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第九章 探り巡る

 鳴海勝也は「歳かな」と思って仕事をしていた。昨日の明け方まで二晩続けてマイと一緒で夢のような甘美な時間を過ごしたが、昼間は体力不足を感じた。

 以前は何日か午前様を続けても何でもなかったが、昨夜は大人しく自宅に帰り死んだように眠ったもののまだ身体の芯が幾分重かった。でも気分は、マイといた幸福感で高揚し充実していた。

 マイと近づけば近づくほど、知らず知らずのうちに彼女に引き込まれてゆく。彼女はそういう魅力、いや、魔力のような底知れないパワーを持っている。今頃、彼女はどうしているかなぁなどと思いを馳せる時間が増えてくる。年甲斐もなく、という言葉もあるが、こういう恋する感情に年齢は関係ない気がする。

「おはようございます」

 奈津美が勝也の背中に声をかけた。時計を見たら、午前十時だった。

「ああ、おはよう。柘植君にしては珍しく遅刻?」

 勝也は我に返った。

「いえ、日光金属に寄ってきました」

「それは熱心なことだ」

「社長は昨晩、日光金属の研究室に行きましたか?」

 奈津美が唐突に訊いてきた。勝也は昨日の行動を思い出してみたが、どう考えても日光金属には行った覚えがなかった。

「いや、行っていない。それがどうかしたのか?」

 勝也はそう答えながら、奈津美をまぶしそうに見上げた。

「あそこの研究室には、個人のIDカードがないと入れないじゃないですか」

 奈津美が言った。新製品など企業秘密満載の研究室の入口にはカードリーダーがあって、そこにプラスチック製の認証磁気カードを差し込んで解錠しないと扉が開かない機構になっていた。

「ああ、そうだったな」

「研究室の記録を調べていたら、昨日の午後十一時八分に社長が出入りしていたので驚いたんですよ」

「何だって。いったい、どういうことだ?」

 勝也は何が何だかわからなかったが、薄気味が悪くて背筋がゾクゾクした。研究室の扉はオートロックで内部からは自由に開け閉めできるが、外部から中へ入ろうとすると専用の職員IDカードがないと開かない。矢田の仕事を手伝うために頻繁に日光金属の研究室に出入りしていた勝也と鈴木には、IDカードが支給されていた。

「何者かが社長のIDカードを使って研究室に侵入したか、単純な機械的故障と考えられます。あ、研究室の中は荒らされた様子などなく、異常はないようでしたからご安心下さい」

 奈津美が落ち着いた声で言った。自分のカード入れを出して、日光金属の認証カードがあるのを確かめた勝也は、「それは、良かった」と胸を撫で下ろした。矢田たちがいなくなった上に、もしも過去に積み上げた研究データまでなくなったら日光金属の損害は計り知れない。

「何にしても、気味の悪いことだ。柘植君も気をつけてくれ」

 勝也がカード入れを胸ポケットに戻すと、気を取り直すように言った。

「ありがとうございます。私は、これから矢田さんの奥さまに会ってきます。彼女の心を解きほぐすには、まだまだ時間がかかるでしょうが」

 奈津美が言った。

「確かに大変だが、よろしく頼む」

「はい」

 黒いシャツの上にグレーのスーツを着た奈津美は、丁寧に一礼してから部屋を出ていった。その後姿を見送った勝也は、奈津美がなぜ日光金属の社員の出入りまでチェックしたのだろうと小さな疑問が浮かんだ。「過重労働の裏付け調査かな?」

 勝也はそう考えつくと、通常の業務に取りかかった。


 その日の朝七時に、奈津美は日光金属へシステムエンジニアの鈴木と行っていた。矢田と杉田、森の関係資料を、ほかの社員達が出勤する前に集めたかった。

 鈴木は研究室にある矢田と森のパソコンから、迅速な作業で開発計画や研究結果などの膨大な情報をメモリースティックにかき集めた。最後に念のため出入り口のカードリーダーを調べた鈴木が、勝也の研究室への入室記録を見つけて驚いた声を上げた。

「き、昨日は一日中会社にいたはずの社長が出入りしています。これは一体どういうことでしょう?」

 やさ男の鈴木が気味悪そうに奈津美に訊いた。奈津美は彼をキャスター付きの事務椅子ごと脇に押しやって、矢田が死んだ前日から今までの出入りを素早くメモリーに入れた。

「もう時間よ。さっさと出ましょう」

 呆然としている鈴木の尻を叩いて二人で外に出ると、日光金属の社員たちがボツボツ出勤し始めていた。

「地下鉄まで送りましょうか?」

 朝から根本商会に行く鈴木は、ナルミコムに向かう奈津美に言った。日光金属は、三陽電鉄星城駅から歩いて五分のところにある。星城駅は中央駅から西北に三つ目の駅だが、地下鉄丸の内まで送ってもらえると、ナルミコムへは乗り換えなく二十分あれば着ける。丸の内は根本商会への通り道にあった。

「ええ、お願い」

 奈津美は鈴木の白いライトバンに乗り込んだ。

「根本商会はどう?」

 車が朝の街を走り始めると、奈津美が鈴木に訊いた。市内への道はラッシュだった。

「あそこは事務機器を扱っていますから、今回の不況では製造業ほどの影響は受けていないですね」

 運転しながら、鈴木が言った。

「鈴木さんが呼ばれると言う事は、事業を効率化したいのね」

「どこでも人件費を削るのに躍起になっているんですよ。機械ができる事は機械にやらせたいし、その方が正確です」

「なるほど、そのとおりね」

 機械は人間と違ってミスをしない。短期的な投資は必要だが、長期的にみれば人件費が要らない分、効率も良い。鈴木はそう言いたかったのだろうが、奈津美はそこまで言われなくても理解できた。


 地下鉄の駅まで送ってもらった奈津美は、九時に鈴木と別れて地下鉄に乗る前に、矢田雪子にカウンセリングをするため今日の十一時にうかがうと電話した。雪子の様子が気になるのと同時に、矢田の自宅内部を確認したかった。

 一旦、ナルミコムに出勤して鳴海勝也社長に昨夜の行動を尋ねると、再び地下鉄に乗って東部丘陵地帯にある矢田順也のマンションに向かった。日光金属のある市街地西北の一帯とは違い、運動公園の緑が気持ちよく空気も澄んでいるように感じた。緑豊かな道を上がると、矢田のマンションがあった。

「おはようございます」

 玄関に出てきた矢田雪子は、先日よりはリラックスした表情だった。奥のリビングに通された奈津美は、ソファに座った。この間と同じように、雪子が紅茶を運んで来た。

「奥様は紅茶がお好きなんですか?」

 奈津美はできるだけ相手を和ませるように話題を振った。

「コーヒーも好きですが紅茶には鎮静作用があるから、ストレスを和らげて精神を安定させてくれないかと、主人が亡くなった後は紅茶を飲んでいます」

 雪子が、少しうつむいた。

「お察しします。でもご自分でそこまで考えて過ごしていらっしゃるのは、とても私などにできることではありません。さすが雪子さんです」

「いえ、そんな」

「ところで、ご主人のお仕事の資料がここにあれば見せて頂きたいのですが」

「はあ」

「過労死かどうかの判定に、どうしても勤務実態を調べる必要がありますので御主人のパソコンなども見せて頂けると助かります」

 奈津美の目的は、少しでも多くの矢田順也周辺の情報を収集することだ。

「ここには大した資料もないですが、どうぞこちらに」

 雪子は先に立って玄関まで戻ると、その奥にある北側の四畳半ほどの部屋に奈津美を案内した。そこは順也の書斎のようで、ライティングデスクとソファベッド、小ぶりの本棚と造りつけの小さなクローゼットのある部屋だった。

「すぐに済むと思いますので、どうぞお構いなく」

 奈津美がそう言うと、雪子は「仕事関係の書類は必要でしたら、お持ちになって下さい。どうせここにあっても役に立ちませんから」と言って静かに部屋を出て行った。

 雪子が言ったように資料や書類は大した量はなかった。書棚の左端から調べ始めたが、五分ほどですべて見終わった。ふと本棚を見ると、小学校から大学までの卒業アルバムが目に入った。中興男子高校のアルバムをペラペラめくると、剣道部のページに矢田順也が写っていた。精悍な順也の後ろに見覚えのある顔があった。

 奈津美は、それが誰か瞬時には思い出せなかったが、数秒後に「ああ、森宏係長だ」とわかった。順也とは二つ違いだから、当時の彼は一年生だ。今と同じくやや長い髪をして、少女のように可愛く見えた。

 続けざまに国立帝都大学の卒業アルバムも見たら、フェンシング部の写真で矢田と森が前後に写っていた。彼らは本当に長い付き合いなんだなぁと、奈津美は改めて思ってアルバムを閉じた。

 それから奈津美は、ライティングデスクの上のノートパソコンを開いた。ロックがかかっていたが、会社の彼のパソコンを鈴木が開いた要領でキーを叩くと、簡単に中身が開いた。メールや資料を、メモリースティックに素早く写し取った。

「ありがとうございました」

 十分ほどの作業を終わった奈津美は、リビングに戻って雪子に声をかけた。キッチンから雪子が出てきた。

「ご主人が亡くなったのは残念でしたが、これからを前向きに生きてゆくことをゆっくり考えてゆきましょう」

 再びソファに腰を下ろし奈津美は雪子に語りかけた。

「実は……」

 そう言って雪子も奈津美の前に座った。奈津美は、彼女の話を促すように小首をかしげて微笑んだ。

「実は、主人には死んで欲しいと思ったことがありました」

 雪子がとつとつとした口調で、恐ろしい言葉を口にした。

「それは穏やかではないですね。どうして、そう思われたのですか?」

 奈津美が口の端に笑みをたたえて、やさしく尋ねた。

「主人には女がいたようでした。一年ほど前に、彼の携帯を見てしまったのです。真理という女と頻繁にメールのやり取りをしていました」

「真理……」

 杉田真理だろうかと、奈津美は思った。それは昨夜、卓司から聞いた愛知県警の「杉田真理は妻子持ちと交際していた」という話と符合する。

「証拠はないし、家庭に迷惑をかけているわけでもないし、尻尾をつかまえるまではとそのまま様子をみていました」

「それはお辛かったですね」

「お恥ずかしい話ですが、うちの祖父にも愛人がいましたから、そんなに大きな驚きはありませんでした」

「そうなんですか」

「祖父には甲斐性があったというべきか、祖父が死んだ後に遺品を整理していた私の両親が気づきました。祖母は、祖父より早く亡くなっていましたし、遺産相続にも何の問題はありませんでした」

「きちんとされていたんですね」

「はい。それから隙があると主人の携帯をチェックしていたのですが、半年ほど前から今度はマイという女ともやり取りが始まりました」

「順也さんはお盛んですね」

「これには、さすがに堪忍袋の緒が切れたというべきなのでしょうか。私立探偵を頼んで調査させました」

「思い切ったことをされましたね。……それで、結果は?」

「探偵は結構な料金を取ったわりには、大した成果を上げませんでした。結局、真理という女は探偵の調査期間中に順也が会っていなかったので、どこの誰かはわからず仕舞いでした。マイという女が繁華街のロゼというクラブのホステスであることだけ、わかりました」

「なるほど。それで、順也さんに死んで欲しいと思ったのですね。殺そうと思ったのですか?」

「まさか。刑務所に入るのは御免です。順也が死ねば生命保険と退職金が入ります。そのお金を元手に、私は翔と二人で暮らしたいと思っただけです」

「そのお気持ちは、わかる気がします」

「この話は警察には言っていません。どうしたらよいでしょう」

 雪子がおどおどと訊いた。

「打ち明けて下さって、ありがとうございます。この件は、雪子さんがわざわざ警察に連絡する必要はありません。私にお任せ下さい」

「ありがとうございます」

「でも、もし警察から何か訊かれたら、正直にお話しして下さい。それが一番です」

「はい」


 夜になって勝也は、マイを無性に恋しくなり彼女の携帯に電話をした。こういう、恋のような感覚は久しく忘れていた。逃れようとしても逃れられない、マイの魔法にかかってしまったようだ。

 しかし彼女は電話に出ず、「ただ今電話に出ることができません」と機械的なアナウンスが空しく聞こえた。

 考えてみると夜の街は虚構の世界、煌々と夜の闇を照らしながら、その中で人々は今宵も夜の街で夢の世界を楽しむ。マイという名も源氏名で、彼女の本名すらわからない。彼女を追い求めても、彼女が逃げ出せば永遠につかまえることはできない。そう考えると彼女は幻のような存在だ。

 でもその女と会えないと寂しい。これは相当、感情が入っちゃって重症かな。勝也はそう思うと、苦笑したが、足はいつの間にかクラブ、ロゼに入っていた。

「いらっしゃいませ」

 髪をアップにして和装の夕子ママが、にこやかに勝也を迎えた。彼が一人であることを見て、ママはカウンター席に案内した。

「マイちゃんは?」

 勝也はカウンターに座ると、グルリと店内を見渡した。まだ八時だったが客は三組ほど来ていた。

「まだよ。遅刻かしら」

 勝也の横に座って、薄い水割りを作った夕子が少し不満そうに言った。

「何かあったのかな?」

「おや。私に訊くよりも、かっちゃんの方が詳しいかと思ったわ」

 夕子が悪戯っぽく笑った。何だか自分の胸の内を見透かされているようで、勝也は気恥しかった。

「マイには、ちょっと気をつけたほうがいいかもね」

 勝也が水割りを一口のんだら、夕子がポツンと言った。

「気をつける?」

「そう。あのコって、何を考えているのかわからないところがあってね」

「ほう」

「とてもよく気のつく有能なホステスなんだけど、何だか怖いと感じることもあるの」

「そうなんだ。ママの忠告だ。素直に受け取っておくよ」

 勝也が水割りを一口飲んだ。カラリと氷の音がした。

「そうだ。矢田順也の部下の森宏っていう男を、ママは知ってるよな」

 勝也は話題を変えた。ママに尋ねてみたかった質問を思い出した。

「森さん? ああ、矢田さんが接待の流れで年に数回連れてきた事があったわ」

「そいつが、いなくなった。何か知らないか?」

「さあ、彼は何と言うか……。すごく冷めた目をしていてね、酒にも女にも興味がないっていう感じ」

「ほう。……俺とは大違いか」

「アハハ、本当に」

 夕子が可笑しそうに、手を口にあてて笑った。

「遅れました。すみません」

 そこに奥からマイが現れ、勝也たちの背中に声をかけた。

「社長がお待ちかねよ。じゃあね」

 夕子が微笑んで立ち上がると、代わってマイが座った。彼女の髪が、珍しく少しだけ乱れていた。

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