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第五章 早春の朝

 週が明けてから、柘植奈津美は矢田順也の自宅に妻、雪子を訪ねていた。その朝九時前に、勝也から「矢田の奥さんに、カウンセリングがてら会って事情を訊いて欲しい。連絡はしておいた」と電話がきたからだ。

 奈津美はすぐに電話で矢田雪子に会う約束を取りつけると、大学での仕事を大急ぎで済すませてから地下鉄に飛び乗った。市内東部の運動公園近くにある森林を背に建つマンションの三階の四LDKに、矢田一家は住んでいた。

 約束した十一時きっかりに、奈津美は矢田家のマンションに着いた。

「このたびは、本当にご愁傷様です」

 黒いスーツに身を固めた奈津美は、雪子に丁寧に頭を下げた。通された東向きのリビングで、奈津美は革製のソファにきちんと座った。雪子が花柄のティーカップに満たされた紅茶を出してくれると、あたりに茶葉の香りが漂った。

「何かと取り紛れておりまして、三十分くらいしかお時間をとれません」

 少し乱れたショートヘアが、雪子の疲れと心労をにじませていた。

「お忙しいところをすみません。ご主人が自殺だとしたら、過労などの職務上の問題がなかったかを調査しなくてはいけません。メンタルヘルスを担当する私の仕事ですので、失礼をどうかお許し下さい。なるべく簡単にお訊きしたいと思います」

 奈津美は、緊張した相手を解きほぐすように柔和に言った。

「はい」

 奈津美の前に腰かけた雪子の顔色は、青白かった。

「まず、最近のご主人の帰宅時刻を教えてもらえませんでしょうか?」

 奈津美は自分の職務である、職場の問題から質問を始めた。過労による自殺の疑いがあれば、調査して企業全体の再発防止策を講じなくてはならない。

「主人はこの一ヶ月ほど特に夜遅くて、十一時過ぎにしか帰ってきませんでした」

 ゆっくりと雪子が答えた。

「それは大変でしたね。お仕事が相当お忙しかったようですね」

「仕事のことは、私にはわかりません……」

 雪子の表情が少しかげった。やや薄い彼女の唇は、やはり堀池駅のホームで撮られた写真の人物と似ている気がすると、奈津美は思った。しかし、瓜二つで同一人物だと断定もできなかった。

 第一、雪子が夫に自殺を仕向けたり、増してや殺す理由など全くわからない。奈津美は、質問の焦点を変えてみることにした。

「差しつかえなければ、ご主人との馴れそめを教えていただけますか?」

「え?」

 雪子が伏せていた視線を、奈津美に上げた。

「いえ、ご主人の人間的背景を知りたいと思いまして」

 雪子を包み込むように、奈津美がやさしく言った。

 雪子は視線を窓の外に向けた。早春のうららかな太陽の光が、ベランダに注いでいた。

「主人には、父に引き会わされました。私の実家は日光金属の下請け中小企業です。有能な人材がいるからと、父が話を持ってきました」

 雪子はうつむき加減に、一つ一つ思い出すように語った。

「なるほど。その頃、雪子さんは何をなさっていたのですか?」

「大学を出て、父の会社の手伝いをしていました」

「大学はどちらの?」

「精花女子大です」

「伝統ある名門女子大学で、大変な難関校ですね」

「いえ、私は付属女子高校から上がったので大したことはありません。……今から考えると、父は自分の事業に私を利用しようとしていたのではないか、という気がします」

「と、言いますと?」

「私は父の敷いたレールに乗って、大学を出てから父の秘書のような仕事をしておりました。そして、父の仕事が有利になるような相手と結婚するように仕向けられた気がします」

「お父様は、あなたに少しでも幸せな結婚をさせたいとお考えだったと、私は思いますよ。……それで、どれくらいの交際期間を経て、お二人はご結婚なさったのですか?」

「そうですね……。およそ、一年です」

「ご結婚後すぐに、お子様を授かっていますね」

「はい。翔といい、もう三才になります。今は幼稚園に行っております」

「私から見れば、理想のご家庭とお見受けしますが」

 そう奈津美が言うと、雪子の顔に再びチラと影が走った。奈津美はそれを見逃さず、矢田夫妻の関係に何らかの問題があるという疑いを持った。

「ご主人は何か問題を抱えていらっしゃったでしょうか? 気づいたことがあったら、何でもどうぞお話し下さい」

 奈津美が雪子の瞳を見つめ、促すように微笑んだ。

「そうですね……」

 雪子は考えるように口をつぐんで、そして腕組みをした。白っぽいセーターの下に息づく雪子の胸の豊かなふくらみが、奈津美には少しまぶしく感じられた。女の自分から見ても、上品で美しい雪子には何とも言えない魅力が備わっている。

「私は労働者を守る立場で仕事をしています。自分にできることをやって、御主人の死を今後に生かしたい。無駄にはすまいと真剣に考えていますし、個人の事情は絶対に公には致しません。それが私の仕事です」

 奈津美が、しっかりとした口調で雪子に告げた。

「ありがとうございます」

 雪子が涙をこらえるように、唇をきっと結んでから頭を下げた。

「最近になって、御主人は不機嫌になったりイライラしたり感情が不安定になるとか、何らかの性格的な変化でもお気づきであれば教えて下さい」

 奈津美は、自殺しようとする人が表わすサインのうちの数項目をさりげなく訊いた。

「……特に、思い当たることはありません」

 少し間をおいて、雪子が顔をゆっくり上げた。

「身近な人に死なれると、人は後悔や空虚感にさいなまれます。私は微力ながらカウンセラーとしても、雪子さんのお力になりたいと思っております。今後しばらくは、定期的にケアさせていただきたいと思っております。私の名刺を置いておきますので、何かあればいつでもお気軽に御連絡下さい」

 奈津美が自分の名刺をテーブルの上に置いて、やさしく言った。

「ありがとうございます」

 雪子はその名刺を受取ると、それを胸に抱えるようにした。

「会社に不利になるような事でも、どうぞおっしゃって下さい。私は日光金属の社員ではありませんので、場合によっては会社を敵に回してでも労働者を守るつもりで働いております」

「そう言っていただけると、心強いです」

 雪子の目が少し潤んだように見えた。

「ご主人はこのところ、食欲不振などの不調を訴えていませんでしたか?」

「この一年ほどは仕事が忙しいと言って朝食もそこそこに出かけましたし、夕食は週に一回くらいしか家でとりませんでした。ですから、食欲については何も気がつきませんでした」

「不眠などで悩んでいるご様子は?」

「うーん、なかったと思いますが、私は翔と一緒に早く寝てしまう事が多いので、詳しいことはわかりません。……そう言えばこのところ、時々何か考え込んでいた気もします」

 奈津美は夜の夫婦生活についても訊こうと思ったが、やめておくことにした。矢田順也が自殺にいたるような『うつ状態』に陥っていたか否かを知るために必要な質問だったが、もう少し雪子との距離感が近づくまでは同性といえどもズケズケ訊きにくい。しかし、今の雪子の答えで夫婦間の身体の関係は密接ではなかったと、類推した。

「ご主人は、何を考え込んでおられたのでしょう?」

 奈津美が、雪子の言葉を捕らえて尋ねた。

「その……、主人は心の奥底を見せないんです」

 言葉を選ぶように、雪子がゆっくり答えた。

「人の心の奥底は、誰にもわかりませんよ」

 奈津美が慰めるように言った。

「いえ、その何と言えばよいか……」

 雪子は混乱したように眼を伏せて黙った。数秒後、ためらいがちに雪子が口を開いた。

「主人は私たち母子を大切にしてくれますし、世間的には非の打ち所もない夫だと思います。でも、彼の心の奥底には私が入れない何か、……私たち家族以上に大切にしている何かを持っている気がするんです」

 雪子が慎重に言葉を選ぶように話してから、顔を上げた。彼女の瞳は潤んでいた。その漆黒の瞳をじっと見つめた奈津美は、矢田順也に他の女がいるのではないだろうか?と感じ取った。

「すみません。私も性急な訊き方をしましたね」

 奈津美がねぎらうように言うと、雪子が両手で顔をおおった。奈津美は静かに立ち上がると、雪子の横に座って彼女の肩に手を置いた。

 しばらくすると、雪子が顔を上げた。

「こちらこそ、お見苦しいところを見せてしまいました」

「お忙しいのに会って頂いて、その上に立ち入ったお話までしていただいて、ありがとうございました」

 奈津美がそう言うと、雪子はコクリとうなずいた。彼女の肩をなでていた奈津美は、雪子は美しくも壊れやすい博多人形のようだと思った。

「すみませんでした。もう大丈夫です」

 十秒ほどしてから雪子が顔を上げて、奈津美に礼を言った。

「もう一つだけ、これは一般的な質問なので気を悪くなさらないで欲しいのですが、もしも御主人が他の女性と付き合っていたら、どうされますか?」

 奈津美は、思い切って雪子に踏み込んだ。

「……それは、明確な不義行為です。きっちりと責任を取ってもらいます」

 雪子が静かに、しかしキッパリとした口調で返答した。

「さすが、雪子さん。それは正しい姿勢だと思います」

 厳しい表情になった雪子に、奈津美は力を込めて同調した。それは、あなたの味方になりたいとの無言の意志表示でもあった。

「今日のところは、これで失礼しますね」

 奈津美が雪子をいたわるように言うと、雪子は「はい」と小さく返事をしてお辞儀した。

 玄関のところで、見送りに来た雪子を見た奈津美は不意に「ところで、奥様の身長は何センチですか?」と尋ねた。

「えっと、百六十八センチです」

 雪子が答えた。

「わぁ、私より八センチも高いんですね。雪子さんはスタイルもよくて、うらやましいです」

「そんな……」

 雪子の白い頬がわずかに紅潮した。

「それではまた」

 奈津美は微笑むと、お辞儀をして矢田家を後にした。


 矢田家から出た奈津美は、地下鉄でナルミコムに立ち寄った。ビルの階段を二階に上がって会社に入り、受付カウンターから中に入ると、事務の安藤恵子が愛想よく奈津美に「こんにちわ」と挨拶した。

「社長は?」と奈津美が訊くと、「中にいますよ」と恵子が明るく答えて立ち上り社長室のドアをノックした。

 恵子は高卒後に発足直後のナルミコムに勤めているから、まだ二十歳か二十一歳か、若いなと奈津美は心の中で指を折って数えた。

「いるよ、どうぞ」

 勝也の大きな声が中から聞こえた。扉を開けて奈津美が中に入ると、待ちかねたように勝也が応接セットのソファに「まあ、座って」と席を勧めた。

「ご苦労さん。矢田の奥さんの様子はどうだった?」

 勝也が早速、奈津美へ質問を切り出した。

「少し取り乱した様子もありますが、おおむね落ち着いておられるようでした」

「そうか。矢田に仕事上の悩みとかはあったのかなぁ?」

「それはわかりません。矢田課長は、家ではあまり仕事のことを話さなかったそうです」

「そっかぁ……」

 勝也がドカッとソファに、もたれかかった。

 そこに安藤恵子が、コーヒーを二つ持って入ってきた。まず奈津美に、それから勝也の前にコーヒーカップを置くと一礼してニコヤカに去った。

「日光金属のメンタルヘルス対策は、どうすることにした?」

 コーヒーに砂糖を一さじ入れてスプーンでかき回してから一口飲んだ勝也は、奈津美に尋ねた。彼は親身になって日光金属を心配している。相手に博愛的なまでに親身になれるところを、奈津美は尊敬していた。それに彼と仕事をしていると楽しいし、やりがいも感じる。

「はい。会社の労災担当者と協議する予定ですが、まずは労働省の出した指針に沿って健康障害防止対策から始めてみます」

「ふむ」

「いろいろやるべきことはありますが、取り急ぎ過重労働の実態調査を最優先に進めてゆくことにします」

「ありがとう。……日光金属での過重労働って、ひどいのかなぁ?」

「いえ、実態はこれから調査してゆきますが、帳簿上は労働基準法がしっかり守られています」

「ふむ、大きな問題はないわけだ」

「ただ最近の調査では、過重労働よりも職場の人間関係の方が苦痛に感じる労働者の方が、圧倒的に多いのです」

「へー、過労よりも人間関係か……」

 カップをテーブルに置いた勝也は、天井を仰いで腕を組んだ。勝也が他人の苦しみを自分に置き換えて考えを巡らせていることが、奈津美には感じ取れた。

「でも私がつかんでいる情報はあまりに少なく、今回のケースについては何もコメントできません。……矢田課長について、社長には何かお気づきの点とかはないでしょうか?」

 現況を何とか打開しなくてはいけない。今度は奈津美が、逆に勝也に質問した。

「ここだけの話、実は矢田君を引き抜こうと躍起になっていた会社があったそうだ」

 勝也は前にかがむと、少し小さな声で言った。

「それは矢田さんの死が、自殺にせよ他殺にせよ気になる情報ですね」

 奈津美も、少し前傾姿勢をとって声を落とした。

「そうなんだ。つい最近きいたんだが、正直なところ予想もしていなかった話で驚いている。だから、その辺のところをもう少し探ってみようと思う」

 そう言い終わると、勝也は姿勢を戻した。

「これは俺ばかりでなく、ウチの大口顧客である日光金属にとっても会社の命運に関わる問題になりかねないからね」

「確かに……」

「柘植君、無理するなよ。困ったら何でも俺に言ってくれ」

 勝也は明るく笑って立ち上がると、奈津美の肩をポンと叩いた。彼は明るさと明晰さに包まれている。だから勝也は、いつも人に囲まれている。彼には何かしらの引力があると、奈津美は思う。

 ふと時計を見ると、奈津美は午後の大学の仕事に戻る時間になっていた。勝也といると、時間がすぐに過ぎてしまう。

 勝也に、大学に戻る時刻になってしまったと告げると、「何だ。昼飯でも一緒に行こうと思ったのに」と残念がられた。

「またの機会にお願いします」

 奈津美は心からそう言うと、丁寧にお辞儀をしてから社長室を辞した。

「もうお帰りですか?」

 受付カウンター脇のデスクに座っていた恵子が、屈託のない笑顔で奈津美に言った。

「そうなの。大学の仕事があるからね」

 奈津美がそう答えると、恵子はバイバイと小さく手を振った。勝也の影響か、この女も他の社員たちもあくまでも明るい。勝也の会社っていいなぁと、奈津美は思った。

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