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第四章 夜の帳

 同じ土曜日の夜、鳴海勝也は繁華街の北ハズレにある根本商会のビルで役員たちとの会合があった。事務機器を扱っている老舗中小企業の根本商会は業績が落ち込み倒産の危機がささやかれた時期もあったが、勝也たちが業務効率化を推進して最近は少しずつ上向きになりつつある。

 勝也自身も気分は少しホッとしつつあったが、それでも土曜日だからと言って仕事をしないわけにはいかない。世の中は、こちらが休むとそのすきに他が出し抜いてゆく過当競争の時代になっている。最近は何処でも接待費をギリギリまで削っているので、会場は会議室、食事は簡素な仕出し弁当だった。

 会合も無事に終わって、勝也は地下鉄の駅まで繁華街を歩いて縦断した。クラブやスナックが立ち並ぶ歓楽街を通り抜けようとすると、勝也がよく利用するクラブ「ロゼ」が目に入った。土曜日はクラブやスナックの大半が休みで灯りを落としていたが、何気なくビルを見上げると「ロゼ」だけには灯りがともっていた。

 電気の消し忘れかな?

 そう思った勝也は吸い込まれるようにグレーの外装のビルに入ると、階段を二階まで上がって「ロゼ」を見に行った。店の前まで行くと、入り口の看板にも灯りがともっていた。ここは確か土曜日は営業してなかったはずだがと思いながら入り口の扉を押すと、重厚な木の扉が思いがけず簡単に開いた。

 店の中に入ると照明はついていたが、無人だった。

「今晩は」

 勝也は奥に向かって声をかけてみたものの、店の中は相変わらず静かだった。さらに店の奥に進むと、奥からテレビかラジオの音がかすかに聞こえた。

 もう一度大きな声で「ごめんください」と言ってみた。

 すると奥から、肩口のあいた黒いドレス姿のママが出てきた。ママは丘夕子と名乗っているが、それが本名でないことを勝也は知っている。年齢は明かさないものの恐らく四十歳くらい、夜の街の情報通だ。

 初めて夕子と会ったのは市内有数の老舗クラブ「椿」で、夕子はまだ雇われ管理者である小ママと呼ばれていた。彼女はその老舗クラブから二年前に独立開業して、ここに自分の店を構えていた。

「うわぁ、ビックリしたー」

 奥から出てきた夕子は、勝也を見るなりそう言って、腰をかがめながら右手を自分の胸に当てた。

「ハハハ、随分無用心な店だな。誰も出てこないなんてさ」

「今日はどうしてもやらなくちゃいけない事があったもんだから、お店に出てきて奥で仕事をしていたのよ」

「じゃあ、この店は営業してるわけではないんだ」

「でも、どうせお店で仕事をするんだったら、灯りをつけておくと誰か一人くらいお客さんが来るかもしれない、と思って明るくしておいたの」

「俺みたいな奴が? まさに飛んで火に入る夏の虫だね。ハハハ」

「うまい言い方ね。本当にピッタリだわ。かっちゃんは、夏を待ちきれないせっかちな虫だわ。アハハ」

「……喉が渇いたから、一杯飲ませてくれよ。そうだな、ビールでも、もらおうか」

 勝也はカウンターに腰かけた。

「そうね。私もお相伴するわ」

 夕子はそう言うと、冷蔵庫からビールと二人分のコップを出した。

 勝也は簡単に、今日あった事を夕子に話した。

 彼女も最近のお店の様子を話した。勝也が独立開業したのと同じ年に夕子も独立しているので、たまに経営者同士で愚痴も言い合える仲になっていた。職種こそ違え、仕事での苦労には共通点も多い。

「昔はお互いお気楽に遊んでいたね、今から思うとさ」と勝也が言うと、「本当ね。あの頃は身軽だったわ」と夕子が返した。

 しばらくビールを片手に二人で話していると、夕子は思い立ったように「今日はもう店じまいするわ。外の灯りを消してくるから、ちょっと待ってて」と言って外へ出て行った。

 間もなく帰って来た夕子は、「ねえ、かっちゃん、今から焼肉でも食べに行こうよ」と微笑みながら誘ってきた。

「ああ、いいよ。俺も少し腹が減っているし。でも、そっちの仕事はいいの?」

「いいの、いいの。近くにイイ店があるの。行きましょう!」

 彼女が素早く後片づけを済ませるのを待ってから、二人で店を出て夜の街を歩いた。夕子がさりげなく腕を組んできたので勝也は少し気恥ずかしかったが、いい女を連れて歩くのは悪い気分ではなかった。


 五分ほど歩くと、芸能人も来るというシャレた焼肉屋に着いた。十時半をまわっていたが、店内は結構賑わっていた。

「あぁ、ママ、いらっしゃい。混んでますけど、ママのためならすぐに席を空けますのでお待ち下さい」

 夕子と顔見知りなのか、若い男性店員が笑顔で迎えた。

「悪いわね」

 夕子が勝也と腕を組んだまま笑った。彼女は自分よりも年上だが、その笑顔には可憐さがあると勝也は思った。

 やがて、先ほどの店員がニコニコと席まで案内してくれた。

「かっちゃん、すごくお腹がすいてる?」

 席に座ってメニューを見ながら、夕子は勝也を上目遣いに見た。

「いや、夕方に簡単な弁当を食べたから、それ程たくさんじゃなくていいよ。ママに合わせるよ」

 勝也の答えを聞いてから、夕子は店員を呼ぶとテキパキと注文した。

 間もなく運ばれてきた生ビールで、改めて二人は乾杯した。

「煙草、吸っていい?」

 夕子が少し遠慮がちに訊いた。

「あれ? 禁煙してるんじゃなかったの?」

 勝也は思い出したように、夕子に訊き返した。

「半年ほどやってみたんだけど、先月から再開よ」

 夕子が照れくさそうに答えた。

「俺もまだ少々吸ってるよ」

 勝也が彼女を慰めるように言った。

「フフフ、なーに? 少々って?」

「家でも職場でも禁煙してるってこと。でも、飲みに行くと少々吸うんだ」

「仕方ない人ね」

 夕子が勝也を笑顔でにらむと、自分の小さなポーチからマルボロ・ライトメンソールを取り出して一本勝也にくわえさせた。それから銀色のライターで、勝也のタバコに火を点けた。その煙を、勝也は大きく吸い込むと、久しぶりのニコチンが体中に染み渡る。

「日光金属の矢田順也が死んだのは、知ってるよな」

 紫煙を吐いた勝也は、おもむろに夕子に尋ねた。情報通の彼女なら当然知っていると思ったが案の定、夕子の顔から笑顔が消えてコクリとうなずいた。それから彼女は自分もタバコをくわえると、火をつけ静かに紫煙をはいて「知ってるわ」と短く答えた。

「その矢田は、日光金属の浮沈を賭けた重要な仕事をしていた。だが、彼の死が自殺か他殺か、まだわからないそうだ」

 勝也が、夕子の目を見ながら言った。

「あんないい人が、穏やかじゃないわね」

 夕子が少し肩をすくめて見せた。スポーツマンタイプの矢田は、会社の中でも飲みに来ても快活で明るい男だったと言い足した。

「矢田には、敵はいなかったかな?」

 勝也が知っているのは、矢田の表の顔だけだ。とにかく彼の周辺状況を少しでも多く知って、何としてでも日光金属を早く立ち直らせたかった。このまま新製品が出せないようでは、日光金属がジリ貧になるのが目に見えている。

「敵はいないようだったけど、彼を引き抜こうと躍起になっていた会社ならあるみたいだった」

 夕子が、遠くを見るような視線で答えた。

「そうだったのか。……どこの会社だ?」

「それは、ご想像にお任せします」

 夕子は謎めいた笑みを勝也に投げかけた。これ以上は言えないとばかりに黙った夕子を、勝也は追及しなかった。勝也は今までも夕子には何も無理強いしてこなかったし、これからも彼女との程良い関係を壊したくなかった。

 夜更けとともに店内が少しずつ空いてくると、先ほどのイケ面男性店員がテーブルの横までやって来て話しかけてきた。彼に勧められた赤ワインを飲み、この界隈の状況や噂話を酒の肴に彼と夕子の話を勝也は聞いた。

 そういう噂話の中にも他社の情報や製品開発のヒントみたいなものが漏れ聞こえてくることもあって、楽しそうに振舞いながらも気は抜かずに聞いていた。

 十二時近くなって、二人は満腹になった上、適度に疲れてきたので焼肉屋を出ることにした。

「あ、ここのお勘定、かっちゃんが払っておいてね。その代わり、あなたが今日うちの店で飲んだ分はおごっておくわ」

 夕子がちゃっかり言った。

「アハハ、ありがとう」

「帰りもちゃんと車で送ってよ」

「はいはい、喜んで」

 焼肉屋を後にして、タクシーを拾うために大通りまで二人はブラブラと繁華街を歩いた。土曜日のせいか、街を行きかう人の数は平日に比べると少なく若い人々が多い。

「真っ直ぐ送って行けばいい?」

 勝也は自分の腕を軽くつかんで歩いている夕子に訊いた。返答次第では、このままもう少し彼女と一緒に過ごしたいと思った。

「……そうしてもらおうかな? 帰って寝るわ」

 やや間があってから、彼女は前を向いたまま歩きながら答えた。

「俺もそうするわ」

 勝也は素直に引き下がった。

「……マイちゃんって、知ってるよね?」

 歩きながら、夕子がふと思いついたように言った。

「ああ、ロゼにいる背の高いコだね」

「あのコなら、矢田さんについて少し詳しいかも」

 夕子が意味深に言ってから、大通りを見た。

 マイはロゼに一年余りいるが、その前はキャバクラで売れっ子だったと噂に聞いた。整った顔立ちにスリムなスタイル、頭も口もよく回転する明るい女だった。

「鳴海さんには正直に言うけど、前の店では女の子の若返りを図ってね、私も若くはないから移ってきたの」と酔ったマイが、前に自分で話していたのを思い出した。色っぽいマイの年齢は不詳だが、おそらく三十代だと勝也は踏んでいた。

「……マイちゃんと矢田は親しかったの?」

 勝也は愚問だと思いながら、夕子に訊いてみた。

「さあ、……まあ、いろいろある世界だからね。私も長くここにいたのものだから、何があってもあまり驚かなくなっちゃった」

 夕子はそう言って軽く笑うと、空車のタクシーを見つけてサッと手をあげた。勝也の目には、夜のネオンがいつもに増して怪しげな光を放っているように見えた。

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