第八章 からまる闇
ホテルで一夜を共にした勝也とマイは、朝になってホテルを出て繁華街のカフェでモーニング・コーヒーを飲んだ。オープンテラスから見える朝七時の繁華街は、人通りもまばらで空気が澄んでいた。
「ごめんなさいね。鳴海さんには、つい甘えちゃって」
マイがちょこんと頭を下げた。朝日のもと、ほぼ素顔で優雅に座る彼女の姿は、まるで清楚な若奥様のように見えた。
「いや、こちらこそ有意義で楽しい時間をありがとう」
「私、矢田さんの死を乗り越えて、前向きに何かできることから始めようと思う」
マイが前髪を、白魚のような指でかきあげて微笑んだ。
「それは良いことだ。前向きに進む事は、物事を解決できる唯一の道だ」
「はい。それにしても、矢田さんのよく話していた杉田さんが亡くなったのは本当に怖いです」
「確かに。杉田真理は、最近になって森宏係長と交際し始めたという噂があったそうだ。その森君が退社して、行方をくらましている」
「ええ、そうなんですか。森さんも、お名前はよく存じています。矢田さんは彼を心から信頼していたようでした」
「そうか」
マイは濃厚な色合いのコーヒーを飲み干すと、何事か考え込むような表情をして外を見た。窓の外では通勤する人たちの数が少しずつ増えていた。
「取りあえず、帰ります。いろいろとありがとうございました」
マイは立ち上がると、勝也にお辞儀した。勝也もそろそろ仕事に行かなくてはいけない時刻だったので、伝票を持つと立ち上がった。
「タクシーで送ろうか」
勝也はカフェを出ると、マイに言った。
「いえ、自分で帰ります。ここからそんなに遠くはありませんから」
朝九時十分前に、奈津美はナルミコムに出勤した。勝也はまだ出社していなかった。
「あれ? 今日は木曜日?」
受付を通ると、デスクにいたシステムエンジニアの鈴木耕平が嬉しそうな声を上げた。奈津美が定期的に朝からナルミコムに出勤するのは木曜日だったからだ。
「今日は急ぎの仕事があるの。鈴木さん、小一時間ほど付き合ってくれない?」
黒のスーツを着た奈津美が、鈴木にお願いした。
「柘植さんのお手伝いなら喜んで。ただし、僕は昼から根本商会に行かなくてはいけません」
「大丈夫。ちょっとだけ、日光金属に行きたいの。ついてきてくれない?」
「ああ、あそこは大変なことになっていますね。いいですとも。大急ぎで車を出します」
鈴木は受付カウンターの引き出しから社用車の鍵を取り出すと、さぁとばかりに先を立って歩き出した。階段を降りる途中で、事務員の安藤恵子とすれ違った。
「柘植さんと日光金属に行って来る」と鈴木が言うと、恵子は「それは、ご苦労さまです」と明るく微笑んだ。
階下の駐車場に停まっている白くて飾り気のないライトバンに二人で乗り込むと、鈴木が朝の街へと車を出した。
「日光金属で、何をするんです?」
鈴木が無邪気な表情で訊いた。彼の長めの髪が、朝日に映えた。
「コンピューターの中身を調査したいの」
「中身?」
「そう。死んだ矢田課長と杉田真理さん。……あ、それから、いなくなった森係長の分もあるから、合計で三台ね」
「杉田さんも亡くなったんですってね。ショックだなぁ」
鈴木が少し沈んだ声で言った。
「矢田さんと杉田さんは、どういう関係だった?」
鈴木が何か知らないかと思い、奈津美は尋ねてみた。
「よい関係だったと思います。僕は、二人とも好きなだったなぁ」
鈴木が運転しながら答えた。
「……矢田さんって、すごくもてるんですよ。各所に彼のファンがいましたからね」
思い出したように鈴木が続けた。
「ふーん。杉田さんも、矢田さんのファンだったのかしら?」
「そうでしょうね。彼の仕事を献身的に支えていました。寝ずに頑張って仕事をしていたこともありました」
「そうなんだ」
奈津美はふと、杉田と矢田がただならぬ関係ではなかったのかと疑った。同時に、何だか猜疑心が強くなった最近の自分にふと嫌気もさした。
「普通の上司と部下以上の絆を感じました。……もっとも、森さんも杉田さんと同じように必死で矢田さんを支えていましたから、あの部署は半端でない結束力があったのでしょうね」
鈴木が、感心した口調で語った。
やがて車は日光金属に着いた。職員駐車場に車を停めると、二人は開発部のあるビルに入った。
三階のオフィスに入ると、一番手前に座っていた女子社員に「少し矢田課長のパソコンを調べたいの」と断った。上席にいた少し青白い顔をした加藤主任が、こちらにやってきた。矢田と森がいないために、この時点で開発部の一番上の人間が彼だった。
「どういった御用件でしょう?」
加藤はうやうやしく、奈津美と鈴木に訊いた。
「職場での過重労働や人間関係に問題がなかったかどうかの調査です」
奈津美が、真面目な顔つきで淡々と言った。こういう嫌な役目は、事務的に淡々とやるに限ると奈津美は考えていた。
「どうぞ」
加藤がそう言うが早いか、奈津美と鈴木は三十畳ほどの部屋の窓際にある矢田課長の席に座った。
「矢田さんのコンンピューターにはロックがかかっているの。それを突破してメールを見てくれない?」
すぐ横に座った鈴木に、奈津美は小声で指示してメモリースティックをコッソリ手渡した。コンピューターエンジニアの鈴木なら、そういう芸当ができると思ってここまでつれてきたのだ。
「お安いご用ですが、何を知りたいのです?」
鈴木がさっと表情を引き締めると、奈津美に小声で訊いた。
「矢田さんと杉田さん、森さんとの交信内容。それと外部の会社からのコンタクト」
「外部の会社?」
「矢田さんは他の会社からヘッド・ハンティングされそうだという噂があったの。最近の分だけでいいわ」
奈津美は鈴木に指示しながら、矢田のデスクの書類入れから最近の彼の仕事ぶりを示す資料集めに取りかかった。
「コンピューターのカレンダー機能に、矢田さんの日程表を見つけましたが、それも要りますか?」
ものの五分もしないうちに、鈴木が奈津美に言った。さすが鈴木だと思ったが、同時にロックをかけたコンピューターがこうも簡単に破られるのかと、驚きもした。
「ここ二カ月分だけでも、あると助かる。あと、できれば杉田、森のコンピュータにも侵入してメールをチェックして」
奈津美が答えると、鈴木はオーケーと軽く微笑んでから作業を続けた。
デスクで手書きの仕事ノートを見つけた奈津美は、パラパラと中身を読んだ。この二カ月間の矢田順也の仕事ぶりは過密だった。
朝から三十分間、研究員や森、加藤たちとミーティングしてから実験か結果分析に取りかかる。週に二回は社内の会議に出席し、その他に進捗状況を斉藤取締役に逐次報告していた。実験は深夜までかかることが週に二三回あり、その他にも材料納入業者や下請け企業との折衝が連日のように夜の街で行われていた。
要所を奈津美は目立たないようにコンパクトデジタルカメラで素早く記録した。ここにいる社員たちに、必要以上の調査をしているのではと疑われる前に立ち去りたい。記録の整理は後でいい、と考えていた。
「できました」
三十分あまりで、鈴木がメモリースティックを矢田課長のコンピューターから抜いて奈津美に返した。
「じゃあ、行きましょう」
奈津美はにっこり笑うと立ち上がって、鈴木と二人で加藤主任のデスクに行き「ありがとうございました」と頭を下げてから、開発部のオフィスを出た。
「仕事が早かったのね」
駐車場まで隣を歩く鈴木に、奈津美が言った。
「矢田さんと杉田さん、森さんの三人はあまりメールをやり取りしていませんでしたから」
鈴木が事もなげに答えた。
「そうなの」
奈津美は、自分の調査が前進しないかもしれないなと思い少しガッカリした声を出した。
「でも、矢田さんをヘッド・ハントしようと誘う英文メールが数通ありました」
奈津美を元気づけようとしてか、鈴木が明るい声で言った。
「英文?」
すると、矢田を狙っていたのは海外企業、ゼネラルメタル社か?
自分たちより優れた相手を見つけて勝ち目がないと思うと、今度はそれを丸ごと買い取ってしまう超合理主義。彼らならやりそうなことだと、奈津美は感じた。有力な製品を持った企業が、会社ごと買い取られてしまう事例も特に海外で増えていると聞いている。
「僕は、これから根本商会の業務に行きますが、柘植さんはどうします?」
鈴木が車の前で、奈津美に訊いた。
「そうね。これから大学の研究室に戻らないといけないから、最寄りの地下鉄の駅まで送ってくれない?」
「ええ、よろこんで」
鈴木が白い歯を見せて笑った。
大学に戻って仕事を済ませて夕方になってから、奈津美は自分のデスクで鈴木が取ってくれた矢田順也のパソコン・データを縦覧した。メールには、杉田真理や森宏とのやり取りはほんの少ししかなかった。海外からの英文メールは、奈津美の予想通りゼネラルメタル社から数通きていた。
ゼネラルメタル側は矢田順也に、開発中の新素材を我が社で、潤沢な資金と環境の下で進めて欲しい。人員もそちらの希望通り揃えるし、あらゆるサポートを惜しまないという内容だった。
それに対して矢田が具体的な問い合わせや問題提起をすると、また解答が来るやり取りが生々しくつづられていた。
ふと気がつくと六時を過ぎていて、研究室の中には人がほとんどいなくなっていた。奈津美の携帯電話が鳴った。従兄の卓司からだった。
「なっちゃん、メールは見てくれた?」
開口一番、卓司が言った。昨晩、彼が送ってくれたメールに返信していなかったことを、奈津美は思い出して詫びた。
「ごめんね。あれからバタバタしていて」
「いいよ。今までの聞き込み情報などを伝えようと思ってさ」
「ありがとう」
「死んだ杉田真理は、森宏係長から交際を申し込まれていたそうだ。彼女も満更ではない雰囲気だったと、二名の社員が話している」
「へー」
「それと真理と親友だった高校時代の同級生は、彼女はそれまで妻子ある男性と付き合っていたが、最近になって独身男に言い寄られていると、嬉しそうに語っていたそうだ」
「なるほど」
奈津美は深くうなずいた。才色兼備な杉田真理に、自分の抱いていたイメージが合致したからだ。
「なかなか奥さんと別れてくれない交際相手に、真理は徐々に愛想を尽かし疎遠になっていた。そこに独身男からのプロポーズがあったので、踏ん切りがついた。話を総合すると、こんな風だったと思われる」
「その不倫相手は誰なの?」
「それが、わからないんだ。真理の家を捜索しているから、これから何か出てくることを期待している」
「そう」
男女の仲とは昔から、押せば引いて引けば押し寄せる波のように流れる。真理が押した相手は引いて、代わりに森が真理を押してきた。
奈津美は卓司との電話を終えてから、窓の外を見たら真っ暗になっていた。明日は朝からナルミコムの仕事だ。今夜は早く寝よう。
奈津美は暗闇の中で、仕事の残りを一時間ほどで片づけてから研究室を出て帰路についた。