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第六章 めくるめく夜

 月曜日の夜十一時、鳴海勝也は繁華街のクラブ「ロゼ」に入った。週始めのせいか、店内には二人連れのサラリーマン風の客が二組いるだけだった。

「いらっしゃい。この間は御馳走様」

 奥のボックス席から出てきた和装の夕子ママが、勝也ににこやかに言った。

「ああ、こちらこそ」

 ここで飲んだビールは、確かにママが御馳走してくれた。その後の焼肉屋の方が出費は大きかったが、一応勝也はそう返事をして苦笑した。

「マイちゃんを呼んでくれないか」

 入口に近いカウンター席に座った勝也は、ママにそう言った。

「何だ。マイちゃんにご用なの。私に会いに来たんじゃないんだ」

 ママは口をとがらせて、すねて見せた。

「いや、もちろんママに会いに来たんだ。だけど、マイちゃんとも話したいんだ」

 そんな言い訳をする勝也に、ママはフフと笑ってウイスキーの水割りを作って静かに置くと席を立った。間もなくマイが、勝也の横にヒラリと座った。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

 スラリとしたマイが、勝也に愛想よくあいさつした。かつて在籍したキャバクラでナンバーワン嬢だったこともあるというマイは、綺麗なだけでなく華やいだ雰囲気も併せ持つ女性だった。どんな相手でも楽しませる機転と、その上に社会常識や知識もあって夕子ママからも重宝がらていた。

「ああ、こんなご時勢だから接待は激減したけど、お陰で元気だよ」

 マイに引き込まれるように、勝也も笑顔になって答えた。

「やだわ、どうして接待が減って元気なんです?」

「酒を飲まずに早く帰って寝ているからかな」

「家では飲まないんですか?」

「家ではビールを少し飲むくらいだよ」

「へー、鳴海さんは酒豪かと思ってました」

「ハハハ、ここだと美人がお酌をしてくれるから、ついつい飲みすぎる」

 たくさん飲ませてボトルを開けさせないと、店の売り上げが伸びなくて困るだろうという、無粋な事を勝也は言わなかった。

「美人のお酌だなんて、まったく鳴海さんはお上手なんだから」

 マイは色っぽく笑うと、勝也の肩を軽く小突いた。すかさず「私もいただきます」と勝也のボトルから薄い水割りを、自分用の小さなグラスに作った。

「何かにつまづいた時に、君ならどうやって立ち直る?」

 勝也はマイに、矢田順也を失ってどう思うかと婉曲に尋ねた。ママの話からマイと矢田が付き合っていたかもしれないと思ったが、確証はなかったので探りを入れてみたかった。

「そうですね……。仕事でつまづいたなら、新しい仕事を。男でつまづいたら、新しい男を探します」

 マイは勝也の真意を知ってか知らずか、軽い笑みを返した。

「なるほど。さすがマイちゃん。どこかの本で読んだストレス解消法に、そう書いてあったのを思い出したよ」

「と言いますと?」

「つまり、仕事で受けたストレスは仕事で、ゴルフがうまくいかなかったストレスは、ゴルフで良い結果を出すしか真の解消できない。酒やギャンブル、趣味に没頭しても、ストレスから逃避するだけで正確な意味での解消はできないそうだ」

「うわぁ、さすが社長さん、勉強になります」

 マイは感心したようにうなずいた。

 二人の座るカウンターの前にはボーイが立ち、お酒を作ってくれた。

 勝也はマイに矢田順也のことをもっと聞きたかった。しかし今夜のロゼは賑わっていて、マイが他の客の席に移ったり戻ったりしている間に時間が過ぎて閉店時刻の午前零時になってしまった。

 いつの間にか勝也の隣の席にはマイが戻り、カウンターの前には客を見送ったママが戻ってきた。

「腹が減ったから、帰りにラーメンでも食べに行こうよ」

 勝也が、マイとママに言った。前に二回ほど、ママとマイの三人で店がはねた後に食事をしたことがあった。

「わー、私もお腹がすきました。行きます」

 マイがすぐに答えるや、帰り支度をしに店の奥へ急いで消えて行った。

「ママは?」

 カウンターに立つママに、勝也は尋ねた。

「私はいいわ。今夜はまだ会計ができてなくて、今からやらなくちゃ。マイを送ってもらえると、うちも足代が助かるしお願いね」

 ママが微笑みながら手を合わせて軽く両膝を折った。ママと知り合って八年近く経つが、夜の街のイロハを教えてもらった師匠として、勝也は夕子ママを尊敬している。

「ママが助かるなら、お安い御用だよ」と勝也は軽くうなずいて答えた。

 間もなくコートをはおってバッグを持ったマイが、店の奥から出てきた。


 マイと連れだって、クラブ「ロゼ」から程近い場所にある手狭なラーメン店に入った。店は深夜にも関わらず、「お水」の関係者などで混雑していた。運良く二人は、狭いテーブル席に座ることができた。

「ラッキー」と明るく席に着いたマイは、勝也とメニューを見た。間もなく水を持って来た店員に、マイがラーメンと野菜炒め、ビールをテキパキと注文した。

「あ~、やっと落ち着きましたね」

 彼女は一口コップの水を飲んでからバッグを開け、マルボロ・メンソールとライターを取り出した。勝也はそのライターで彼女の煙草に火をつけてやった。

「ありがとう。鳴海さんは、吸わないんです?」

 一服し紫煙を吐き出してから、マイは勝也に尋ねた。

「うん、俺一応まだ禁煙中だし……」

「へー。あれ? 何だか私、邪魔しちゃってますか?」とマイが少し悪そうに言った。

「そんな事ないよ。じゃあ、一本貰おうか。これでマイちゃんも気楽に吸えるだろ?」

 酔いも手伝ってか、勝也は彼女に煙草を一本もらって吸った。いや、吸ってしまった。マイはその様子をニコニコしながら見ていた。煙草のせいだろうか、勝也の頭が少しクラッとした。何だかマイに吸い込まれてしまいそうな気がした。

 吸った煙草はまずくなかった。いや、うまいと感じたくらいだった。一体いつになったら煙草がまずく感じるようになるんだろう?と勝也は少し苦々しく思った。

 マイとの食事は楽しかった。彼女は、最近この近くにイタリアン・レストランがオープンした。シェフはイタリア人で、ワインも本格的らしい。都合がついたら是非連れて行って下さいねと、勝也の男心をくすぐるように誘った。

 こんなイイ女に誘われた男は、悪い気分はしない。女と煙草という魅力的な誘惑に、勝也は「マイは小悪魔だ」と心の中でつぶやいた。


「日光金属の矢田は、どこかに転職しようとしていたのかな?」

 食事も終わって煙草をもう一服吹かしてから、何気なく勝也はマイに言った。ようやく、本題に入れた。

 一瞬、マイの表情がこわばったが、すぐに「アメリカに行きたいような夢を語っていましたね」と笑顔で答えた。その瞬間、矢田を引き抜こうとしていた会社はアメリカのゼネラルメタル社だと、勝也は直感した。

「やだ、鳴海さんには何故か何でも喋っちゃう。あなたには何でも言えて、何でも聞いてくれる気がする。前から」

 少しだけ、マイはうつむいた。彼女の顔から営業スマイルが消え、愛らしい表情をした。

「話してくれてありがとう」

「いいんです。私は鳴海さんを好きです」

「ハハ、ありがとう」

 勝也はマイのストレートな言い方に、年甲斐もなく照れた。

「鳴海さんは私の事を好きですか?」

「嫌いな女と食事なんかしない」

「じゃあ、またどこかに連れて行ってくれますか?」

「ああ、行こう」

「約束ですよ」

 マイと勝也は、深夜のラーメン店で指切りをした。


 食事が終わって店を出る頃には、二人ともかなり上機嫌になっていた。店を出るとマイは少し潤んだ目をして、勝也に抱きつくように寄り添ってきた。彼女の程よく膨らんだ張りのある胸、艶のある瑞々しい肌を身体で感じながら、勝也はタクシーのいる大通りの方へ歩いた。

 「もう一軒飲みに行こう」と言って誘えば、間違いなくOKされそうだ。アタックすれば、そのままホテルへ連れ込める可能性も高い雰囲気だ。いっそこのままマイと流れに身を任せてしまおうかと、勝也は少し揺れながら手を上げてタクシーを止めた。

「私が先に降りるから」

 勝也を先にタクシーに乗せたマイは、後から勝也の左側に乗り込んできた。彼女は勝也と目が合うと微笑んで、勝也の左腕を自分の左肩にさり気なく誘導した。それから両手を勝也の身体に巻きつけるようにして、大胆に抱きつき身体を密着させてきた。

 勝也は自分の左胸の上に来たマイの頭に左頬を寄せると、この魅惑的な小悪魔の誘いにフラフラと吸い込まれそうだった。酒と煙草と男と女、そんな唄はなかったっけ……

 でも、このままマイに吸い込まれてしまうのも悪くない。甘美な誘いに乗らない手はない……

 彼女のしなやかな肉体、温もり、匂いを感じながら、勝也は身も心もマイに溶かされてしまうような気がした。

「もう少し飲んで帰ろう」

 勝也が、自分の胸の上にいるマイにささやいた。マイは頭を上げて勝也の目を、潤んだ瞳で黙って見上げた。

「運転手さん、日光ホテルへ」

 その勝也の声を聞いて、マイは再び勝也に身体をあずけた。イエスという返事を身体で表した。


 深夜の大通りをタクシーはスイスイ走り抜けた。摩天楼のようなビル群がそびえる中央駅に着くと、一つの高層ビルに車は横づけされた。制服を着たドアマンが駆けよって扉を開けた。

「いらっしゃいませ。ご宿泊ですか?」

 中年のドアマンが笑みをたたえて尋ねた。先に降りたマイが、勝也の手を取った。

「ああ。でも、予約はしていない」

 タクシーから降り立った勝也が答えた。

「では、フロントへどうぞ」

 案内されたフロントで尋ねると、スイートルームが空いていた。時間が遅いのでダブルルームの値段でいいと、フロントのホテルマンが慇懃に言った。勝也はルームキーを受け取ると、二人で二十五階までエレベーターで一気に昇った。

「すごく良いお部屋」

 部屋に入るとマイが、はしゃいだ声で言ってベッドの端に勢いよく腰かけた。

 勝也は隣に座ると、マイを抱きしめた。唇を重ねたら、もう本能のブレーキはきかなかった。互いが求め合うように身体を重ねた。

 マイは素晴らしかった。白い肌をした艶めかしい肢体に、変幻自在のテクニックを持っていた。勝也は彼女に翻弄され惹きこまれ求めた。マイも勝也を激しく求め、何度も極みに達した。

 勝也が果てた後、全裸の二人はそのままの姿勢でしばらく動けなかった。

「ありがとう」

 しばらくして、マイがポツンと言った。少しもうろうとしていた勝也の意識が、現実の世界に引き戻された。

「俺こそありがとう。君は素晴らしい」

「……私、実は、矢田さんと付き合っていました」

 そう言うと、マイが勝也の胸に顔をうずめた。

「そうかな、とは思っていたよ」

 勝也はマイの肩をやさしくなでた。夕子ママとの話から、ある程度の想定はしていたので驚きはしなかった。

「ごめんなさい。矢田さんが亡くなってしまって、どうしようもなく寂しい時に鳴海さんに誘ってもらえてよかった」

 マイの肩が小刻みに揺れた。彼女は泣いているようだ。

「矢田を愛していたんだね」

 勝也が静かに言うと、マイが小さくうなずいた。

「俺でよければ、何でも聞くよ。話すだけで楽になれることもある」

 勝也はマイの肩を抱きしめた。しばらくしてから、マイが勝也の腕の中で話し始めた。


 矢田さんとは半年前から個人的に会うようになったの。深い仲になったのは四ヶ月ほど前の寒い冬の夜だった。それからの私は、彼と会えば会うほど彼を好きになったけど、好きになればなるほど彼の心の底には私の他に誰かがいることに気がついた。長い間、夜の仕事をしてきたから嫌でもわかってしまう。悲しい性だけど、でもね、好きになった相手を独占したいと思う心は、普通の女と同じよ。

 彼の心の奥にいる別の人が、はじめは奥さんだと思っていたけど、二か月ほど前から違うと思ったの。なぜって訊かれても上手く答えられないけど、例えば彼って奥さんの写真とかをまったく持ち歩いていないの。それに家と会社、そして私と過ごす時間の他に空白の時間が毎日のようにあるの。

 一カ月前から、矢田さんは深く思い悩むような表情を見せる事が多くなったわ。自分はもう飽きられて、見えないライバルに彼を奪われると焦ったわ。私、思わず彼を問い詰めちゃった。そんなことをしたら男の気持ちはますます離れる事くらい承知していたはずなのに、焦るとダメね。

 彼は何もないと言い張っていたけど、私は矢田さんに奥さんと私以外に誰か大切な人がいると確信したわ。それぐらい、わかっちゃう。女なら。

 矢田さんってね、たくさんの男を見てきた私が惚れたくらいだから、ほかに女の一人や二人いたって不思議はないわよね。でも私は、矢田さんの心を奪って離さない誰かが、すごく気になったし憎らしかった。何とかして、その相手から矢田さんを取り戻したいと思ったわ。そして私は、できればずっと矢田さんの愛人でいたいと思っていた。

 でも、彼は死んでしまったわ。


 話したいことを話せてスッキリしたのか、しばらくするとマイは勝也の胸の中で寝息を立て始めた。つられて勝也も少しまどろんだ。

 夜が明けてから、勝也はマイを送った。

 堀池駅の近くでタクシーを降りようとするマイが「ご馳走様でした。本当にありがとう。また会って下さいね」と指きりをしてきた。勝也は何か気の利いた言葉でも言おうと思ったが、敢えて「じゃあまた」とだけ短く言い、指きりが終わると彼女を車から降ろした。

 一人になった勝也は、思わず「何か疲れたなぁ」と小さく独り言を言っていた。きっと俺はマイに惚れられたのではなく、マイの心の隙間を埋めるだけの男だったんだ、と自己分析した。

 タクシーの窓からぼんやりと都会の早朝の景色を見た。矢田の死因を解明して、危機に瀕している日光金属をいかに盛り上げていくか、真剣に考えないといけないと思った。

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