とユージは児童福祉施設に容れられた。日中、母が仕事をしている間、僕たちはここで時間を消さなくてはならなかった。

ここは保育園と少年院を足して二で割ったような施設で、収容されているのは主に問題児である。子ども自身に問題があるか、子どもの家庭に問題があるか、いずれかである(何も問題が無ければ家にいればいいのだから)。僕の場合は両方だった。僕はその当時から既に狂気の兆候を見せ始めていた。僕は身に覚えが無いのだが、母の言うところによれば、他の児童を川へ突き落としたり、公道へ放り出して車に轢かせようとしたりするなど問題行動が多かったそうだ。ただ、誰でもいいから殺してみたいと思っていたことだけは覚えている。この施設には、そういう少し変わった児童が集まっていた。毎日のように児童が怪我をしたり、行方不明になったりした。

施設には娯楽室があり、小さい図書室があり、食堂があり、時間が来れば昼食をとる。不味かった。子どもたちは勝手にそれぞれの場所で遊んでいた。帰りの時間になると、施設の天辺から街中へ放送が流れる。「六時になりました。良い子はおうちに帰りましょう……」僕たちは集団で帰宅することを義務付けられていて、皆で適当な流行歌をうたいながら帰途に就く。

集団帰途の児童の中でも「中国人の女の子」を、よく覚えている。名前は忘れてしまったが、とにかく「中国人の女の子」だったことだけは確かだ。僕たちはその子を差別し、侮蔑し、仲間はずれにした。名前が僕たちとは違う。顔立ちが僕たちとは違う。日本語が不自然である。それだけの理由で、いや子どもだった僕たちには理由はそれだけで充分だったのだ、彼女に謂れの無い罵詈雑言を浴びせた。このことについて思い出す時、僕は心臓に針が刺さったような心地になり、自分には物を言う、書く資格が無いのではないかと思う。



再び転居して今度は三原台というところに移り住んだ。二階建ての、幼心にもぼろぼろに見えるアパートの一階で、蟻が家中、頻繁に現れて困惑した。僕たちは新しい児童施設に入った。

場所が変われば風向きも変わる。あるいは母はそう思っていたのかも知れない。そして僕も。しかし状況は悪くなる一方だった。新しい施設では喧嘩沙汰が絶えなかった。ある日――僕が人生で初めて怒り狂った日――相手を踏みつけ鼻血まみれにして、相手の親に謝罪に行ったことがある。帰り道、しかし母は僕を咎めなかった。ただ「二度としないように」と釘を差されただけだった。

結局、その施設では、僕が施設長のエンドウに将棋盤を投げつけて怪我をさせたかどで、退所を余儀なくされた。エンドウが将棋の最中にイカサマをしたのである。僕は小学四年生になっていた。既にその頃から他の子どもに較べ身体が大きく、情緒が崩れていた。



どこで将棋を覚えたのか? 施設から帰ると必ず家に誰か知らない人がいた。後に聞いたところ、右翼、ヤクザ、警察、といった面々であったそうだ。でも僕たちは何も知らずに、ただ母の男友達、女友達と思い、無邪気に遊んでもらっていた。初めて覚えた遊びは、その頃に流行していたテレビゲーム、携帯ゲームではなく、花札だった。誰かが花札の一式を置いていってくれたので、僕は暇になるとユージに「花合わせ」を挑んだ。勝負は五分五分だったと記憶している。いまとなっては「花合わせ」のルールをまったく思い出せないが、僕たちは少年時代にありがちな無限のような時間を「花合わせ」で潰した。これが二人で遊ぶものではないと知ったのはずっと後になってからのことだ。そのツテで将棋を覚えた。



アパートの二階に住んでいる男がよく出入りするようになった。僕はまだ子どもで、恋愛とか再婚とか性交というものが理解できていなかった。ただ、あの男がなぜ母と一緒に風呂に入ったり、一緒に布団に入るのかよく分からなかった。他にもいろいろな男が母と風呂に入り、布団をともにした。そして男は僕たちにお菓子や玩具をくれた。いちど来ただけの男、幾度か会った男。しかし、もっとも顔を会わせたのはアパートの二階の男である。

この男はレーサーだった。文字通りのレーサーである。この男、実家が隣にあり、そこでカートを自作しサーキットを走るのである。僕も母に連れられて見せてもらったことがある。早くて格好いいと思った。

何がきっかけだったのか分からないが、僕たちは再び引越しをすることになり、その男とも別れることになった。その頃、僕たちは懇意にしていて、少し淋しかった。最後に玩具をくれた。男の好きだった「ミニ四駆」という玩具である。

これは後に母から聞いた話だが、この男、それから心臓病を患う女と交際し、「結婚してくれなければお前の家族を全員殺す」と脅迫され、やむなく婚姻を結んだという。


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