第三章 謎の女
翌土曜日の夜七時に卓司が、奈津美の勤める西都大学を訪ねてきた。
彼は今朝、警察が堀池駅の防犯カメラの記録写真から、矢田が亡くなった時に女がホームにいたことを突き止めたと携帯メールで奈津美に知らせた。
奈津美は、ぜひ詳しく知りたい。久しぶりだから一緒に食事でもしない?と返信した。そんな経緯で、卓司は仕事を終えるとここまでやって来た。
大学は尾張市街地東端の丘陵地帯にある。関西線から中央駅で地下鉄に乗り換えて、二十分ほどの東山駅を出て左手にある長い坂を歩くと五分ほどで正門を通り抜けた。
中に入ると両側の森に囲まれるように左右に校舎が建っている。正門から左手で数えて三番目に人文学部の建物があり、二階に上がってから右手に進むとすぐの部屋が奈津美のいる「精神分析学研究室」だった。卓司は扉を軽くノックをしてから、中に入った。
土曜日のせいか、二十畳ほどの研究室には奈津美しかいなかった。
「たくちゃんは昔から時間に正確ね」
整然と本棚やデスク、コンピューターが並ぶ部屋の窓際から、奈津美は微笑んで卓司に歩いて近づいた。
「なっちゃんの頼みだ。怖くて断れないよ」
小さい頃は卓司よりも奈津美の方が体格が良かった。幼稚園の頃までは、三重の祖父母の家の裏山で真剣に取っ組み合って、奈津美が卓司をよく泣かせていた。なっちゃんに関節技をかけてねじ伏せられると本当に死ぬかと思うほど痛かったよと、大人になってから卓司はよく話した。
今は卓司が百七十二センチあり、奈津美より十センチあまりは背が高くなっているし、警察という仕事柄、武道の鍛錬も欠かしていないから別に恐れるには足らないはずだが、そういう幼児体験から彼はいまだに奈津美には弱いようだ。
二人の祖父母の家は古くは伊賀忍者だったと伝えられる旧家で、しきたりや礼儀作法にはうるさく育てられた。祖父母は三重市郊外で精密機器を扱う小さな町工場を経営していて、奈津美の父親はそれを継いでいた。
曾祖父は職業軍人で、高射砲中部方面連隊を率いたと聞かされていた。並はずれた視力を持っていた彼は、夜陰に乗じて飛来する米軍機を発見するのが得意だったそうだ。彼の日本陸軍双眼鏡は、卓司が譲り受けて今も形見として大切に持っている。
奈津美と卓司は、小さい頃から祖父母に柘植家の伝統をいろいろ教えられた。屋敷の裏手に広がる里山によく遊びに連れていってもらい、武術を習ったり木登りや野遊びをしながら鍛錬もした。
映画やドラマにあるような派手な『忍法』など現実にはないが、祖父母の教えの中で相手の心を読んだり催眠術に興味を持った奈津美は、それをもっと学びたいと大学の心理学科に進学した。
奈津美と同じように祖父母からの影響を受けて育った卓司は、警察の仕事を選んだ。伝来の武道や尾行術は、彼の仕事の役に立っている。ちなみの卓司の父親は三重大学文学部の教授で、その道の権威として活躍している。
奈津美の研究室の窓からは林が見えて、どこか祖父母と過ごした森を思い出させた。今見える林の奥には二基の照明塔に灯りがともったテニスコートがあって、玉を打ち合っている学生達の声が時おり木々の隙間からもれて聞こえた。
「これがその女の画像なんだ」
グレーのスーツにストライプのネクタイ姿の卓司が、黒いビジネス鞄から数枚の白黒写真を取り出して、奈津美の机の上に時系列に並べた。
「ふーん。電車の運転士の証言どおりだったのね」
並べられた写真に見入った奈津美が答えた。
ホームの屋根方向から十秒おきに撮られた写真は鮮明とは言えなかったが、小さなつばのついたニット帽をかぶり黒っぽいハーフコートに黒いパンツとブーツをはき、襟元には白っぽいマフラーを巻いた人物が矢田と一緒にホームの南端に立っているのが見えた。百七十七センチある矢田の隣に寄り添うように立つ人物は、百七十センチ弱と想像できた。
次の写真には特急列車がホームに現れて矢田の姿はなく、うつむき加減の女がカメラに向かってくるのが写っていた。
「はっきりわからないけど、スタイルの良い美人のようね」
やや不鮮明な画像だったが、帽子から眉まで伸びた黒髪の下に筋の通った鼻と唇が見えた。
「ああ。……だけど、女の力で矢田をホームから突き落とすとは考えにくい。何らかの事情を知る目撃者としては、重要な人物だと思う」
「そのとおりね」
その後の記録写真には女の姿はなく、こつ然と消えたかのようだった。
「反対側に着いた普通電車に乗った線も消えたわね」
特急列車が通過した後に、反対側のホームに到着した電車の写真を見ながら、奈津美がため息混じりに言った。電車からはサラリーマン風の中年と若い男が降りただけで、乗り込む客が見当たらなかったからだ。
「どこかに死角はないかなぁ?」
卓司が机の上に並べた十枚ほどの写真を、もう一度丹念に見返した。
「矢田さんの奥さんが、この女と同じくらいの背丈だわ」
奈津美が、改めて矢田の隣に立つ人物の写真を見てポツンと言った。
「何! じゃあ、これは矢田の奥さん?」
「いえ、わからないわ。暗がりで小さく写っているから、はっきりしたことは言えないけど何となく似てる……」
そう言いながら、奈津美は再度じっと写真を見つめた。
「そうか……」
卓司は思わず腕組みをした。もしも写真の女性が矢田の奥さんだったら、矢田を油断させてホームから突き落とせるかも知れない。卓司は、そう言いたげだった。
「ねえ、亡くなった矢田には、自殺したり殺されたりする原因はあるのかしら?」
写真を見ていた奈津美が、卓司に向かって静かに言った。
「それなんだが、有力な情報はまだない。だから捜査も、矢田の周辺の事情を探っているらしい」
愛知県警の同僚から捜査資料を送ってもらった卓司は、彼から聞いた情報をそのまま伝えた。
「なるほど」
「……殺人事件の動機ってさ、色、金、怨恨の三つがほとんどなんだ」
卓司が、まるで先生か解説者のように奈津美に話した。
「へー、そう聞くと人間が人を殺すきっかけって意外に単純なのかもね……。ああ、人が精神状態を崩す原因もほとんど三つなのよ」
奈津美も先生のように卓司に話したが、彼女は実際に大学の先生でもある。
「えー、何?」
卓司は、出来の悪い生徒のように頭をかいて尋ねた。
「プライド、こだわり、被害者意識」
奈津美が一本一本指を立てて、卓司に教えた。
「ふーん。自殺だとすると、そのあたりの事情を調べてみる必要がありそうだね。矢田の心が折れるような出来事が最近あったのかどうか。……でも、遺書がないんだよな」
「発作的な自殺というケースもあるわ」
「あっ。昨日なっちゃんが言ってた希死念慮?」
「そう。発作的自殺だと、その場まで希死念慮がなかった可能性もあるわね。そういうケースでは当然、遺書なんかない」
「そうか」
「もっともずっと以前から希死念慮はあったんだけど、他人から見えないように隠していた場合もあるから一概には言えないわね。これから遺書めいたものが出てくるかも知れない」
「うう、脅さないでくれ。何だか、真相が皆目わからなくなってきたよ」
「アハハ、私は、いろんな可能性が考えられるってことに気がついたわ。ところで、この女の写真を借りてもいいかしら?」
「どうぞ、愛知県警の友人から送ってもらった資料だ。何ならJPEGの原本を送ろうか?」
「うん、ありがとう、たくちゃん」
奈津美が卓司に微笑んだ。
それから二人は大学を歩いて出た。奈津美が卓司に、夕食をご馳走する約束だったからだ。今回のことでいろいろ世話になったお礼のつもりもあったし、久しぶりに従兄とゆっくり食事をしたい気持ちもあった。
正門を出て坂を下ると地下鉄駅近くの大通りにはお洒落なビルやマンションが立ち並び、さまざまな店もあった。週末のせいか、人通りは比較的多かった。
西に向かって少し歩くと、右手の小高い丘に東寺という古くて大きなお寺がある。江戸時代に建てられた寺の荘厳な門と本堂の屋根が、丘の上に威風堂々と見えた。
その東寺の参道入り口の右脇にある小さなビルの地下一階に、こじんまりとしたスペイン料理のレストランがあった。二人が階段を下りると「バル」という看板の、大きなガラス窓のついた凝った趣の木枠の扉があった。奈津美はその扉を押して中に入った。
「いらっしゃいませ」
白シャツに黒いスカートと短い黒エプロンをした小柄な女性が、ニコニコと奈津美たちを迎えた。
「今日は従兄を連れてきたの。普段は田舎にいるから、都会的な店を紹介したくてね」
奈津美も店員に負けない笑顔で答えた。
「ハハ、なっちゃん。三重はそれほど田舎じゃないよ」
卓司が苦笑すると、店員は三重なら近いですから是非ご贔屓にと、如才なく卓司に笑顔で言った。
「マスターにスペイン料理やワインについて教わるといいわ」
奈津美はそう言うと、店の右側にあるカウンター席にさっさと座った。
左側にはテーブル席が四つあり、白壁を基調とした店内には濃い色の木のテーブルと椅子が並べられスペインを意識していた。二つのテーブル席には、若い女性たちのグループが腰掛けて楽しそうにお喋りをしながら食事をしていた。
「ああ、いらっしゃい」
奥から白地に黒ボタンのコック服を着た男が顔を出した。
「いい男を連れてきたと思ったら、従兄さんですか」
長い髪を後ろで結んで口ひげを生やしたコックは、奈津美を見て笑いかけた。
「マスター、悪かったわね。でも、わりといい男でしょ。それなのに、彼女がいないらしいのよ」
奈津美がいたずらっぽく笑った。
「そう言われれば、お二人は何となく似ていますね」
マスターが、カウンターに並んで座った二人を交互に眺めて言った。
「この女も悪くないと思うけど、まだ片思いの彼氏しかいないらしいよ」
卓司が奈津美に負けじと、言い返した。
「ハハハ、まあまあ、お二人とも。……ところで今日は何にします?」
「お勧めは、黒板に書いてあるお料理ね」
奈津美がカウンターとテーブル席の間に立っている黒板を見た。
「はい。あそこに書いてあるタパスを順に出しましょうか」
タパスとは、スペインの小皿料理だと、奈津美が卓司に小声で教えた。それから奈津美は人差し指を顎に当てて、「そうね。生ハムとエビ、野菜のマリネをお願い。それからシェリー酒も」と注文した。
「はい。それでは、料理に合わせて少し辛口の物をご用意しましょう」
マスターは女店員に「シェリーはあれを」と目配せすると、料理をするために奥へ引っ込んだ。童顔の女店員が、緑色のボトルとグラスを二つ持ってきて二人の前に置いた。
「りょうちゃんはここで働いて何年になるの?」
奈津美が女店員を、りょうちゃんと呼んだ。
「三年になりますね」
りょうちゃんが、薄い琥珀色の透明なシェリー酒を二つのグラスに注いだ。
「……というと、何歳になるの?」
奈津美が不躾に尋ねた。
「ハハハ、二十六歳になっちゃいました」
二つのグラスを静かに二人の前に置くと、りょうちゃんは明るく笑った。彼女の笑顔は可愛かった。
「へー、私と一歳しか違わないんだ。若く見えるわね」
奈津美は、思わずうらやましそうな声を上げてしまった。
「ありがとうございます。シェリーはお料理に合わせて、少し辛口の物をご用意しました」
りょうちゃんが、少し照れた表情で説明した。
「ありがとう」
奈津美は礼を言うと、卓司と軽くグラスを合わせて乾杯した。口の中にはしっかりしたシェリーの味が広がった。その様子を見届けてから、りょうちゃんが奥の仕事を手伝いに引っ込んだ。
「なっちゃんは、矢田の死をどう思っているの?」
グラスから口を離した卓司は、奈津美に尋ねた。
「わからない。でも、私はお通夜の時の奥さん、雪子さんの様子が、どうも引っかかるの」
「引っかかる?」
「そう、小さな子供を抱えて、これからどうしようと普通なら取り乱すところを、妙に落ち着いていてね」
「……冷静な人なのかもしれない」
「そうかもね」
案外あっさりと奈津美はうなずいた。雪子の心を読むには、もう少し距離感を近づけないと無理だと思ったからだ。そこに、奥からマスターが小皿料理を持って現れた。
「はい、本日一品目のタパス、マリネでございます。今日は良いマッシュルームが入ったから、後ほどメイン料理としてイカと混ぜてオリーブオイルで煮立てるのはいかがしょう?」
「おもしろい。それをお願いします」
奈津美が笑顔で答えた。
「マスターには、こだわりのオリーブオイルがあるんですよ」
カウンターの中に戻って来たりょうちゃんが、ニコニコとしながら言った。
「こだわり……。さっき、なっちゃんが言ってたよね。こだわりが精神を崩すんだっけ?」
卓司が復習する生徒のように、白い天井を見上げて言った。その後ろでは、テーブル席の若い女性客たちが歓声をあげた。女子大生のグループのようで、何やら楽しい話をしているらしい。
「はい、よくできました。あとはプライドが崩されて被害者意識が生まれると精神は壊れやすい」
奈津美が機嫌よく言った。
「それは何ですか?」
マスターがニコヤカに二人に尋ねた。
「いや、こだわりとプライドと被害者意識が強すぎると、人は精神を病むそうです」
卓司が覚えたての知識を誇らしげに披露した。
「じゃあ、私のこだわりもいけない事なのでしょうか?」
マスターが少し緊張した表情で奈津美に訊いた。
「いえ、程ほどにこだわるのは悪いことじゃないわ。逆に良い職人はこだわりを持たないと、名品を作れないでしょ。程度問題よ。……マスター、シェリー酒のお代わりをちょうだい」
「シェリーも程ほどにしておかないと、味がわからなくなりますよ」
マスターはそう言って笑うと、りょうちゃんに「次は少しマッタリ系のあれを」と指示して奥に引っ込んだ。
「マスターも言うわね」
奈津美が肩をすくめて見せた。りょうちゃんが、先ほどのものより濃い色の液体をグラスに満たして、二人の前に置いた。
「ねえ、たくちゃん。昨日の晩の私たちの画像を見てみたくない?」
四分の一ほどグイとシェリーを呑んだ奈津美が突然、素敵なことを思いついた少女のような表情で卓司に言った。
「そんな画像、なんで見たいねん」
思わず卓司は伊勢弁で返した。彼は少し酔っていた。
「いや、私たちってどんな風に写真に写るんかなぁと思って。それに……」
奈津美が人差し指を下あごに当てた。卓司はしばらく奈津美を見つめて待っていた。
「それに、矢田の横にいた女がどうやって姿をくらませたのか?」
十五秒後くらいして、奈津美がようやく言った。
「なるほど。それは俺も気になってる。反対側の普通電車に乗ってないなら、階段を降りて駅から出たとも考えられる」
「駅員は二人とも女を見ていない……」
「どういうことか?」
そこへマスターが、茶色の深皿にオリーブオイルをグツグツ沸騰させた中にイカとマッシュルームの入った小皿料理を「お待たせ」と運んできた。
「うわ、熱いけどおいしい」
フォークで一口マッシュルームを食べてみた奈津美が、マスターに言った。
「本当においしいです」
香ばしいイカを食べた卓司は、感嘆の声をあげた。
「そうそう、良いオリーブオイルには不飽和脂肪酸が多く含まれていて、うつ病の発症リスクを低下させる作用があるんだって、管理栄養士の先生が教えてくれたわ」
奈津美が、マスターと卓司に言った。
「へー」
卓司とマスター、りょうちゃんの三人は期せずして同じ声をあげた。
「ほかには青魚にも不飽和脂肪酸がたくさん入っているから、それらを組み合わせた美味しい料理があるとストレス解消にいいかもね」と奈津美が言うと、マスターが「そのアイデア、もらいました」と指をパチンと鳴らして笑った。
従兄妹同士二人の週末の夜は、楽しく過ぎていった。