第七章 まどろみ
火曜日の朝は曇り空だった。七時半に自宅のワンルームマンションから、大学に出勤しようと地下鉄の駅に向かっていた柘植奈津美の携帯電話が鳴った。
電話は従兄の柘植卓司からで、矢田順也死亡事件に何事か進展があったのかと奈津美は急いで電話に出た。
「なっちゃん、昨日の晩に日光金属の社員が自宅マンションから転落して死んだのを知ってる?」
卓司のまくしたてる声が耳に飛び込んできた。奈津美は「一体、どういうことか?」と一瞬、頭の中が真っ白になって歩道の脇で立ち止まった。
「誰が、死んだの?」
やっとの思いで奈津美は訊いた。
「亡くなった矢田課長の実務を担当していた、杉田真理というOLだ。愛知県警の友達が知らせてくれた」
「どうして死んだの?」
「まだ捜査中で、わからない。その様子だと、なっちゃんは詳しい情報を知りたいようだね」
「ええ、お手数をかけるけど、出来る範囲でお願い」
「わかった。これから仕事だから、何かわかったら連絡する」
「うん、私も仕事があるから携帯でもメールでも情報が入り次第、入れておいて欲しいな」
「ああ、わかった。じゃあ、また」
卓司が軽く笑って電話が切れた。
奈津美は歩道の脇でしばらく呆然と立ち尽くしたが、やがて思い直すように携帯をしまうと地下鉄の駅に急いだ。自分の研究室に置いてある日光金属の社員ファイルを、急いで見たいと思った。
大学の研究室に駆け込むと、日光金属のバインダーを大急ぎで開いた。今日の奈津美にはあいにく、学生の講義や研究会の打ち合わせなどで日程がぎっしり詰まっていて、あまり時間がなかった。
「あった!」
分厚いバインダーの中から杉田真理のページを見つけて、奈津美は思わず小声で叫んだ。
彼女は地元の国立尾張大学経済学部を出て入社五年目の二十七歳で独身。四年前から矢田順也の属する開発部に配属され、経理から薬品や材料の調達などを担っていた。
奈津美は一度だけメンタルヘルスの面接をしたことがあったが、背が高く目鼻も整った顔つきでスラリとした女性だった。受け答えはキビキビとして感じもよく、何か問題を抱えているようには見えなかった。
ただ、これほど才色兼美な女性が、結婚していないのには少しだけ違和感を覚えた。異常に理想が高い女なのかもしれないし、そうでなければ忘れられない男がいるとか、案外ヒモ的なダメ男に尽くしているとか、どうにもならない不倫関係の相手がいるとか、想像できないプライベート事情を抱えていることも考えられる。心理士の仕事についてからの奈津美は、少々のことでは驚かなくなっていた。
杉田真理と同い年の自分はどうなんだ?
ふと奈津美は、そんなことも自問自答した。いや、大学院を出た私は杉田さんより仕事のキャリアが短いし器量も劣ると、奈津美は自分で自分に言い訳をした。
午前中の大学一年生に対する「フロイトと精神分析」の講義は、学生たちが熱心に聴いてくれた。他人に教えるということには、その準備に何十倍かの時間を要する。奈津美のその努力が若者たちに伝わると、報われた気分がする。時には、学生から教えられることもある。そうやって自分が、そして学問自体が少しずつ進化してゆく気がする。
研究室に戻った奈津美は、デスクのパソコンを立ち上げた。卓司と鳴海勝也から一通ずつメールが着ていた。
まず、卓司からのメールを読んだ。
杉田真理は昨夜、七階にあるマンションの自室から直下の路地に落下して死亡した。通りかかった帰宅途中のサラリーマンが午後十一時五十八分に、アスファルト上で死んでいる杉田真理を発見した。
複数の周辺住人が大きな物音を聞いた十一時四十五分頃が、彼女の死亡時刻と推定された。真理の自宅は内側から施錠されていたので、今のところ自殺と推定されるが裏づけ捜査を開始した。矢田順也死亡の捜査の方は、新たな情報はなく進展はないみたいだ。
奈津美は卓司からのメールを読み終えてから、ふぅとため息をついた。続いて勝也のメールに目を通した。
矢田課長の腹心、森宏係長が突然退職した。彼のアパートを訪ねたが、すでに引き払った後で消息をつかめず困っていると短く書かれていた。
奈津美はパソコンの画面を見つめたまま動けなかった。矢田順也が死んだ後、彼の仕事上の重要人物であった二人が共にいなくなったことになる。確かに勝也の仕事も困るが、果たしてこれは偶然なのだろうか?
ふと時計を見ると、午後一時から中央駅前にある看護専門学校へ心理学の講義に行く時刻が迫っていた。売店でパンでも買ってから地下鉄に乗ろうか、中央駅にあるファーストフード店で何かお腹に入れようか。迷いながら、講義用の資料をカバンに詰め込んで、奈津美は立ち上がった。あっと言う間に時間は過ぎた。
奈津美は夜の九時に、ようやく自宅に帰ってからシャワーを浴びた。もう寝ようかと思ってパソコンを開いたら、勝也と卓司からメールがきていた。卓司のメールには添付資料付きを示すマークが付いていたので、思わず先に読んでみた。
杉田真理のマンションのエレベーターに設置されている防犯カメラに怪しい人物が写っていた。なっちゃんの目で見て欲しい。それと、彼女の携帯電話が見当たらないので捜査中。と、簡単な文面のメールだった。
添付された写真を開いて見た奈津美は、あっと声を上げ凍りついた。そこには白っぽいハーフコートに黒いブーツをはいた人物が、上方から撮られていた。帽子を目深にかぶっているが、矢田順也が堀池駅で死んだ時に一緒に写っていた女性にそっくりだった。
これはいったい誰で、どういうことか?
奈津美の頭は激しく回転した。とにかく、この女性が誰であるかを究明すべきだ。どこから始めよう……
続いて開いた勝也からのメールには、杉田真理が死んだことが簡単に報告されていた。
それからパソコンの前で動けずじっと考えた奈津美は、まず矢田順也と杉田真理の交友関係を探ろうと思いついた。幸い、明日は午前中、自分の仕事が空いている。七月に行われる精神分析学会の資料を作るつもりだったが、後回しにしよう。そう考えたら、いつの間にか奈津美はまどろんでいた。
一方、鳴海勝也は夕刻から日光金属の重役室で斉藤取締役と会っていた。
「杉田君が死んで森君までいなくなっては、矢田君が開発していた新素材の完成は絶望的だ」
斉藤が、白髪頭をかかえるように言った。
「嘆いてばかりいても仕方ありません。彼らが研究した資料や資材はそのままあるのですから、それを利用してできるだけ早く完成に持ち込めるようにしましょう」
勝也自身も相当なショックを受けていたが、ここで自分が沈んでいてはいけないとばかりに斉藤を力づけるように声をかけた。
「ああ」
斉藤は力なくうなずいた。彼の反応から、矢田たちがやってきた仕事は誰にでもできるような種類ではないことを示していると、勝也は感じた。
「大至急、森君を探しましょう」
勝也が斉藤に、新たな提案をした。
「今、探している。警察も彼の行方に重大な関心を示しているようだ」
自分は日光金属の仕事ばかりを考えていたが、なるほどと勝也は思った。矢田が堀池駅で死に、次いで杉田が死んでいる。その直後から姿を消した森が、何らかの事情を知っていると警察はにらんでいるのだろう。
「ところで斉藤さんには、森君の居場所について何か心当たりがないのですか?」
勝也が、念を入れるように尋ねた。
「警察にも散々きかれたがね、皆目わからないのだよ。ただ……」
斉藤はそこで言葉を切った。
「ただ?」
黙ってしまった斉藤に、勝也は問いかけた。
「うん。プライベートなことだが……、森君は杉田君に交際を迫っていたとか、二人は付き合い始めていたという噂があった」
「えっ、森宏と杉田真理が付き合っていた?」
いつも矢田の影のように活躍していた二人だったので、勝也自身も彼らともよく顔を合わせていた。しかし、その二人が交際しているとは、今の今までまったく思ってもみなかった。
「単なる噂だから本当かどうかわからないし、それが今回の事件と関係があるかどうかもわからない。でも、その噂が本当だとすると、森君は尊敬する矢田君を失い、好きだった杉田君も失い絶望して会社を辞めたのだろうか?」
そう言い終わると、斉藤がまた頭をかかえた。
日光金属から会社に戻ろうと、勝也は外に出た。時刻は六時を過ぎていたが、まだ明るかった。携帯を出すと、マイからメールがきていたので急いで文章を読んだ。
『昨夜はありがとう。話を聞いてもらって少し楽になりました。また会えると嬉しいです』
昨夜のマイとの甘美なひと時を思い出して、勝也の頬と身体が熱くなった。メールの着信時刻は五時だった。まだロゼへの出勤前の時間帯だろうと、思い切って彼女に電話をかけてみた。八回目のコールで、彼女は出た。
「大丈夫か?」
勝也が言うと、マイは明るい声で「うん。ありがとう」と答えた。
「今から仕事?」
勝也は、思い切って訊いた。
「いえ、今日はお休みよ」
「……飯でも食うか」
「いいわよ。何時にどこ?」
「……七時に中町ではどうだ?」
「はい」
マイが即答した。勝也は内心、嬉しかった。
「じゃあ、……地下鉄の中心街駅南口で」
「わかったわ。準備したら出かける」
マイが二つ返事で答えた。
それから大急ぎで帰社した勝也は、車を会社の駐車場に置いてから地下鉄に飛び乗った。
ホステスはお客を誘って店に出る「同伴出勤」を店側から推奨される。飲み屋が開店直後の夜の早い時間帯を埋めるための、昔からある営業活動の一環だ。つまりホステスと夕方に待ち合わせ、夕食を伴にしてから八時頃までに勤めているクラブやスナックに入ってやる。店は喜び、ホステスの立場もよくなる。
一方でホステスが閉店後に客と飲みに行ったり食事に行くのは、「アフター」と呼ばれる営業行為だ。ホステスは店外での付き合いで顧客との友好を深めて、また来店してもらおうという目論む。
昨夜のマイの行動は、広い意味でのアフターとも考えられるが、今夜の彼女の行動は単に自分と食事に行くだけで同伴出勤はしない。割に合わないことをされると、やはりマイは自分に気があるのかと思ってしまう。男とは、そんな単純さを持っていると、勝也は改めて思う。
夕方のラッシュで混みあう地下鉄の車内で、勝也はしばし考えた。マイは自分に好意は持っている気がしたが、それ以上の仲になるのは望んでいない感じがする。理由はうまく説明できないが、夜の街で百戦錬磨のマイはそんな簡単に自分に落ちる女ではない気と思う。何か目的でもない限り。
約束の場所に、薄い紫色のワンピースを着たマイが立っていた。勝也を見つけると、マイはニッコリほほ笑んで、「近くに前から行きたかったイタリア料理店があるの。連れて行ってくれる?」と甘えた声で言った。勝也がうなずくと、マイは携帯を出して「今から二人で」と、目的の店を予約した。
外はまだ明るかった。大通りには車やタクシーがひしめき合い、歩道も人通りが多かった。モデルのようなマイを連れて歩く勝也は、何となく誇らしかった。今夜のマイは清楚ないでたちでホステスには見えず、百七十三センチの自分と彼女の目線が同じくらいに思えた。
「マイちゃんは良いスタイルをしているよな。背は何センチあるんだっけ?」
「何を今さら。百六十八センチよ」
「俺より背が高いかと思った」
「ヒールのせいじゃない?」
彼女の足元を見ると、革製のヒールをはいていた。
マイはレストラン情報を豊富に持っている。今から行くお店は料理の他、赤ワインの豊富な品揃えが売りなのと、彼女は説明した。二本めの交差点を左に折れて少し歩くと、ビルの二階にその店があった。階段を上がって洒落た木の扉を開けて店に入ると、二人は奥の静かな四人掛けの席に案内された。
「私、ワインは基本的に辛めのが好き。鳴海さんは?」
「俺もだよ」
やって来た若いボーイとマイとが相談して、良さそうなワインを選んでくれた。料理は本日のコースを頼むと、間もなくグラスに満たされた赤ワインが運ばれてきた。
「赤ワインの中でも若いのは淡白で青くてダメ、程よく熟して濃いのが好きだわ。男も同じね」
二人で軽く乾杯してから、マイは言って色っぽく微笑んだ。こういう時の彼女の顔はゾクッとするほど妖艶だ。昨晩の彼女を思い出した勝也の身体が、また少し熱くなるのを感じた。
コース料理も終盤に差しかかり、メイン・ディッシュの肉料理が出た頃、「今の仕事って、いつまでもできる事じゃないのよね」と少し酔った様子のマイが言った。二人は三杯目のワインを飲んでいた。
「それはそうだよね」と、あくまで平静を装って勝也は答えたが内心はドキッとした。彼女が何が言いたいのか、問いたかった。
「私が仕事を上がっても、仲良くしてくれます?」
マイの言葉に勝也はエッと驚きつつ、口では「うん、喜んで。でも、どういう意味?」と答えた。
「何と言うか……、私が上がったら鳴海さんとはハイ!それまでっていうのは嫌なの」
「そう言われると嬉しいし、光栄だな。ありがとう」
でも、どうすればいい?と勝也は具体的に訊きたかった。彼女の真意を測りかねた。
イタリア・レストランを出て、繁華街の裏通りを二人で歩いていくと洒落れたラブホテルがあった。二人とも飲み過ぎていたので、「少し休んでいこう」と勝也が冗談めかして言った。勝也とからみ合うように歩いていたマイは、「いいわよ」と妖しく微笑んだ。
そのホテルの中は、意外に大人しい造りのきれいな部屋だった。マイは、「酔いざましに、お風呂に入ってくる」と言って浴室に消えた。やがてザーザーとお湯を流す音が聞こえた。
勝也はソファに座って、冷蔵庫からミネラルウオーターを出すと、ボトルの半分ほどを一気に飲んだ。十分ほどしてマイが裸体にバスタオルを巻きつけて、浴室から出てきた。入れ替わって勝也がシャワーを浴びた。
浴室を出ると、マイがベッドの上に横たわってテレビを見ていた。彼女は勝也を見て微笑むと、彼を迎え入れた。マイは昨夜以上に妖艶に貪欲に勝也を求めた。勝也も彼女を求めたが、マイは攻めても攻められてもどこまでも素晴らしかった。マイの上で果てる直前、勝也は彼女の体内に吸い込まれそうに感じた。そして彼女の中で思い切り昇天したら、自分の身体ばかりでなく魂までもマイに絞り取られたような気がした。
ベッドの上で、しばらく二人は息を切らして抱き合っていた。
「私たち、身体も合うみたいね」
しばらくしてマイが、つぶやくように勝也の耳元で言った。勝也は、黙ってうなずくとマイに口づけをした。マイがバスローブをまとって立ち上がった。
「コーヒーがあるから、淹れましょうか?」
マイが壁際にあるポットの前で、勝也に振り向いた。
「緑茶はないかな?」
ベッドの中から勝也が尋ねた。
「あるわよ。淹れるから、ちょっと待ってて」
マイが小さな食器棚からカップを二つ出して、甲斐甲斐しく飲み物の準備をしていた。勝也もバスローブをはおって起き上がると、ソファに腰かけた。
その横に二つのカップを持ったマイが、テーブルの上にゆっくりカップを置いてから座った。ゆっくりお茶を飲んだら、落ち着いた空気が二人を包んだ。
「ねえ、日光金属の新製品がダメになったら、どうなるんです?」
マイが素朴な質問を勝也にした。
「そうなだ。はっきり言って日光金属は厳しい。このままだと潰れてしまうか、他の大手に飲み込まれるかもしれないな」
「他の大手って?」
「アメリカのゼネラルメタルとか、日本の東邦金属あたりかなぁ」
「吸収されるってこと?」
「最悪の場合は、そうなる」
勝也の言葉を聞いたマイが、温かいお茶の入ったカップを持ったまま何か考え事をしていた。
「矢田さんは、どうして死んだのかしら?」
マイがポツンと言った。
「マイちゃんは、どう思う?」
矢田と親しかったマイは、何かを知っているかもと勝也は思っていた。知っているなら、ぜひ聞きたかった。情事の後の寝物語で、秘密がもれることは古今東西よくある話だ。
「彼は、まったく死ぬ理由がない人間なのよ」
マイがため息をついた。
「どういうことかな?」
「彼は他の会社からも誘いを受けていた。新製品を開発する高い能力を持つ彼は、日光金属に留まろうと他の会社に移ろうと成功が約束されている。つまり、彼には死ぬ理由がまったくないの」
マイから言われてみれば、そのとおりだった。矢田順也は有能な開発者だった。
「矢田順也は、会社を移るつもりだったのかなぁ?」
勝也は独り言のようにつぶやいた。
「そうだったと思う。なのに、どうして……」
マイがそう言って、勝也の裸の胸に顔をうずめた。勝也は彼女の肩をやさしく抱いた。マイの肩を撫でながら、勝也は考えた。
マイの話では、矢田順也が自殺する理由はない。そうだとすれば、矢田が他社に移っては困る人間が暗躍してはいないだろうか?
そこまで考えた時、勝也は何だかゾクッと身震いした。
「そうそう、矢田順也の部下である杉田真理というOLが、昨夜マンションから転落死した」
勝也がそう言うと、マイがビックリした表情で顔を上げた。
「どうして?」
「わからない」
「何だか、怖い……」
マイが勝也に身体を重ねてきた。
勝也は再び魅惑的な欲望の渦に巻き込まれてマイを抱いた。彼女も何かを忘れようとするかのように必死に勝也に抱かれた。
情欲を激しく果たしきった二人は、それから朝まで一緒にベッドの上でまどろんだ。